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最初の楔


昼休みの静寂館。


三日目の昼休み、凪は同じ椅子に座っている。

同じ椅子。同じ場所。同じアクリル板。

なのに、座り心地が毎日変わる。昨日より深く、体が沈む気がする。


この場所に馴染んできている。

それが少し怖い。


澪は机の向こうで、本を伏せたまま待っていた。

凪が座る前から待っていた空気がある。椅子の位置が微調整されている。ほんの数ミリ、アクリル板に近い。


「報告」


一語。

疑問形ですらない。「報告しろ」でもない。ただ「報告」。

それだけで凪の口が開く。条件反射みたいに。三日で、もうこうなっている。


凪は頷いた。ポケットの中で指を握る。昨日見た景色を、言葉の形に並べ直す。


「望月さやかです」


澪のまつ毛が、一度だけ揺れた。

表情は変わらない。口も動かない。

ただ、まつ毛が揺れた。それだけで、凪の中に「当たり」が落ちた音がした。


正解を持ってきた。

その感覚が、想像より嬉しい。嬉しいことが、少し気持ち悪い。


「理由」


澪の声には温度がない。促しているのに急かしていない。ただ「次の言葉を出せ」という圧だけがある。


「……蓮が笑う前に、笑う人です」


凪は昨日の廊下を思い出す。映像が、静寂館の薄暗い空気の中で再生される。


「蓮が誰かに突っ込まれた瞬間、真っ先にフォローしてた。『蓮くん優しいのにね』って、たった一言で場の空気を戻した」


澪は瞬きもせずに聞いている。


「蓮が笑うと、望月さんが一番先に笑う。その笑いを合図に、周りが笑う。……順番が、あるんです。望月さんが起点になってる」


言いながら凪は、自分の観察に驚いていた。

昨日まで見えなかったものが見える。澪の言葉がフィルターになって、景色の解像度が上がっている。


澪は小さく首を傾けた。右に、ほんの少し。


「あなた、見えるようになってきた」


褒め言葉。

のはずなのに胸がざわつく。

「見える」ということは、もう「見えなかった頃」に戻れないということだ。


嬉しいのと、怖いのが、同じ場所で鳴っている。


澪は一拍置いて、淡々と続けた。


「じゃあ次。楔を打つ」


「楔……」


「小さいやつ。木が裂ける前の、最初の一本」


凪は眉を寄せた。


「望月さんに、何かするんですか」


澪の視線が、凪の表情をなぞった。上から下へ。眉の角度、口元の力み、肩の高さ。全部読んでいる。


「したくない?」


凪は答えに詰まった。


望月さやかは、敵なのか。

蓮のそばにいるだけの人間だ。蓮を支えているだけの人間だ。支えることは、悪いことなのか。


でも——その「支える」が、蓮の物語を延命させている。

蓮が誰かを泣かせても平気でいられる空気を作っている。


善意が、加害の土台になっている。


「……壊したいのは、蓮です」


凪がそう言うと、澪の口角がほんのわずかに動いた。笑いではない。地図の上に印を落とすような、確認の動作。


「いい。なら、壊さない。ズラす」


「ズラす?」


「役割を、意識させる」


澪はペンを取った。何かを書くのかと思ったが、書かない。ペン先を机に置いただけ。その仕草が「ここからが手順」という区切りに見えた。


「給餌係は、無意識に餌を与えてるから強い。自分が何をしているか分かっていない。好意だと思ってる。習慣だと思ってる」


凪は頷く。昨日の望月の笑顔を思い出す。

あの笑いに計算はなかった。自然で、滑らかで、たぶん本物だった。


「逆に言えば——自分が“餌を与えている”と気づいた瞬間、遅れる」


遅れる。

たったそれだけで、何かが変わるのか。


でも凪は昨日、見た。

望月の笑いが起点で、空気が回っている。あの起点が一拍でも遅れたら、空気の歯車が噛み合わなくなる。


「あなたがすることは二つ」


澪は指を二本立てた。白い指。細いのに、空気を仕切る力がある。


「一つ。望月さやかを褒める。蓮の話じゃない。望月自身を」


凪は意外で、まばたきした。


「……褒める?」


「褒められると、人は自分を意識する。“私がやっていること”を外から名前をつけられると、次からそれを意識せずにはいられない」


澪の声は平坦だ。でも言葉の刃が鋭い。


「自分を意識した給餌係は、次の一言が遅れる。たった一拍。でも空気は一拍で変わる」


凪は息を止めた。

一拍。

あの輪の呼吸が、一拍ズレるだけで——。


「二つ目」


澪が続ける。


「蓮の“台詞”を、望月に見せる。ただし——」


澪は一度言葉を切った。珍しい間だった。


「これは仕掛けじゃない。観察。蓮が勝手にやる。あなたはきっかけを作るだけ」


凪は眉を寄せる。


「きっかけ……?」


「蓮の前で、第三者を褒める。蓮が得意なのは“俺も”と乗ること。誰かが褒められると、自分も褒め返したくなる。——それが彼のリズム」


澪は淡々と言う。


「蓮は望月に感謝の言葉を言うかもしれない。その直後、別の人間にも同じ言葉を使うかもしれない。彼はそれを無意識にやる。同じ言葉を、同じ温度で、何人にでも」


「……やらない可能性もありますよね」


「ある」


澪は即答した。


「だから賭け。今日出なければ、明日。明日出なければ、明後日。でも必ず出る。彼はそういう構造だから」


澪は凪を見た。まっすぐに。


「焦らない。今日は種を撒くだけでいい。望月を褒める。それだけでも十分」


凪は少しだけ肩の力が抜けた。

「今日中にやれ」じゃない。「種を撒け」。その言い方が、凪の臆病さを許容していた。


澪は最後に、声のトーンを少しだけ落とした。


「やりすぎない。血は出さない。——小さく刺すだけ」


そして、短く付け足した。


「佐伯くん向き」


凪は反射的に顔を上げた。

自分の性格まで手順に組み込まれている。設計図の部品にされている。

それが嫌なのに——「あなたに合っている」と言われた気がして、胸の奥が少しだけ温かくなる。


(この人は、俺の弱さを使う。でも、弱さを否定しない)


それが救いなのか、罠なのか。たぶん、両方だ。


澪の声が、一段柔らかくなった。ほんの一瞬。


「できたら報告して。……褒めるから」


凪の心臓が、勝手に一つ跳ねた。


褒める、と言った。

報酬の予告。まだ何もしていないのに、ご褒美の形だけ先に見せる。

餌だと分かっている。分かっているのに、欲しくなる。


凪は立ち上がった。椅子が小さく鳴る。


「……行ってきます」


言ってから気づいた。まるで家を出る挨拶みたいだ。ここが帰る場所みたいな言い方だ。


澪は何も言わなかった。

ただ、アクリル板越しに凪を見送った。

その無言が「行ってらっしゃい」に聞こえたのは、凪の錯覚だ。


錯覚だと分かっているのに、背中が温かい。


---


静寂館を出ると、音が殴りかかってくる。


廊下の笑い声。靴音。どこかの教室から漏れる音楽。

昼休みの学校は騒がしい。静寂館の沈黙に慣れた耳には、すべてが大きくて雑で、少し痛い。


凪は渡り廊下を早足で戻りながら、手のひらを見た。

汗は出ていない。でも指先が冷たい。

これからやることを考えると、心臓が嫌な速さで動く。


(望月さんに、話しかける)


それだけのことが、凪には重い。


凪は「輪の外側」の人間だ。

話しかけられれば答える。聞かれれば話す。でも自分から輪に入ることは、ほとんどない。入ろうとすると体が固くなる。声が喉に張りつく。場違いな自分を笑われる想像が、一瞬で膨らむ。


しかも相手は蓮の輪だ。

学園の中心。一番目立つ場所。一番、凪から遠い場所。


(でも——やるって言った)


澪に「行ってきます」と言った。

報告すると約束した。

空手で帰ったら、澪は何も言わないだろう。責めもしないだろう。ただ、あの目で見る。

それが、一番きつい。


凪は廊下の角で立ち止まった。

蓮の輪が見える。いつもの場所。いつもの配置。蓮が中心で、取り巻きがゆるく囲んで、笑い声が絶えない。


望月さやかは、蓮の斜め後ろ。いつもの半歩。


凪は息を吸った。吐いた。もう一度吸った。


頭の中で台詞を繰り返す。

「望月さん」——呼びかけ。

「望月さんがいると、周りの空気やわらかくなりますよね」——褒める。蓮じゃなく、望月を。


口の中が渇いている。


(……行け)


凪は歩き出した。足が重い。

教室の自分の席から黒板まで歩くのとは違う。重力が二倍になった廊下を歩いている気分だ。


輪に近づくと空気が変わる。

蓮の周りの空気は柔らかいのに、外側から入ろうとすると膜がある。見えない膜。所属していない人間を弾く膜。


凪は輪の端で立ち止まった。

心臓がうるさい。周りに聞こえるんじゃないかと思うくらい。


望月さやかの横顔が近い。

彼女は蓮の話を聞いて、小さく笑っている。いつもの笑い。いつもの速度。


凪は口を開いた。

声が出るかどうか、自分でも分からなかった。


「望月さん」


——出た。


声は思ったより小さかったけれど、望月には届いた。

望月が振り向く。驚きは小さい。すぐに“感じのいい顔”になる。その切り替えの速さが、もう役割だった。


「なに? 佐伯くん」


名前を覚えられていることに少し驚く。凪は望月と話したことがほとんどない。

でも望月は、クラスが違っても名前を呼べる人間だ。それもたぶん“給餌”の一種なのだろう。


凪は言葉を選ぶふりをせずに——実際は頭の中で何度も選び直しているが——言った。


「望月さんがいると、周りの空気やわらかくなりますよね」


望月の笑顔が、一瞬だけ止まった。

止まった。口角の位置はそのまま、目の形もそのまま。

でも、笑顔の駆動が一瞬切れた。


「え、なにそれ……そんなことないよ」


「あります」

凪は、そこで声を強くしない。押し込まない。

ただ、言葉だけを置く。


「たぶん望月さんが先に笑うから。……それで、みんな安心して笑えるんだと思います」


褒めている。

でも同時に、「あなたが空気を動かしている」と名前をつけた。

名前をつけられたものは、もう無意識には戻れない。


望月の目が、わずかに泳いだ。

鏡を急に見せられた人の目。


「……佐伯くん、面白いこと言うね」


笑い。でも、さっきまでの笑いと質が違う。

少しだけ、自分の笑い方を確かめるみたいな笑い方だった。


(——入った)


凪はそこで引いた。押しすぎない。血は出さない。

これ以上は楔じゃなくなる。


凪は「じゃあ」と軽く頭を下げて、輪から離れようとした。


そのとき、蓮が口を開いた。


「佐伯くん」


凪の足が止まる。


蓮が、笑顔のまま凪を見ている。柔らかい目。敵意はない。少なくとも、表面には。


「昨日のこと……ひなたのこと、心配してくれてたんだよね。ありがとう」


凪の腹の奥が、一瞬冷えた。


蓮がこちらに話しかけてきた。凪の存在を認識して、名前を呼んで、礼を言った。

蓮の“優しい俺”の射程に、凪が入った。


凪は少しだけ頭を下げた。


「……いえ。ひなたが元気ならよかったです」


蓮は頷いた。満足そうに。

そしてすぐ、望月に目を向けた。


「さやかも昨日、ひなたのこと気にしてくれてたよね。ありがとう」


望月が小さく笑う。「うん、当然だよ」。

その笑いは、さっきまでよりわずかに遅い。凪の言葉がまだ残っている。


蓮は同じ温度のまま、反対側の取り巻きにも言った。


「あ、君も。いつもフォロー上手いよね。ほんと助かってる」


同じ言葉だった。


同じ滑らかさ。同じ角度の首の傾き。

同じ「助かってる」の響き。


凪は見ていた。

望月の顔を、見ていた。


望月のまつ毛が、一度揺れた。

笑顔は崩れていない。崩さない。簡単には崩れない。

でも——目の奥の温度が、ほんの一瞬だけ下がった。


「私だけ」が、揺れた。


蓮の「ありがとう」は特別じゃなかった。

同じ言葉を、同じ空気で、何人にでも言える。


望月はたぶん、今まで気づかなかった。気づかないでいられた。

でも今日、凪に「あなたは空気を整えている」と名前をつけられた直後だったから——蓮の言葉の形が、急に見えてしまった。


凪は静かに輪を離れた。

誰も凪を引き止めなかった。凪が来たことすら、もう忘れ始めている。


それでいい。

透明であることが、今日は武器になった。


---


廊下の端。壁際の窓。凪の定位置。


凪はそこにもたれて息を吐いた。

長い息。肺の底まで空にする息。


手が震えていた。

小さく。指先だけ。


緊張の残滓だ。

自分から輪に入って、言葉を選んで、刺して、引いた。

凪の人生で、あんなことをしたのは初めてだ。


心臓がまだ速い。

でも嫌な速さじゃない。走った後の鼓動に似ている。きつかったけれど止まらなかった。


(……やった)


望月さやかの笑顔が止まった一瞬。

蓮の言葉が二人に並んだ瞬間。

望月の目の奥が冷えた、あの一瞬。


全部、見えた。

見えたことが怖い。

でも——見えたことが嬉しい。


澪が言った通りだった。褒めれば意識する。意識すれば遅れる。

そして蓮は、自分から同じ台詞を使い回す。望月はそれを見てしまう。


全部、澪の読み通りだった。


(あの人の言葉は、当たる)


その事実が凪の中で静かに重さを増していく。

信頼に似ている。でもたぶん、信頼よりもう少し危ない場所にあるもの。


凪は壁に背中を預けたまま、静寂館の方向を見た。

渡り廊下の先。古い扉。

あの向こうに、アクリル板と、冷たい声がある。


報告したい。


今すぐ戻って「望月さやかが一拍遅れた」と伝えたい。

澪がそれを聞いて何を言うか知りたい。薄い口角が動くのを見たい。


——褒めるから。


さっき澪が言った言葉が、耳の奥で鳴る。


凪は知っている。

それは報酬の予告だ。行動を引き出すための、甘い餌。

分かっているのに、欲しくなる。


でも——昼休みはもう終わる。

終了まで、あと五分もない。


今から静寂館に戻る時間はない。

戻ったとしても、落ち着いて話せない。言葉を渡す前にチャイムが鳴る。


明日。

明日の昼休み。

あの椅子に座って報告して、澪の声を聞く。


凪はポケットの中で指を握った。


何も持っていない。

澪の「褒めるから」も「逃げないで」も、手元には残らない。

残るのは、胸の中の音だけだ。


なのに、糸がある気がした。

静寂館と、この廊下の端を繋ぐ、見えない糸。


凪は教室に向かって歩き始めた。

何食わぬ顔で席に座る。いつも通り。誰にも気づかれない。透明な凪。


でも今日の透明は、昨日と違う。


透明な自分を——誰かが見ている。

アクリル板の向こうで、待っている人がいる。


明日の昼休みが、遠い。


「よくできました」


まだ言われていない言葉を、凪は頭の中で聞いた。

澪の声で。澪の温度で。


聞こえるはずのない声が、こんなに鮮明なのは——

たぶん、もう遅いのだと思う。


何かが、始まっている。


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