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交換条件②:黒歴史


昼休みの静寂館。


四日目にもなると、渡り廊下の空気の変わり目が分かるようになる。

校舎側の喧騒が薄れて、古い紙の匂いが混じり始める境界線。凪の足は、その境界を迷わず越えた。


慣れた、とは思いたくない。

慣れたと認めたら、ここが自分の場所になってしまう。

自分の場所になったら——出られなくなる。


アクリル板の向こうで、澪は本を閉じたまま顔を上げない。

凪が椅子に座る音を聞いてから、ゆっくりと視線を持ち上げる。順番を決めているのだ。「あなたが先に座れ。私はそれを受け取る側」。そういう力関係が、動作の中に編み込まれている。


「報告」


四日目も、最初の言葉はそれだった。

もう驚かない。驚かないことに、少しだけ驚く。


凪の口は、言い訳の形を作らなかった。

昨日までは前置きが出ていた。今日は出ない。澪の前では前置きが削られていく。必要な言葉だけが残る。


「望月さやかが——笑うのを、一拍遅らせました」


澪の指先が、机を一度だけ叩いた。乾いた音。静寂館の空気を小さく割る。


「根拠」


凪は息を吸って、昨日の廊下を再生する。


「俺が話しかけたあとです。『望月さんがいると、周りの空気やわらかくなりますよね』って言ったら——笑顔が、一瞬止まりました」


澪の目が、凪の口元に触れる。言葉の精度を確かめるように。


「目が泳いで、自分の笑い方を確かめるみたいな顔になった。そのあと蓮が冗談を言ったとき、望月さんの反応が一拍遅れた。いつもなら一番先に笑うのに」


凪は一度、言葉を切った。

もう一つ、報告することがある。


「それと——蓮が、望月さんに『ありがとう』って言ったあと、すぐ隣の女子にも同じ言葉を言いました。同じ温度で。同じ顔で」


澪の瞳が、ほんのわずかに光った。

光った、というより焦点が合い直した。「そこまで見えたか」という確認の光。


「望月さんの目の奥が、一瞬だけ冷えました。笑顔は崩さなかった。でも——」


「“私だけ”が揺れた」


澪が、凪の言葉を引き取った。

凪が言おうとしていたことを、凪より先に、凪より正確に言う。


凪は口を閉じた。

引き取られるのは悔しいはずなのに、悔しさより先に安堵が来る。自分の観察が正しかったと、澪の口から証明された安堵。


澪はようやく姿勢を変えた。椅子の背にほんの少しだけ体を預ける。微かな動作なのに、空気が緩む。「報告、受理した」という合図に見えた。


「楔は入った」


それだけ。短い。たったそれだけ。

なのに凪の胸の奥が、小さく鳴った。


承認に似ている。でも、承認より体温が低い。

低いのに、深い場所に届く。


「まだ割れてない。割るのは、次」


凪は頷く。

次。次の手順。次の勝ち。

この人の隣にいると、「次」が常にある。終わらない。止まらない。それが怖いはずなのに、安心する。


澪がペンを指の間で転がした。人差し指と中指の間で、小さく、正確に回転する。考えているときの癖——なのか、それとも凪に「ここからが本題」と伝えるための演出なのか。もう区別がつかない。


「佐伯くん」


名前を呼ばれると、体が勝手に応える。背筋が伸びる。呼吸が浅くなる。


「次の助言が欲しい?」


質問の形をしている。

でも、答えは一つしかない。「いらない」と言ったら、ここに座っている意味がなくなる。


「……はい」


「じゃあ、交換条件」


澪の声のトーンが、半音だけ低くなった。

低くなると空気が締まる。アクリル板の厚さが薄くなったように感じる。板一枚の距離が、縮まる。


「二つ目」


凪の指先が、膝の上で硬くなる。


「あなたが過去に一番“最低だった”と思うこと。一つ」


凪の呼吸が、止まった。


劣等感は——言えた。苦しかったけれど、言えた。自分の弱さを晒すだけだったから。

でも「最低だったこと」は違う。弱さじゃない。加害だ。自分が誰かを傷つけた記憶だ。


澪は待っている。

昨日と同じ待ち方。急かさない。逃げてもいい空気を作る。でも、逃げたくなくさせる。


(言いたくない)


強く、そう思った。

言いたくない。今までの交換条件の中で、一番言いたくない。


でも——言わないと、進まない。

進まないと、蓮は今日も中心にいる。ひなたの笑顔は今日も“上手い”ままだ。


凪はアクリル板の下端を見た。

澪の目を見ながらは、言えない。目を見たら、言葉が喉で固まる。


「……中学のとき」


声が、自分のものじゃないみたいに薄い。

空気に溶けて消えそうなくらい頼りない声。


「クラスの中心にいた男子がいて。明るくて、人気で。みんなに好かれてて」


凪は一度、言葉を切った。切らないと息が続かない。


「……俺は、その人が嫌いじゃなかった。話しかけてくれることもあったし、悪い人じゃなかった」


澪は微動だにしない。

聞いている。聞いている密度が、空気の重さで分かる。


「でも、羨ましかった。あんなふうに、教室の真ん中にいられることが。声を出せば誰かが笑ってくれることが。俺には——できないから」


凪の喉が引き攣った。唾を飲む音が、静寂館では大きすぎる。


「……匿名で、噂を流しました」


言った。言ってしまった。


澪の表情は変わらない。

変わらないことが、逆に怖い。責めてくれたほうが楽だ。責められれば、少しだけ罰がつく。


「たいした内容じゃないです。『あいつ調子乗ってる』『いい人ぶってる』……そういう、薄い悪意」


“薄い”。

そう言うことで、自分を守ろうとしている。凪にはそれが分かっていた。薄かろうが濃かろうが、やったことは同じだ。


「広まるとは思ってなかった。でも——広まった」


凪の指先が、ズボンの布を握った。力が入りすぎて、爪が布越しに太ももに食い込む。


「その人が、少しだけ孤立した。輪の中心にいたのに、端っこに移動した。俺が流した言葉のせいで」


凪は息を吐いた。吐くと体が少しだけ軽くなる。

でも軽くなった分だけ、次の言葉が重くなる。


「俺は——安心しました」


声が、震えた。


「あの人が中心から外れて、俺は安心した。ざまあみろ、って思った。一瞬だけ。一瞬だけど——確かに思った」


凪の目の端が熱い。泣いてはいない。泣くほどの資格がない。自分で誰かを傷つけておいて泣くのは卑怯だ。


「そのあとすぐ怖くなって、気持ち悪くなって。でも取り消せなかった。謝れなかった。謝ったらバレるから。……結局、卒業まで黙ってました」


沈黙。


静寂館の空気が、凪の言葉を吸い込んで、静かに沈殿していく。


「……最低だと思います。今でも」


言い切った。


体が冷たい。指先だけじゃなく腕まで冷えている。

恥ずかしさと自己嫌悪と、それでもまだ「俺だって苦しかった」と言い訳したがる自分への怒り。全部が混ざって、冷たくなる。


澪は、すぐには何も言わなかった。


沈黙が長い。

五秒か、十秒か。静寂館では三秒が十秒に感じる。


凪は責められるのを待ってしまう。「最低だね」と言われる準備をしてしまう。言われたほうが楽だ。罰を受ければ少しだけ許される気がするから。


でも澪は、罰を与えなかった。


「うん」


ただ、肯定の音を落とした。

否定でも赦しでもない。「聞いた」という音。


「あなたは“殴れない人”じゃない」


凪が顔を上げる。


「殴れる。殴った。——そのあとに、自分を殴る人」


凪の胸の中で、何かが外れた。

堰が抜けたのではない。ずっと噛み合っていなかったパズルのピースが、正しい場所に落ちた感覚。


澪は凪を「優しい人」とは言わなかった。「弱い人」とも言わなかった。

「殴ったあとに、自分を殴る人」。

それは評価じゃない。構造だ。凪という人間の動き方を、ただ正確に記述しただけ。


なのに——救われた。

名前をつけられることで、自分の輪郭が見える。輪郭が見えると、少しだけ息ができる。


澪の目が、凪をまっすぐ見た。

冷たい目。でも奥のほうに——何かが灯っている。興味。あるいは、もっと個人的な何か。


「恥ずかしい顔」


澪は、静かに言った。


「……覚えておく」


凪の頬が熱くなった。

自分の最低な部分を見せた瞬間の顔が、この人の記憶に刻まれる。


嫌だ。嫌なのに、心臓が速い。

嫌だと思っている裏側に、「覚えていてくれる」ことへの小さな喜びがある。


澪はすぐに温度を戻した。

切り替えが鮮やかだ。さっきの柔らかさは幻だったかのように、声が冷たく正確になる。


「取引成立。あなたは黒歴史を差し出した。だから、助言を渡す」


手順に戻る。

凪も呼吸を整える。感情から思考へ。澪のペースに乗ると、その切り替えが早くなる。それも慣れだ。慣れたくないのに、慣れていく。


澪はペンを机に置いた。


「次にやることは、殴ることじゃない」


凪は顔を上げた。


「蓮の“台詞”を集める」


「……台詞?」


「蓮は優しさを量産する。相手に合わせているように見えて、同じ言葉を同じ温度で配っている。あなたは昨日、それを見た」


凪の脳裏に、蓮の「ありがとう」が蘇る。望月に言った「ありがとう」と、隣の女子に言った「ありがとう」。同じ角度の首の傾き。同じ形の笑顔。金型から抜いたように同じ。


「受け取る側には“特別”に見える。でもログにすると、全部同じ形をしてる」


ログ。

その言葉が、凪の頭の中で硬く光った。


「佐伯くんは、殴らない。だから“形”で勝つ。感情じゃない。記録で勝つ」


澪が指を一本立てた。


「いつ。誰に。同じ言葉を。——時系列。これが武器になる」


凪は息を吸った。


時系列。記録。証拠。

それは凪一人でできることじゃない。観察はできても、蓄積と整理は——。


「でも俺は、編集とかログとか——」


「だから、道具を使う」


澪は凪の不安を、言い終わる前に切った。


「人。美濃部玲央。放送部の編集」


その名前を聞いた瞬間、凪の胃が小さく沈んだ。


美濃部玲央。放送部。

凪とは接点がほとんどない。廊下ですれ違っても会釈すらしない距離の人間だ。話し方が速くて、空気が軽くて、凪が一番苦手とする種類の「慣れた人」。


「彼は感情では動かない。データで動く。あなたが“ネタ”を持っていけば、乗る」


澪は淡々と言う。

凪の不安を知った上で、不安ごと手順に組み込んでいる。


「今日やることは二つ。望月の楔は放置していい。勝手に育つ」


澪は指を二本立てた。


「一つ。玲央に会う。『蓮の同じ台詞を時系列で集めたい』と伝える」


凪の喉が、きゅっと締まった。


「二つ。今日から自分でもメモを取る。いつ、誰が、何を言ったか。三行でいい」


三行。

三行なら、できる。たぶん。


凪は頷いた。頷くしかなかった。


澪が少しだけ目を細めた。観察。凪の頷きの深さと速さを、測っている目。


「できたら——」


言葉を切る。

わざとだ。間を作って凪の意識を引きつけてから落とす。毎回同じ構造なのに、毎回かかる。


「……褒める」


凪の心臓が、一つ跳ねた。


分かっている。報酬の予告。行動を引き出すための餌。

分かっているのに、欲しい。


「行きなさい。昼休みは有限」


凪は立ち上がった。椅子が小さく鳴った。


「……行ってきます」


また言ってしまった。帰る場所に向けて言う言葉を、出発するときに使っている。ここが起点になっている。


澪は無言で見送った。

その無言の中に「行ってらっしゃい」がないことを、凪は知っている。言わないのに背中が温かい。


---


放送室の扉の前で、凪は止まった。


扉の向こうから声が漏れている。笑い声とキーボードを叩く音。「それ面白い」「編集でなんとかなる」。言葉が速い。会話のテンポが速い。凪が一番苦手な速度だ。


凪は自分の手を見た。

震えてはいない。でも指先が冷たい。


(……帰りたい)


正直にそう思った。

ここは凪の場所じゃない。静寂館の沈黙とは真逆の空間だ。音が多くて、空気が軽くて、人と人の距離が近い。


でも——帰ったら、明日の報告が空になる。

澪の前に座って「できませんでした」と言う自分を想像した。澪は責めないだろう。怒らないだろう。ただ、あの目で見る。何も言わずに見る。


それが、一番きつい。


凪は息を吸った。吐いた。もう一度吸った。


胸の中で台詞を反芻する。

「一ノ瀬蓮の同じ台詞を集めたい」。

これだけ言えばいい。これだけ伝えれば、あとは玲央が判断する。


凪はノックした。指の関節が扉に当たる音が、思ったより大きかった。


「……失礼します」


「どーぞー」


返事が速い。考える間がない。凪は扉を開けた。


放送室は、想像より狭かった。

機材が棚に積まれていて、机の上にノートPCが二台。缶コーヒーの空き缶がモニターの横に置いてある。甘い匂いと機械の匂い。


椅子に座っているのが、美濃部玲央だった。


髪は適当に整っている。整えているのか整っていないのか分からない中間。目だけがやけに冷静で、画面から視線が離れない。


凪が入っても、玲央はすぐには顔を上げなかった。キーボードを数回叩いてから、ようやく目を向ける。


「……誰?」


凪の喉が詰まった。


名前を言うだけだ。たったそれだけなのに口が重い。

放送室の空気は静寂館と違って、沈黙を許してくれない。黙っていると「早く喋れ」と空気が急かす。


「二年B組の、佐伯です」


「佐伯」


玲央は名前を復唱して、一拍だけ黙った。記憶を検索している顔。たぶん引っかからない。凪はそういう存在だ。


「何。用件」


余計な挨拶がない。

ありがたい。世間話を挟まれると、凪は三秒で言葉を失う。


凪はポケットの中で指を握った。爪が掌に食い込む。痛みで、声を押し出す。


「一ノ瀬蓮の——同じ台詞を、集めたいです」


玲央の眉が、わずかに動いた。興味か、警戒か。あるいは両方。


「台詞? 何それ、切り抜き動画でも作んの?」


「……切り抜きじゃなくて。時系列で」


凪は澪の言葉をなぞる。借り物だ。でも、借り物でも正確なら伝わる。


「いつ、誰に、同じ言葉を言ってるか。それを並べたいんです」


玲央が椅子の背にもたれた。肘を机について、指先で顎を触る。


「目的は」


凪は一瞬、迷った。

嘘をつけば安全だ。「レポートの資料です」と言えば深追いされないかもしれない。


でも——嘘はやめた。


嘘をつくと、澪の前に座ったとき見抜かれる。見抜かれることより、見抜いたあとの沈黙が怖い。


「橘ひなたが——泣かされました」


凪は正面から言った。声が思ったより太かった。


「蓮の“優しい俺”を、崩したい」


玲央の目が、初めてまっすぐ凪を見た。画面越しではなく、直接。


ふっ、と鼻で笑った。


「重いな」


でも嫌な笑い方じゃなかった。馬鹿にしているのではない。「面倒なことを持ってきた」という重さを測る笑い。


「ソースは?」


凪は一拍、遅れた。


ソース。証拠。裏付け。

持っていない。凪の手元にあるのは、昨日の観察と澪の分析だけ。


盛ることもできた。でも——


「……まだ、ないです。これから作ります」


正直に言った。


言った瞬間、後悔が来た。断られる。「ソースもないのに来たの?」と呆れられる。


玲央は黙った。三秒。凪には十秒に感じた。


それから、玲央は画面に目を戻してキーボードを叩いた。


「作るなら、土台いるだろ」


凪の心臓が跳ねた。


玲央が画面をくるりとこちらに回した。

去年の文化祭のアーカイブ一覧。動画ファイルが日付順に並んでいる。サムネイルの中に、蓮の顔がいくつも見えた。


「生徒会の広報用に残してるやつ。音声データも生きてる。テキスト抽出もできなくはない」


玲央はさらっと言った。

さらっと言っているが、やっていることは大きい。過去の発言の記録が、丸ごと手に入る。


「同じ言葉が多いタイプなら、並べれば浮く。……ま、やってみる価値はある」


凪の胸の奥が熱くなった。

勝ちの熱だ。まだ勝っていないのに、「勝てるかもしれない」という予感だけで体が熱くなる。


「……いいんですか」


「いいも悪いもない。俺は公平にやるだけ」


玲央は肩をすくめた。


「嘘が嫌いなんだよ。データは嘘つかないから、好き」


「条件」


玲央が人差し指を一本立てた。


「お前もメモ取れ。現場の“生データ”がないと、アーカイブだけじゃ片手落ちになる。日付、場所、誰に何を言ったか。短くていい」


「……分かりました」


凪は頷いた。頷けた。


アドレスを交換したあと、玲央はPCに向き直って何か操作をした。数秒後、凪のスマホが震えた。


「共有リンク送った。フォルダの中にアーカイブ入ってる。見とけ」


凪はスマホを取り出して画面を見る。

無機質なフォルダ名。中に並ぶファイル。日付と短い説明。整理されている。玲央の仕事は速い。


「明日、お前の現場メモ持ってこい。突き合わせる」


玲央はもう画面を見ている。凪への興味は用件と同時に終わったらしい。


「……ありがとうございます」


「礼いらない。結果出せ」


玲央の声は画面に向いていた。

突き放しているのではない。「礼を言う暇があったら動け」という合理的な優しさだった。


凪は放送室を出た。


扉を閉めた瞬間、息を吐いた。

長い息。肺の底まで空にする息。


手が震えていた。小さく。指先だけ。

緊張の残滓。五分もいなかったのに、体は三十分走ったみたいに消耗している。


でも——手の中にある。


凪はスマホの画面を見た。共有リンク。フォルダ。アーカイブ。

“形”がある。昨日までの武器は、澪の言葉と自分の目だけだった。今日から、記録がある。


凪は廊下を歩き始めた。

教室に向かう足が自然と速くなる。心臓がまだ速いけれど、嫌な速さじゃない。走ったあとの鼓動に似ている。苦しかったけれど止まらなかった鼓動。


画面を、もう一度見る。

見れば見るほど、報告したくなる。


澪に見せたい。

「道具を手に入れた」と言いたい。

「勝ち筋が太くなった」と報告したい。


そして——


(褒めてほしい)


素直に、そう思ってしまった。

思った瞬間、顔が熱くなる。


まただ。

褒められたい。認められたい。「よくできた」と言われたい。

澪の声で。澪の温度で。


分かっている。

これは報酬の予告だ。達成して、褒められて、次の条件が出る。

回し車だと分かっているのに、走りたくなる。


凪は渡り廊下の手前で足を止めた。

静寂館の方向を見る。古い扉。あの向こうに、アクリル板と冷たい声がある。


今から行けば——と、一瞬思う。


でも渡り廊下を渡るだけで一分はかかる。扉を開けて椅子に座って、言葉を整える。

昼休みの残り三分では、足りない。


凪は目を閉じた。


(明日だ。明日、全部報告する)


明日の昼休み。

あの椅子に座ってスマホの画面を見せて、望月の楔と玲央の協力を報告する。


澪は聞く。冷たい目で聞いて、短い言葉で整理して。

そして——何と言うだろう。


「よくできました」


まだ言われていない言葉が、凪の頭の中で再生される。

澪の声で。澪の温度で。

聞こえるはずのない声が、鮮明に聞こえる。


その鮮明さが、怖い。

まだ言われていない褒め言葉を、ここまで正確に想像できるのは——もう、かなり深い場所にいるということだ。


凪はスマホをポケットにしまった。

しまっても、画面の光が指に残っている気がした。


教室に戻る。

席に座る。何食わぬ顔で。透明な凪に戻る。


でも今日の凪のポケットには、二つのものが入っている。

共有リンクと、明日の報告。


どちらも、澪に渡すためのものだ。


凪は窓の外を見た。

渡り廊下は見えない。静寂館も見えない。

見えないのに、そこにある。


明日の昼休みが、遠い。

昨日も同じことを思った。一昨日も思った。

毎日遠くて、毎日、確実に近づいている。


その繰り返しが——たぶん、依存という名前を持っている。


凪はまだ、その名前を口にしない。

口にしたら、認めることになるから。


でも体は、もう知っている。


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