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2/18

交換条件①:劣等感


昼休みの静寂館。


凪は昨日と同じ椅子に座っている。

アクリル板越しの澪は、昨日と同じ姿勢で、同じ温度の目をしている。

何も変わっていないのに、今日のほうが緊張する。


昨日は勢いで来た。怒りがあった。ひなたの笑顔があった。

今日は、自分の意思で来ている。

自分の意思で来たということは、逃げる言い訳がない。


「——最初の一つ。言って」


氷室澪の声は、静かだった。

静かなのに、出口の灯りだけを消す。気づいたら、ここにいるしかなくなっている。


アクリル板越しの瞳が、凪の胸の奥を見ている。

見ている、というより待っている。

凪が自分で蓋を開けるのを、じっと待っている。


何を差し出す?


昨日の問いが、まだ空気の中に残っていた。

一晩経っても消えなかった。布団の中で何度も反芻して、答えを用意しようとして、全部捨てた。用意した言葉は嘘になる気がしたから。


凪は唇を開きかけて、閉じた。


言葉にした瞬間、それは“秘密”じゃなくなる。

自分の中にしかなかったものが、この人の手札になる。

渡したら返ってこない。


(……それでも、俺は来た)


自分で来た。

誰にも言われていない。黒羽に行くなと言われたのに来た。

つまり、これは選んだということだ。


凪は息を吸った。

肺の奥まで空気を入れると、少し落ち着く。

落ち着くふりができる。ふりでも、ないよりましだ。


「……俺は」


声が細い。

自分の声なのに、他人の声みたいに頼りない。


澪は急かさない。

机の上の指先を止めたまま、ただ待っている。

沈黙に苛立ちがない。「いつまでも待てる」という余裕が、逆に凪を追い詰める。逃げてもいい空気を作ることで、逃げたくなくさせる。


凪は視線を、アクリル板の下端に落とした。

澪の目を見ながらは、言えない。


「……俺、自分が“いない”みたいに感じることがあるんです」


言った。

口から出た瞬間、言葉が空気に触れて形が決まる。もう飲み込めない。


澪の気配が変わった気がした。

表情は動かない。視線の角度も変わらない。

ただ、聞く密度が上がる。


否定しない。肯定もしない。

続けろ、とだけ言っている。


凪は続けた。止まったら、もう言えなくなる。


「クラスにいても、話してても……俺がいなくても、たぶん普通に回る感じがして」


声がわずかに震えた。聞こえないくらいに。


「昨日も、廊下で……ひなたのことがあって、みんな蓮の周りに集まって。俺はあの輪に入れないし、入ろうともしなかった。見てるだけで。いつもそうなんです」


苦笑するつもりだった。

自分を笑って軽くして、楽にするつもりだった。

けれど笑えなかった。顔の筋肉が、拒否した。


「目立ちたくないって言い訳してますけど……本当は、目立てないだけで」


喉が引き攣る。


「目立ったら、笑われるのが怖いだけで」


言った瞬間、胸の底が冷たくなった。

本音を口にすると体温が下がる。嘘をついているときのほうが、体は温かい。


「……ひなたが、人気者じゃないですか」


橘ひなた。

あの上手すぎる笑顔。輪の中心で、誰とでも話せて、誰にでも好かれる。


「ひなたが輪の中心で笑ってるとき、俺は……安心するんです。ああ、今日も普通だ、って。ひなたが笑ってるなら、世界はまだ大丈夫だ、って」


凪は喉を鳴らした。

つばを飲む音が、静寂館ではやけに大きい。


言いたくない部分が、まだ奥に残っている。

底に沈んだまま、重さだけで存在を主張してくる。


「でも同時に——」


声が掠れた。


「……羨ましい」


その一語が、思ったより重かった。


「羨ましくて、腹が立つ。あんなふうに、人の真ん中にいられることが。あんなふうに、誰かに必要とされてみたいって思う」


凪は視線を落とした。

膝の上で、指先が白くなっている。いつの間にか、ズボンの布を握っていた。


「親友のことを羨ましいって思って、しかもそれに腹が立って……」


最後の一言を押し出す。


「……そう思う自分が、嫌いです」


言い切った。


静寂館の空気が変わった気がした。

軽くなったわけじゃない。むしろ濃くなった。

でも、息ができる濃さだった。


さっきまで喉を塞いでいたものが外に出て、その分だけ肺に余裕ができた。


澪は目を細めた。

まつ毛の影が、頬の上でわずかに動く。


「それが、あなたの劣等感」


言い切り。

でも、刺すための言い切りじゃない。

凪が散らかしたものを、澪が一つの箱に入れた。名前をつけて、蓋を閉じた。

それだけで少し楽になる。


「“いないみたい”でいたいくせに、“必要とされたい”。矛盾してる。でもあなたはその矛盾を、壁にしてる」


凪は何も言えない。

当てられるのは嫌いだ。

でも、当たっている。当たっているものを否定するほうが、もっと苦しい。


澪は少しだけ身を乗り出した。

アクリル板の向こうで、影の位置が変わる。数センチ。

それだけで距離が詰まった気がした。板一枚が、薄くなる。


「……今、ちゃんと言えた」


声が少し柔らかくなる。

澪の声に、初めて角のない音が混じった。


「いい子」


凪の背中を、何かが撫でた気がした。

冷たい手で、一度だけ。優しく。


褒め言葉だ。甘い。確かに甘い。

なのに、甘さの底に硬い芯がある。飴の中に金属が入っているみたいな。


凪は鼓動が速くなっているのを感じた。


(……今、嬉しかった)


嬉しいと思った自分が、怖い。

たったそれだけで心拍が変わる自分が、怖い。


澪はすぐに温度を戻した。

何事もなかったみたいに座り直して、淡々と続ける。


「取引成立。あなたは劣等感を差し出した。だから私は、助言を渡す」


声はもう、分析者のそれだった。

さっきの甘さは影も残っていない。切り替えが速すぎて、あの「いい子」が幻だったのかとすら思う。


凪は思わず顔を上げた。


「……本当に、助けてくれるんですか」


「助ける。正確には——勝たせる」


助ける、と、勝たせる。

似ているようで違う。

助けるは手を差し伸べること。

勝たせるは、結果を約束すること。


澪は後者を選んだ。その選び方が、この人の性格だと思った。


澪は机の上のペンを、指先で転がした。

回転は小さく、正確。乱れない。

考えている癖なのか、それとも凪に“見せて”いるのか。


「一ノ瀬蓮は、人を泣かせてる自覚がないわけじゃない」


凪は息を止めた。


「罪悪感はある。でも彼はそれを“演出”に変換できる。『傷ついた俺』『それでも優しい俺』。痛みすら自分の舞台に乗せる」


昨日の蓮が浮かぶ。

廊下で手を振る蓮。「ひなたのことは、俺が守るよ」と言った蓮。

あの声は確かに優しかった。優しいからこそ、気持ちが悪かった。

あの違和感に、澪が名前をつけた。


「彼にとって周囲は観客。拍手が必要。『優しい俺』を証明してくれる視線が必要」


澪の言葉は、現実を一段削って骨だけを取り出す。

肉も皮も感情も落として、構造だけが残る。

見えすぎて怖いのに、納得できてしまう。


「だから崩し方は明確。観客を奪う。拍手を止める。……ただし」


澪の目が凪を捉えた。

矢みたいにまっすぐ。


「あなたが正面から殴ったら、あなたが悪者になる。蓮は“被害者”に回れる。もっと同情を集められる」


凪は唇を噛んだ。

そうだ。蓮は、被害者をやらせたらもっと強い。

攻撃すればするほど、蓮の武器が増える。


「……じゃあ、どうすれば」


「殴らない。飢えさせる」


さらりと言われた言葉が、胸の底で冷たく光った。


「彼を生かしてるのは、本人の力じゃない。周囲が与えてる餌。特に——給餌係」


「給餌係……?」


「承認の餌を毎日供給する人」


短い。たったそれだけ。

でも像が浮かぶ。笑い、頷き、空気を整える人間たち。その中の——誰か。


「その人を見つけなさい」


澪は指を一本立てた。

昨日と同じ、空気を切る指。


「条件は三つ。観察だけでいける」


一つ目。


「蓮が誰かに責められた直後、真っ先に近づく」


二つ目。


「蓮が笑ってる時、いちばん早く笑う。いちばん早く頷く」


三つ目。


「蓮がいない場所でも、蓮の話題を作る。空気を守る」


三つの条件が、凪の頭の中に並ぶ。

リストではなく、フィルター。

これを通せば、蓮の周りの人間が一人に絞られる。


澪は最後に声のトーンを落とした。


「給餌係は、善人の顔をしてる。善意でやってることもある。だから見つけにくい」


凪の喉が詰まった。

善意。善人。

悪意よりずっと厄介だ。善意で誰かを壊せる人間は、自分が壊していることに気づかない。


「……見つけたら?」


「報告して。明日。同じ時間」


澪はアクリル板越しに凪を見た。

表情は変わらない。でも目の奥に、微かな確認の光がある。

“ちゃんと繋がった”という確認。


「逃げないで」


「……逃げません」


凪は反射的に言ってしまった。

言った瞬間、言葉が“約束”に変わった。

約束は一人では成立しない。相手がいて初めて重さを持つ。

つまり——今、澪との間に糸が一本結ばれた。


澪の口角が、ごくわずかに上がった。


「今の言い方、嫌いじゃない」


それだけ。

なのに凪の胸の中で、何かが震えた。


嬉しさとも違う。安心とも違う。

名前のない感覚が、肋骨の内側にぶつかって跳ね返って、消えない。


凪は静寂館を出た。


渡り廊下を戻ると、音が戻ってくる。

昼休みの喧騒。笑い声。足音。誰かが名前を呼ぶ声。

さっきまで静寂館にいた耳には、全部が少し痛い。


(……さっきまで、息がしやすかった)


静寂館のほうが楽だった。

薄暗い空間。古い紙の匂い。アクリル板越しの声。

現実の廊下より、あちらのほうが“本物”みたいに感じた。


それが、怖い。


凪は教室へ戻らなかった。

廊下の端の窓際に寄って、壁にもたれた。

目立たない位置。人の流れの外側。

自分の定位置。


ここから、蓮の周りが見える。


蓮は相変わらず中心にいた。

笑っている。頷いている。誰かの肩を軽く叩いている。

みんなが蓮に合わせて笑い、蓮に合わせて頷き、蓮を中心に空気が整っていく。


——いや。


空気は勝手に整っているんじゃない。

整えている“誰か”がいる。


澪の言葉が、フィルターになって視界を変える。


一つ目。蓮が責められた直後、真っ先に近づく人間。

二つ目。蓮が笑ったとき、いちばん早く笑う人間。

三つ目。蓮がいない場所でも、蓮の話題を守る人間。


凪は視線を滑らせた。

蓮の右。男子が二人。空気を“作って”はいない。

蓮の左。女子のグループ。笑っているが、蓮が黙れば黙る。受動的だ。


蓮の——斜め後ろ。


少しだけ距離を取っている女子がいる。

真横じゃない。半歩だけ後ろ。

輪の中にいるのに主張しない位置取り。

でも会話の隙間に、必ず声を入れている。


声が大きいわけじゃない。

笑いが派手なわけでもない。


でも、笑いが早い。


蓮が冗談を言う。

周りが反応する、その一拍の前に、その女子が笑っている。

小さく、柔らかく。でも確実に最初に。


その笑いが合図みたいに周囲の笑いを起動させる。

彼女が笑ったから、笑っていい空気になる。

そういう順番だった。


凪の指先が、無意識にポケットの中で固くなった。


(三つ目は、まだ確かめてない。けど——外れない気がする)


女子が、蓮の言葉の終わりに合わせて、柔らかく言った。


「さすが蓮くん。そういうところ、本当に優しいよね」


周りが頷く。

蓮が、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。

安心したのだ。“認められた”と確認して、安心した。


その一瞬を、凪は見逃さなかった。


(蓮は、あの一言がないと不安なんだ)


凪の胸の奥が冷たくなる。

同時に、澪の声が頭の中で鳴る。


——給餌係は、善人の顔をしてる。


優しいよね。

その言葉は嘘じゃないのかもしれない。本気で思っているのかもしれない。

だからこそ機能する。

本物の善意が、蓮の承認欲求を養い続けている。


凪は、女子の名前を思い出した。


——望月。

望月さやか。


名前が出た瞬間、景色が変わった。

さっきまでただの“蓮の周りの人”だった女子が、“装置”として見え始めた。


(……これが、澪の見ている世界か)


フィルターを一枚通しただけで、人間関係が構造になる。

感情が削ぎ落とされて、機能だけが残る。

見えすぎて少し気持ち悪い。

でも——目を逸らせない。


凪は壁から背中を離した。


明日、報告しに行く。

何を差し出して、何を受け取るか。その取引がまた始まる。


そのとき、ふいに別のことを思ってしまう。


(……澪に「嫌いじゃない」って言われたの)


嬉しかった。


認めた瞬間、顔が熱くなった。

耳の後ろから頬にかけて、じわりと温度が上がる。

恥ずかしい。腹が立つ。自分に腹が立つ。

たった一言で心拍が変わる自分が情けない。


でも、その熱は消えない。

消そうとすると余計に残る。


凪は廊下を歩き始めた。

教室に戻る。昼休みが終わる前に、何食わぬ顔で席に座る。

誰にも気づかれない。いつも通り。


でも今日は——いつも通りの“透明”が、少し違って感じた。


誰にも見えていない。

でも、一人だけ見ている人がいる。


アクリル板の向こうで。

静寂館の奥で。


——逃げないで。


澪の声が、まだ耳の奥に残っていた。

残っているのに、不快じゃない。


それが一番、怖かった。


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