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静寂館


橘ひなたは、笑っていた。


昼休みの廊下。窓から差す光が、いつもより白くて、やけに眩しい。

笑い声の中心にいるはずの彼女が、今日は輪の外側に立っている。


「……ひなた?」


佐伯凪が呼ぶと、ひなたは顔だけを向けた。

口角は上がっている。目も細くなっている。

笑っているのに、顔の筋肉だけが仕事をしている感じがした。


「なぎー。ごめん、あとでね」


声は明るい。いつも通りの、ひなたの声。

なのに“あとで”の温度だけが、すとん、と低い。


凪はその一言で分かった。

あとで、は来ない。

ひなたの“あとで”が本物のときは、もっと雑で、もっと軽い。

こんなに丁寧な“あとで”は、嘘だ。


俺の胸の真ん中あたりが、小さく軋んだ。

何が起きたか、まだ分からない。

でも、体のほうが先に知っている。


廊下の反対側から、拍手みたいなざわめきが起きた。

近づく必要はないのに、足が勝手にそちらへ向かう。

嫌な予感は、いつも足から先に動く。


人の輪の中心にいるのは、一ノ瀬蓮だった。


背が高くて、髪が整っていて、笑うと誰でも安心する顔。

蓮の周りの空気だけ、いつも柔らかい。まるで照明の色が違うみたいに。


「……心配してくれてありがとう。大丈夫。ちゃんと話し合ったから」


蓮はそう言いながら、周囲に向けて軽く手を振った。

力の入っていない、自然な動き。

自然すぎて、練習したみたいだった。


(あの手の振り方、覚えがある)


凪は思い出す。去年の文化祭。蓮がステージの上から客席に手を振ったとき、まったく同じ角度だった。

あれは“俺は正しい”を全身で演じる仕草だ。


「ひなたのことは、俺が守るよ。変な噂とか、広げないでほしい」


守る。

その一語が、凪の耳の中で何度も跳ねた。


蓮は守る、と言った。

でもその視線は、ひなたを一度も見ていない。

見ているのは周りの顔。周りの反応。周りの空気。

ひなたは蓮にとって、話題の中心にはいても、視界の中心にはいない。


(守る、って言葉は——こんなに薄く使えるんだ)


凪の喉の奥が、ひっそりと詰まった。

怒りが腹の底から上がってくるのに、手足が冷えていく。指先の感覚が少しだけ遠い。


凪はいつもそうだった。

腹が立つ前に、仕組みを見てしまう。

蓮の言葉は、ひなたのためじゃない。あの言葉が守っているのは、蓮の面子だけだ。


——でも、それが分かったところで、凪には何もできない。


分かることと、動けることは、違う。


輪の外で、ひなたがまた笑った。

周囲に合わせる笑い。口の形だけ整えて、目の奥は止まっている。

凪にだけ見せる笑いじゃない。


(笑うな、ひなた。そんな顔で笑うな)


言えない。言う資格があるのかも、分からない。


凪が目を逸らすと、すぐ横に黒羽慎吾が立っていた。


学年主任。背広の袖を少しまくって、いつも忙しそうな大人。

生徒にとっては“廊下にいると気まずい人”だ。


黒羽は凪を見て、眉も動かさずに言った。


「佐伯」


呼ばれただけで、背筋が伸びる。教師の声には、そういう力がある。


「……先生、俺、何かしましたか」


「顔がしてる」


「……顔?」


「止めたい顔だ」


凪の呼吸が、一瞬止まった。

読まれた、と思った。自分でもまだ形になっていない感情を、外から名前をつけられた。


黒羽は小さく息を吐いた。疲れた息だ。教師の疲れには、生徒には分からない種類のものが混じっている。


「今すぐ何かするな。ここで動くと、お前が悪者になる」


「でも……」


「“でも”は、あとだ」


黒羽の声は低く、短い。

反論を許さないのではなく、反論する隙を与えない話し方だった。


黒羽は廊下の奥——人通りの少ない渡り廊下の先を、視線だけで示した。

あそこは静寂館。特別棟。

古い図書室があるだけで、普段は誰も近寄らない場所。


凪は、聞いたことがある。

あそこに、隔離されている生徒がいる、と。

天才。異常。人を壊す。噂だけが廊下の隅に転がっている。


黒羽は低い声で続けた。


「行くな。……本当は行くなと言いたい」


「……じゃあ、なんで教えるんですか」


黒羽の目が、一度だけ揺れた。

教師の目じゃなかった。もっと個人的な、何かを諦めた人間の目だった。


「止めたいのに止められない時がある。お前も、その顔だ」


凪の胸の奥が、嫌な音を立てた。

図星だ。図星を刺されると、怒りより先に、恥ずかしさが来る。


黒羽は言い切る。


「どうしても行くなら——心を渡すな。渡したら戻れない」


「……心?」


「心だけじゃない。人間関係ごと、持っていかれる」


冗談にしては目が真剣すぎた。

忠告にしては、重すぎた。


「……静寂館、ですよね」


黒羽は頷いた。


「鍵は開けておいた。司書には話を通してある。……責任は俺が持つ」


凪は言葉を失った。

教師が“責任”という言葉を持ち出すとき、それは軽いものじゃない。


「扉は開いてる。だが、入るかどうかは、お前が決めろ」


凪は一度だけ、ひなたの方を見た。


ひなたはまだ笑っていた。

上手すぎて、苦しい。


(俺はあの笑い方を、見て見ぬふりできるか?)


答えは、出ていた。

出ていたから、足が動いた。


凪は走らなかった。走ると目立つ。

目立てば蓮の世界のルールに引っかかる。

だから歩く。歩幅だけが、少しずつ速くなった。


---


静寂館は、校舎の喧騒から切り離された場所だった。


渡り廊下を渡ると、空気が変わる。

音が一段落ちる、というより、音が吸い込まれる。

足音が短くなって、自分の呼吸がやけに近く聞こえた。


空気に、古い紙の匂いが混じる。

埃っぽいのに、不思議と不快じゃない。

誰かがずっとここにいる気配が、匂いの中に畳まれている。


入口の札に、細い字で書いてある。


『静寂館 許可なき立ち入りを禁ず』


禁ず。

堅い言葉だ。けれど扉は、本当に開いていた。


(これ、わざとだ)


凪は手をかける前に、自分の指先を見た。

汗は出ていない。

なのに手が冷たい。緊張しているのに、体が静かだった。怒りの熱はもう引いていて、代わりに、何か別のものが胸の底に座っている。


好奇心、とは違う。

祈りに近い。ここに、答えがあってくれ、という。


扉を押すと、鈍い音がした。

古い木が軋む音。この扉を最後に開けたのはいつだろう、と思うくらい重かった。


中は薄暗い。

窓の外の光だけが、細い筋になって床を斜めに切っている。

本棚が高く並んでいて、天井近くまで続いている。背表紙の色は褪せていて、どの本も長いこと開かれていないように見えた。


でも、埃が少ない。

誰かが、毎日ここにいる証拠だった。


奥に、アクリル板が見えた。


透明な壁。天井から床まで仕切る一枚の板。

その向こうに、机と椅子が一組。


面会室みたいだ、と凪は思った。

犯罪者と面会する場所。あるいは、何かを“封じている”場所。


凪の足が止まった。

怖いのではない。怖くないことが、怖かった。

ここに来てはいけないと体は分かっているのに、足が重くならない。


声を出す前に、誰かが言った。


「入るの、遅い」


声は近いのに、距離がある。

アクリル板が音を少しだけ変えている。輪郭は鋭いのに、肌触りだけ削られたような声。


アクリル板の向こう、机の向こう側。

そこに、氷室澪がいた。


制服は同じはずなのに、着ている人間が違うだけで、別の制服に見える。

髪は黒く、長い。毛先まで揺れない。空調の風すら避けているみたいだった。

顔は整っている。けれど、“綺麗”という感想より先に、“読めない”が来る。


表情が薄い。怒ってもいない、笑ってもいない、退屈そうでもない。

ただ、目だけが違った。


目が、刺さる。


見られている、のではない。

測られている。


凪は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


「……氷室さん」


凪が名前を言うと、澪は小さく瞬きをした。

一回だけ。確認するみたいに。


「私のこと、知ってるんだ」


「……噂で」


「噂。便利な言葉。知らない人のことを知った気になれる」


刺す気はないのに、刺さる言い方だった。

凪は口の中が少し乾いていることに気づく。


澪は椅子に座ったまま、指先で机を軽く叩いた。

人差し指の先だけ。二回。

乾いた音が、静寂館の空気を細く割った。


「で。何しに来たの」


凪は、ここに来るまでに用意していた言葉を思い出そうとした。

でも出てこない。

代わりに、ひなたの笑い方が目の奥にちらつく。あの、上手すぎる笑顔。


「……友だちが」


「泣いた?」


速い。

凪が言い終わる前に、澪の言葉が差し込まれた。


凪は口を閉じた。


澪は続けた。声の温度は変わらない。冷たいのに、不思議と突き放す感じがしない。


「泣いてないなら、泣いてる。そういう顔をしてるのは、あなたの方」


凪の背中が、ぞくり、とした。


当てられるのは嫌いだ。

自分の中にあるものを、勝手に覗かれるみたいで。


でも、胸の奥がほんの少しだけ緩む。

その緩みが、いちばん怖い。


「……一ノ瀬蓮が」


その名前を出した瞬間、澪の目がわずかに変わった。

光った、というほど大きくない。

瞳の奥の焦点が、ほんの少しだけ合い直した。


興味ではない。確認。

知っている名前を、もう一度引き出しから出したような動き。


「学園王。連続で女の子を泣かせる人」


淡々としている。

“連続浮気魔”とは言わなかった。でも、同じ意味がそこにあった。

事実だけを、感情を抜いて、並べる話し方。


凪は息を吸った。肺が少し重い。


「俺は、あいつを……」


言葉が、喉の手前で止まった。


壊したい。

その言葉が、舌の上にある。

あるのに、飲み込んでしまう。言ったら、自分が思っている以上に本気だと認めることになる。


澪は、凪の沈黙を急かさなかった。

ただ見ている。待っているのとも違う。

“黙っている時間ごと観察している”という顔だった。


そして、薄く、笑った。

笑っているのに温度がない。口の端がほんの少し持ち上がっただけ。


「怒ってる。……でも、あなたは自分の怒りが嫌い」


凪の胸の真ん中が、押されたみたいに沈む。


「怒りたいのに、怒ると自分が醜くなる気がして、飲み込む。飲み込んだものが胃の中で腐っていく。——でも、苦しいとも言えない」


全部、当たっている。


凪は自分の手が、ズボンの布を握っていることに気づいた。

いつから握っていたのか、分からない。


澪は言葉を止めた。一拍。

その沈黙が、凪に“返事をしろ”と言っている。


「……なんで、分かるんですか」


「顔に書いてある。あなた、隠すのが下手」


それは、黒羽と同じことを言っている。

顔がしてる、と黒羽は言った。

顔に書いてある、と澪は言った。


でも、意味が違う。

黒羽は“止めろ”と言った。

澪は——止めなかった。


「それで、相談。恋愛と復讐。両方でしょう」


凪は頷いた。声を出すと、震える気がした。


澪は、机の上に置いてあった一冊の本を、ゆっくり閉じた。

タイトルは凪の位置からは見えなかった。

ただ、閉じる動作が丁寧だった。

“今からあなたに集中する”という合図に見えた。


「いいよ」


短い。

たった三文字なのに、空気が動いた。


「助けてあげる。蓮を崩す方法も。学園の空気の動かし方も」


凪の鼓動が速くなった。

嬉しい、と言うのは違う。助かった、と言うには早い。


ただ——暗い水の底で、手首を掴まれた感覚があった。

引き上げてくれるのか、引きずり込まれるのか、まだ分からない。

分からないのに、振りほどく気になれない。


「……条件は」


凪が先に言った。

取引だと分かっていた。この人が無償で何かをするわけがない。直感がそう言っている。


澪の口角が、少しだけ上がった。

さっきの笑いとは違う。ほんの少しだけ——本物に近い。


「理解が早い。悪くない」


その一言で、凪の心臓が不規則に打った。


褒められたのだ。

たぶん、褒められた。

なのに嬉しさと警戒が同時に来て、どちらも振り切れない。


澪は指を一本、立てた。

白い指。細い。でも、その一本が空気を仕切る。


「交換条件(Quid pro quo)」


声は静かだった。

静かなのに、はっきり聞こえた。

静寂館の空気が、澪の声だけを通すように出来ている。


凪の鼓動が、大きく一つ鳴った。

嫌なタイミングで。まるで澪に合図を送るみたいに。


澪は、アクリル板越しに凪を見る。

透明な壁一枚。触れられない距離。

なのに、息がかかりそうなほど近い。


「あなたは、何を差し出す?」


凪は答えられなかった。


答えられないのに、逃げられなかった。


澪が、指先で机をもう一度だけ叩く。

乾いた音が、凪の胸の奥まで届く。


「——最初の一つ。言って」


静寂館の空気が、ゆっくりと凪の退路を塞いでいった。


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