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柚葉


朝の教室は静かだった。

静かなのに、空気が薄い。


昨日、望月さやかが笑わなかった。

たったそれだけで、蓮の輪が“寄らなくなっている”。


昨日まで蓮の横にいた二人が、今日は一歩ぶん後ろ。

その一歩が、凪には分かった。拍手の位置がずれている。


蓮はいつも通りだった。

声の高さ。笑い方。手の置き方。何も変えない。


変えないのに、同じに見えない。


望月が、蓮に話しかけられて「うん」とだけ返した。

「うん」の後に、笑いが来なかった。


蓮の笑顔が、一度だけ直った。

直したのが、凪には見えた。


——澪の言った「鍵」が回り始めている。


だから次に要るのは、声だ。

“被害者”じゃなく、“証言者”。

誰かを名指ししないで、「形」を語れる声。


凪の頭に一つの名前が浮かぶ。


柚葉。

二年。文芸部。

去年の文化祭のあと、急に距離を取った人。


(澪に相談すれば、正しい手順をくれる)


そう思った。

思ったのに、指が動かなかった。


昨日の静寂館が頭に浮かぶ。

澪の声。「帰る場所は、ここでいいでしょ?」

凪は迷わず頷いた。


安心した。

安心したことが——今朝は、怖い。


(俺は、自分で何か一つでも決めたか?)


凪はメモ帳をポケットに押し込んだ。


今日は、勝手に動く。

自分で動いて、確かめる。


---


二時間目の休み時間。柚葉のクラス、教室前。


柚葉が廊下に出てきた。

黒い髪を低い位置で結んで、鞄を胸に抱えるように持っている。


凪を見た瞬間、足が止まった。

“知らない男子が待っている”と分かった顔。


「あの——」


凪の声が、裏返った。


「佐伯です。突然すみません」


柚葉は半歩だけ下がった。


「何?」


一文字。閉じている。


凪は用意していた順番を失った。

口から出たのは、最悪の単語だった。


「一ノ瀬蓮のことで——」


柚葉の目が変わった。

眉が戻る。鞄を抱える指が白くなる。


「……誰から聞いたの」


凪は焦って、さらに悪い手を重ねた。


「去年の文化祭のあと、距離を——」


「何もないけど」


柚葉の声が低い。拒絶じゃない。防御。


「何もなかったから距離取った。それだけ」


嘘だ、と凪の目は叫んだ。

でも柚葉には、嘘をつく権利がある。


柚葉は凪を測って、言った。


「……あなた、一ノ瀬くんの友達?」


「違います」


即答した。そこだけは嘘じゃない。


柚葉の目が一瞬揺れて、すぐ閉じる。


「話すことない。ごめん」


柚葉は凪の横を通り過ぎた。

通り過ぎるとき、小さな息が聞こえた。


怒りじゃない。安堵でもない。

疲れた、という種類の息。


凪は立ち尽くした。


(やった。閉じさせた)


澪なら、名前を出さない。

澪なら、膜を叩かない。


凪は、正面から叩いた。


---


昼休み。静寂館。


扉を押す。

紙の匂い。音が落ちる。


アクリル板の向こうで澪が本を閉じた。

目だけを上げる。


「報告」


凪は逃げずに言った。


「柚葉さんに黙って接触しました」

「蓮の名前を出して、警戒させました」

「……失敗しました」


澪の目が動かない。

動かないまま、言う。


「勝手に動いた」


凪の喉が鳴った。


「……はい」


澪は一拍置いて、続けた。


「罰」


凪の肩が縮む。


澪は淡々と言う。


「今日中に回収しなさい」

「あなたが壊した膜は、あなたが直す」

「方法は簡単。——名前を出さない。理由を押しつけない。頭を下げる」


凪は息を止めた。


「……俺が、頭を下げる?」


「うん」

「『聞き方が最悪だった。怖がらせた。ごめん』。それだけ」

「協力して、とは言わない。選ばせる」

「“箱に入れる声”じゃない。“声を守る箱”だと伝える」


凪の胸の奥が熱くなる。

澪の設計が、すぐ形になる。


澪は凪を見た。


「勝手に動いた。……罰」


一拍。


「でも偉い」


凪の心臓が跳ねた。


「失敗を隠さずに来た」

「嘘を混ぜないで報告した」

「それは偉い」


凪は言葉を失った。

罰と承認が同じ声で来る。


澪は温度を戻す。


「勝ったら、帰ってきて」


凪の喉が鳴る。


「……はい」


澪が静かに言う。


「帰る場所は、ここでいいでしょ?」


凪は小さく頷いた。


「はい」


---


放課後。


柚葉は廊下に出てきた。

凪を見て、また足が止まる。


凪は逃げずに、先に頭を下げた。


「朝はごめん」

「聞き方が最悪だった。怖がらせた。……本当にごめん」


柚葉の目が一瞬止まった。

“謝る”を想定していなかった目。


凪は続けない。言い訳をしない。

一拍だけ置いて、言う。


「蓮の名前を出したのも悪かった」

「……俺は、あなたの話を“材料”にしたかったわけじゃない」


柚葉の指が、鞄を抱える力を少し緩めた。

でもまだ、閉じている。


凪は、澪に言われた通りに“選ばせた”。


「答えなくていい」

「協力してとも言わない」

「ただ——もし、声を出したくなったときに」

「“安全に出せる箱”があるって、知っててほしい」


柚葉の目が、ほんの少しだけ揺れた。


「……安全?」


「風紀委員が鍵を持ってる。個人名は止める。中身は晒さない」

「俺も、見ない」


最後の一言を言った瞬間、凪の喉が痛くなった。

“見ない”は、我慢じゃない。柚葉の安全のための線だ。


柚葉は黙った。

三秒。五秒。


「……白鷺さんが?」


「うん」


柚葉は視線を落として、短く言った。


「……なら、考える」


それだけ。

それだけなのに、凪の胸の奥がほどけた。


柚葉は鞄の中から小さな封筒を一つ取り出した。

まだ封はしていない。白い紙が覗いている。


「これ、今入れるとは言わない」

「でも——捨てない」


凪は頷いた。頷くしかない。


「ありがとう」


柚葉は顔を上げずに言った。


「……次、名前出したら終わりだから」


「はい」


柚葉は去った。

去り際の歩き方が、朝より少しだけ軽い。


凪はその背中を見送って、初めて息を吐いた。


(回収した)


即回収。即勝ち。

勝ち筋が、確定した。


---


図書室前の箱の横を通ると、白鷺が鍵を確認していた。

凪は近づかない。触れない。透明の位置。


箱はまだ重くない。

でも今日は、世界のどこかに“捨てられなかった封筒”が一つ増えた。


凪はポケットの中のメモ帳を握った。


報告する。

勝ったと報告する。

そして——帰る。


その順番が、もう体に染みている。


染みていることを、凪はまだ怖がり切れない。


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