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図書室前の床の四角いテープは、朝には“物”になっていた。


金属製の箱。投票箱みたいな形。上に細い投入口。側面に小さな鍵穴。

貼り紙は短い。


『匿名投書 受付中 ※風紀委員確認』


白鷺みくるが箱の横に立っていた。腕章はまっすぐ。背筋もまっすぐ。

通る声で、淡々と言う。


「個人名は書かないでください。誰かを傷つけるものは、ここで止めます。——声を守るための箱です」


足を止める生徒は増えた。

でも、手は伸びない。伸びかけて、戻る。その往復だけが、箱の周りに小さな渦を作っている。


凪は少し離れた位置から見ていた。見えるけど触れない位置。

“鍵が誰の手にあるか”だけを、確認する位置。


そこへ久我晃が来た。丁寧な歩き方で、丁寧な笑みで、丁寧に踏み込む。


「白鷺さん。管理、手伝うよ。生徒会としても——」


白鷺は腕章に指を添えて、短く返した。


「風紀の管轄です。生徒会は触らないでください」


久我の笑みが一瞬止まり、すぐ戻る。

戻したまま、箱の鍵穴に視線を落としてから、何も言わずに去っていった。


凪は息を吐いた。


(鍵は、白鷺の手に残った)


たったそれだけで、廊下の空気が少し楽になる。

“箱が守られる”というより、“久我が入り込めない”という安心だった。


——その安心が、蓮の笑顔の前で、すぐ冷える。


二時間目の休み時間。廊下の窓際。

蓮が一年生の女子の楽器ケースを持って、音楽室まで運んでいた。軽々と。慣れている手つき。

女子は何度も頭を下げた。「ありがとうございます」が三回。


蓮は笑って、言う。


「困ったら言って。……一人で抱えなくていいから」


優しい。

優しいのに、凪の胃の底が冷たくなる。


“助ける”で終わらせない言い方。

一回の恩を、次の義務に繋げる言い方。


女子は頷く。頷いた時点で、もう蓮に逆らいにくくなる。

蓮はそれを“悪意なく”やる。悪意がないぶん、周りも悪意を見つけられない。


蓮が去ったあと、蓮の斜め後ろにいた望月さやかが、笑うのに一拍遅れた。

遅れて、笑った。笑ったけれど——遅れた。


それだけ。


それだけなのに、凪には分かった。

“空気を整える係”が、今日も遅れている。遅れが「癖」になり始めている。


---


昼休み。静寂館。


扉を押すと音が落ちる。紙の匂いが戻る。

アクリル板の向こうで澪が座っていた。凪が椅子を引く音を聞いて、目だけを上げる。


「報告」


凪は短く並べた。


「箱が設置されました。白鷺さん管理。久我は止められた。鍵は白鷺さんの手にあります」

「蓮は今日も“助ける”を配ってる。……恩が残る言い方で」

「望月さやかが、また一拍遅れました。笑いが“追いつけてない”」


澪のまつ毛が一度だけ揺れた。


「それが、鍵」


澪がそう言うと、望月の“一拍”が、ただの癖じゃなくなる。

機能になる。盤面の鍵になる。


「蓮は主役じゃない。主役に見えてるだけ」

「拍手が止まれば、主役は降りる。拍手を作っているのが、望月さやか」

「望月が一拍遅れるたび、蓮は自分で空気を作らなきゃいけなくなる。——その瞬間、型が見える」


凪は喉を鳴らした。

“型”。同じ言葉。同じ結末。同じ温度。

観客が一度それに気づいたら、もう元の拍手には戻らない。


澪は淡々と続ける。


「最短ルートを教える」

「蓮を倒すんじゃない。望月を“降ろす”」


凪の背中が薄く冷えた。


「降ろす……」


「望月が自分の意思で席を立つ状況を作る。責めない。脅さない。——“自分がそこにいると苦しい”と本人が気づく形で」


澪は指を一本立てた。


「今日は小さく勝つ」

「蓮が“助ける”を配った直後、望月が空気を整えようとした瞬間に、白鷺が望月へ声をかける」


凪は眉を寄せた。


「白鷺さんが?」


「うん。正義の人は、“泣いている人”に反応する」

「望月が笑い遅れた。つまり、望月の内側にズレがある。白鷺はそれを見逃さない。——白鷺に“見せる”だけでいい」


澪の目が凪を捉えた。


「凪は動かない。動かすのは白鷺。あなたは、ただ“位置”を取る。望月のズレが見える距離にいる」


凪は頷いた。

動かない、という指示が、逆に安心をくれる。


澪は一拍置いて、声の温度を少しだけ変えた。


「勝ったら、帰ってきて」


凪の心臓が跳ねた。

報告じゃない。結果でもない。帰ってきて。


澪はさらに、静かに言う。


「帰る場所は、ここでいいでしょ?」


質問の形をしているのに、凪の選択肢を狭めてくる言葉。

狭められているのに、苦しくない。むしろ、胸の奥が温かい。


凪は小さく頷いた。


「……はい」


---


廊下。昼休みの終わりが近い時間。


蓮の輪がある。望月はいつもの位置にいる。笑う準備をしている。

その瞬間、白鷺が通りかかった。


白鷺は蓮を見ないで、望月の横に立った。

望月の笑いが一拍遅れた“後”の、微かな隙間に声を落とす。


「望月さん。大丈夫?」


望月の肩が、ほんの少し固くなった。

笑いが止まる。止まってから、無理に笑い直す。


白鷺は続けない。追い詰めない。

ただ、もう一度だけ言う。


「無理、しなくていいよ」


“無理しなくていい”。

蓮が配る優しさと同じ形なのに、温度が違う。

望月は、蓮の前でそれを受け取れない。


なぜなら望月は、蓮の空気を整える役だから。

“無理している”ことがバレた瞬間、役割が崩れる。


望月は笑えなかった。

笑えないまま、蓮の横に立ったまま、目線だけが逃げた。


——逃げた先に、凪がいる。


凪は何もしない。

何もしないまま、望月と目が合った。


望月はすぐ視線を逸らした。

でもその一瞬で、凪には分かった。


(今、望月は“蓮”じゃなく、“自分”を気にした)


蓮がいつもの笑顔を作る。作って、周りを見る。

望月が空気を整えていない。

誰も、先に笑わない。


蓮の笑顔が一度だけ、直った。

“直した”のが見えた。


たったそれだけで、輪の温度が下がる。

拍手が、一拍遅れるどころか——薄くなる。


凪はそのまま、渡り廊下へ向かった。走らない。目立たない速度で。

でも心臓だけがうるさい。


静寂館の扉。鈍い音。紙の匂い。


澪は、椅子に座って待っていた。


凪が座る前に、口が動いた。


「望月さやかが、止まりました」


澪の口角が、ほんの数ミリ動いた。


「白鷺が声をかけた。望月は笑えなかった。蓮の笑顔が——直った」


澪は短く頷いた。


「鍵が回った」


その一言で、凪の胸の奥が熱くなる。

勝ちの熱。小さいけど確かな熱。


澪は凪を見た。アクリル板越しに。


「よくできました」


凪の息が、少しだけ楽になる。


そして澪は、もう一度だけ、さっきの言葉を繰り返した。


「勝ったら、帰ってきて」


凪は頷いた。今度は迷わず。


——帰る場所は、ここでいい。


その答えを、もう体が先に知っていた。


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