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昇降口の掲示板に、紙が一枚増えていた。


文化祭企画一覧。放送部の欄の端に、小さく控えめな文字。


『生徒の声(仮)——匿名投書 準備中』


「準備中」の三文字が、やけに重い。

まだ箱はない。声もない。なのに「入れる場所」だけが先に用意されて、誰かの指先を待っている。


凪は視線を逸らし、靴を履き替えた。

昨日までの噂は、薄くなっている。燃料が切れた火の残り香みたいに、触れば汚れるだけで、誰もわざわざ掻き回さない。


——全部、整っている。

整いすぎていることが、胸の奥に小さな棘を残す。


昇降口を出る直前、下駄箱の列の向こうに、見慣れた横顔が一瞬映った。


ひなた。

白鷺みくると並んで歩いている。白鷺が何かを言い、ひなたが小さく頷いて、少しだけ笑った。


あの笑い方だ。

肩が抜ける笑い。目尻がほどける笑い。救われたときの笑い。


凪の足が止まりかけて、止まらなかった。

止まると、見ていることがバレる気がしたから。


教室に入ると、ひなたはもう席にいた。前を向いている。

凪のほうを見ない。見ない、というより——寄らない。


いつもの距離。なのに、背中の向きだけが少し違う。

それだけで、喉の奥が乾いた。


「おはよう」


言おうとして、言えなかった。

言葉が、喉の手前で折れる。折れたまま、落ちない。


休み時間、廊下の窓際で蓮が誰かと話していた。

一年生の女子が、袖で目元を押さえていた。声は聞こえない。泣いているかどうかも分からない。分からないのに、肩の震えだけで十分だった。


蓮は近づき、いつもの角度で笑って、短い言葉を落とした。

相手の肩を軽く叩く。周りが「優しい」と受け取れる距離で。

女子は首を縦に振って、急いでその場を離れた。


蓮の顔は崩れない。崩れないまま、次の相手に声を配る。


凪は、その背中を見て、胃が冷えた。

「泣かせている」証拠は、派手じゃない。派手じゃないから、誰も悪いと思わない。悪いと思わないまま、泣く人だけが増える。


ひなたの背中が、また少し遠く見えた。


---


昼休み。静寂館。


扉を押すと、音が落ちる。紙の匂いが混じる。

アクリル板の向こうで澪が座っていた。本は開いていない。机の上に何もない。凪が来ることだけを前提にした空間。


椅子を引く音。

それを聞いてから、澪が目だけを上げた。


「報告」


凪は事実から並べる。


「掲示板に“生徒の声”が出てました。匿名投書、準備中」

「ひなたが……白鷺さんと一緒にいました。笑ってた」

「蓮の近くで、泣いてる子を見ました。蓮は普通に優しかった。普通に優しい顔のまま」


澪の睫毛が一度だけ揺れた。

「普通に優しい」の中身を、凪が飲み込んでいることを見抜いた合図。


凪は息を吸って、続けた。


「ひなたが俺のほうを見ない。声をかけようとして、できなかった」


澪はすぐに助言を出さなかった。

数秒、凪を見た。凪の口の端、喉の動き、視線の落とし方——言い切っていないものを拾う目。


「交換条件」


短い。逃げ道がない。


「ひなたに言えない、“守りたい理由”。言いなさい」


凪の指先が膝の上で硬くなる。

言える言葉と、言えない言葉がある。言えるほうを選ぶ癖がある。


「守りたいです」


凪はまず、言えるほうを出した。


「蓮に傷つけられて、笑い方が変わって……それを見てるのが嫌で」


澪は動かない。

続けろ、とも言わない。止めるな、とも言わない。

ただ、凪が自分で“言えないほう”に触れるまで待つ。


凪は喉を鳴らした。


「でも、理由はそれだけじゃない」


言った瞬間、胸の奥が熱くなった。恥ずかしさの熱。


「白鷺さんと笑ってるのを見たとき——安心した。助かってるって思った。……なのに」


言葉が詰まる。詰まって、押し出す。


「俺がいない場所で、ひなたが軽くなっていくのが嫌だった」


澪の目が、わずかに細くなった。


凪は続けた。止まれなかった。


「守りたいって言いながら、本当は——俺が必要とされたいだけです」

「ひなたの“安心”の中に、俺の席がないのが怖い。……だから、守りたいって言葉で自分を正当化してる」


言い切ると、喉が軽くなった。

軽くなった分だけ、顔が熱い。耳まで熱い。


澪は、しばらく黙った。

その沈黙が、罰じゃないことを凪は知っている。整理の沈黙だ。


そして澪は、淡々と名前をつけた。


「独占」


凪の胸がきゅっと締まる。


その直後、澪の声がほんの少しだけ硬くなった。


「……ふうん」


たった三音。

温度がないのに、刺さる。

凪はその意味を考えない。考えたら、もっと深く刺さる気がした。


澪は温度を戻す。手順の声になる。


「言いなさい。今日。ひなたに」


凪の呼吸が止まった。


「守りたい、だけでいい」

「理由は盛らない。要求もしない。——置いて、帰る」


凪は唇を噛んだ。


「……言ったら、重くならないですか」


「重くなる」


即答だった。


「でも、言わないと消える。ひなたの世界からあなたの名前が」

「“守りたい”を言えた事実だけが、ひなたの中に残る。残れば、戻る道が切れない」


凪の胸の奥が痛い。痛いのに、分かる。

痛いほど、正しい。


澪は最後に、短く言った。


「できたら、報告して」


一拍置いて、今日は「褒める」とは言わなかった。

言わなかったことが、さっきの「…ふうん」を消えないまま残した。


---


放課後。


教室の空気が緩み、帰り支度の音が増える。

ひなたは席で鞄を整えていた。前を向いたまま。


凪は鞄を肩にかけて、ひなたの横に立った。

たった数歩。なのに、足裏が冷たかった。


ひなたが顔を上げる。


「……凪?」


疑問符のついた呼び方。

それだけで、凪の喉が痛い。


凪は息を吸って、言った。


「ひなた。俺——守りたい」


ひなたの目が少しだけ大きくなる。


凪は、言い足したくなった。

「俺の席が欲しい」と。

「俺じゃないのが嫌だ」と。

でも澪の言葉が、首の後ろで止めた。


——置いて、帰る。


凪は、短く続けた。


「今まで言えなかった。言う資格がないと思ってた」

「でも言う。守りたい。困ったら言って。俺が先に動く」


ひなたの口が開いて、閉じて、また開いた。


「……ずるい」


小さな声。怒ってはいない。

呆れと、少しの救いが混じった声。


「そういうの、もっと早く言ってよ」


ひなたは視線を落とした。

袖をつまむ癖が出かけて、途中でやめた。


「……ありがとう。嬉しい」

「でも、無理しないで。凪、顔が怖い」


怖い顔。

凪は自分の顔のことが分からなかった。

でも、ひなたがそう言ったなら、たぶん必死な顔をしている。


ひなたは鞄を肩にかけた。


「帰る」


一歩、歩き出してから、振り返らずに言う。


「今日、帰り道いっしょに歩く? ……途中まででいい」


凪の胸の奥が、ふっと緩んだ。

勝った、というより——残った。


凪は頷いた。声が出ない。


ひなたは先に歩き出した。

その歩幅は、朝より少しだけ軽い。


凪はその背中についていきながら、今日の言葉を反芻した。


守りたい。


綺麗じゃない理由が混じっていても、言えた。

言えたことだけが、今日の勝ちだった。


そして——

報告しなければならないことが、胸の中にもう一つ増えている。


澪の「…ふうん」の温度と、

ひなたの「ずるい」の優しさ。


二つとも、明日の昼休みに持っていく。


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