95
「慎んで」
アストラーダは、再び深々と頭を垂れた。
そして、立ち上がると、可愛がっている従弟であるモルティスに両手を差し出す。
「アスティ兄上……」
彼は、アストラーダの愛称を口にした。
モルティスの母は、先代サナレーン侯爵の妹であり、セブリス伯爵家へ嫁いだ後も頻繁に実家を訪ねていたため、モルティスは誕生時から、サナレーン家の三姉弟たちに続き、実兄共々、祖父母や伯父夫妻より大層愛されて、本家の子供扱いで育っている。
よって未だ、五人兄弟の末っ子の認識でいるのだ。
「さあ、早く」
どうにか慕わしい兄分も共に脱出して欲しいと躊躇を覚えるモルティスをなだめるように、アストラーダは、更に手を前に出す。
一角の武人であり、いずれイブリール軍を担うべき立場にあるモルティスなので、もちろん、わかってはいた。
今、ここでアストラーダも、国母や自らと共に脱出するのは容易だろう。
しかし、国王も、その名代を勤めていた王女も共に没した(エテルティアは、まだ存命だが、時間の問題に相違ない)ティアモラである。
事実上の責任者が喪失した現状、このままでは、まともな敗北宣言を発するのさえ難しい。
一層の泥沼化を防ぐにのみならず、終戦のための起死回生ともなる唯一無二の手立てが彼にかかっているのだから、その身を案じつつも、全てを任せるしかなかった。
「……どうか、くれぐれも御無理をなさいませんようっ」
瞬時の懊悩を胸に抱え、モルティスは腕に抱く瀕死の王女を差し出す。
アストラーダは、丁寧な手付きで彼女を受け取った。
「ああ、そうだ。剣も取り替えておいた方が良い。この状況だ。悠長な改めの検分などされるとは思わんが、念には念を入れておくべきだろう」
王と王女の傷が、一本の剣によって生じたものだと、明確な物証を残して置けと言外に告げる。
つまり、口論の果てに、王が娘を護衛する騎士であるラーダから剣を奪い、エテルティアに斬りかかった。
慌ててラーダがそれを仲裁する間に、今度重傷を負ったエテルティアが、報復の刃を父の胸に突き刺したことにする……と告げたのだ。
二人に傷を与えた凶器は、「ラーダの剣」であると。
その証拠として、バルモア三世の心臓を貫いたままの凶器は、現状維持させておいた方が無難なのは確かだろう。
不自然にならないよう、モルティスのそれを、彼のものと交換する訳である。
実は二人の剣は、揃いの誂えだ。
ハルバード前元帥の愛弟子のみに与えられる品であり、イブリール一の刀工が丹精して鍛えたものだった。
ルスズ副元帥を筆頭に、幾人もの兄弟弟子たちは、授けられた揃いの剣を誇りにしている。
もちろん、一振り一振りにそれぞれ微妙な癖の違いはあるので、決して同じものと言えないが、余人が見ただけで、区別など容易につくはずもない。
ここですり替えたところで、誰にも不審を抱かれはしないだろう。
モルティスは不精不精の表情で、床に転がる、エテルティアが落としたアストラーダの剣を拾い、自らの腰帯の鞘に収める。
幾ら同じ設えとは言え、どうにも拭えない違和感があった。
「必ず返してくださいよ」
愛用の剣を惜しんで、彼は恨み言を告げる。
もちろん、より惜しんで……いや、案じているのは、兄分の生命と安全である。
アストラーダは鷹揚に笑った。
「それは、こっちの言うことだ」
軽口に紛れての配慮に、敢えてそう告げるのは、同門ならではの符丁にも似た、いわば鼓舞の返礼だ。
当然ながら、彼にとっても、剣は大切な分身である。
モルティスは真顔に返った。
「兄上、どうか御無事で。身辺にお気を付けて」
彼なら大丈夫だとはわかっていても、四面楚歌の敵陣中でただ一人、大役を果たすアストラーダを案じずにはいられない。
「国母陛下を頼むぞ」
この言葉を挨拶に代えて、モルティスは、敬愛する国母陛下に出立を促した。
セルアは、類い希な傑物へ労いの言葉を残して、例の青年が死守してくれていた秘密の通路を用い、その場を後にする。
皮肉な運命に翻弄された異母姉妹にとって、これが最初で最後の邂逅となった。




