↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/10

『藍の残り香』

テレビから流れるのは、軽快な流行歌。

街にはきらびやかな物があふれ、

誰もが明日の心配を忘れて暮らす、昭和五十五年。


大学を終えたばかりの若者は、

まぶしい海外製のスーツに身を包み、効率と世界の広さを誇らしげに語る。

「じいちゃん、そんな手間で食えない藍染なんて、もう古いよ」


古い工房の隅で、老いた職人は怒るでもなく、

ただ黙々と藍の甕(かめ)をかき混ぜている。

ざざ、ざざと、深く、底の知れない青が揺れる。


腹がいっぱいになり、目に見える豊かさに甘んじて、

人が、大切な礼節や心の拠り所を忘れかけている時代。

老職人は、静かな危機感をその青のなかに沈めていた。


ある日、一人の老婦人がもたらした、

ボロボロに破れた、一枚の藍染の手ぬぐい。

それはかつて戦地へ赴き、二度と戻らなかった兄のために、

若き日の祖父が、祈るように染め上げたものだった。


「世の中がどれほど変わっても、この藍を見るたびに、

あの人の誠実さと、日本の美しさを思い出して生きてこられました」


ただの、古い布。

しかしそこには、一人の人生を幾十年も支え続けた「心」が、

消えない残り香のように息づいていた。


「世の中が安泰になり、腹がいっぱいになると、人は大切なものを忘れる。

だがな、心を磨くことをやめたら、日本人は形だけの抜け殻になってしまう。

藍はな、何度も何度も揉まれて、甕の中で育まれて初めて深い色になる。

人間の心も、同じだ」


老職人が病に倒れ、工房に冷たい沈黙が訪れたとき、

若者はスーツを脱ぎ捨て、冷徹な水に手を浸した。


何度も布を揉み、しゃがみ込んで甕と対話する、過酷な時間。

それは、効率の良さばかりを求めていた若者が、

自らの中に眠る「我慢強さ」「丁寧さ」「他者への敬意」という、

日本人としての根底にある心を、一本の針を研ぐように磨き直す時間だった。


無事に染め上がった、深く美しい藍の反物。

病床の祖父は、静かに微笑んだ。

「よくやった。お前の中に、ちゃんと『心』が宿った」


春が来り、若者は再び、大都会のビル群へと歩み出す。

その胸ポケットには、祖父と染め上げた、小さな藍のハンカチ。


たとえ時代がどれほど平穏であろうとも、けっして魂を抜け殻にはしない。

自分を見失わず、誠実に、美しく生きるという覚悟を、

その青い残り香とともに、深く、胸に抱いて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。