幼なじみの、知らない撮り方
【前回までの人物】
・朝倉湊:商学部二年。実家の喫茶店で写真を見せ、昨夜は撮ってもらう側にもなった。
・相原千夏:湊の幼なじみで建築を学ぶ大学生。課題の模型と、私用の写真を湊に撮ってもらった。
・ひより・怜・澪:湊と四人で私的な集まりを「失恋同盟」と名付けた。次の恋へ進んでも、会える席は残したいと話している。
自分の顔を送信するのに、こんなに指が止まるとは思わなかった。
閉店の片付けを終え、部屋の机で写真を開く。怜さんが撮った一枚には、パンを中途半端に持って笑う僕がいた。
見られたあとだから、もう照れないはずだった。
でも、画面の中に残る自分を、こちらから渡すのは違うらしい。
澪さんへ、写真を一枚添える。
「パンの写真、これで合ってる?」
送ってから、自分で少し笑った。
すぐ既読にはならない。電車に乗ると言っていたし、携帯を見ない時間もある。
僕は同じ画像を怜さんにも送った。最初に撮った人へ、残したいと言ってくれた一枚を渡したかった。
「撮ってもらった方、送ります。僕も残しておきます」
雨宮さんには、写真と一緒に、今日はありがとう、と打った。
それだけだと店の手伝いへの礼みたいで、一度消す。
「また写真を見てもらえて、嬉しかった。パンも、おいしかったです」
後半だけ敬語になったのが、少し変だ。
直す前に送信してしまい、画面を伏せた。
カップを洗っていた時の熱は、もう指から消えている。代わりに、耳の辺りが落ち着かなかった。
*
返信が来たのは、風呂から戻った頃だった。
澪さんからは、写真へのお礼と、短い一文。
「合っています。私まで、そこでパンを食べていたことを思い出せる写真です。明日の勤務は、予定どおりの時間に伺います」
写っているのは僕だけなのに、と画面を見直す。
レンズのこっち側で笑っていた人も、この一枚の中へ残るらしい。
勤務の件は母さんも知っていることだから、僕は、待ってます、とだけ返した。
怜さんは、写真を受け取ってから、二通に分けて送ってきた。
「ありがとう。私の最初の一枚として、保存します」
「次は拡大するボタンを押さずに撮るので、今日のことは、ほどほどに覚えていてください」
ほどほど、が難しかった。
いつもの落ち着いた顔で首を傾げた所まで、思い出すと笑ってしまう。
僕は、次の一枚も見たいです、と返した。
カメラを渡したあと、自分が写るのに驚いたことは、まだ、ほどほどには出来なかった。
雨宮さんの返信は、最後に開いた。
「パンがおいしかった報告まで丁寧で、恐縮です。私も楽しかった。あの顔は、店の紹介には使いません。個人の宝物の方で保管します」
宝物、という字で、僕は一度携帯を遠ざけた。
軽口なのか、そのまま受け取っていいのか、分からない。
問い返す文章を考え、やめる。写真を欲しいと言った人に、どれくらい本気かを測る返事はしたくなかった。
「じゃあ、消さないで。僕も、今日の分は残しておく」
返したあと、携帯を机へ置いた。
恋をしたら解散。
さっきの名前を思い出すと、胸の中に、まだ馴染まない角がある。
でも、今夜の返信を、全部そこへ押し込むつもりにはならなかった。
写真を送って、嬉しいと言われた。その嬉しさは、名前を決める前に持っていてよい気がした。
*
翌朝、千夏から、模型を引き取る時に少し手を借りたいと連絡が来た。
僕の講義が終わる昼過ぎなら、十五分ほど空く。そう返すと、建築棟の入口で待つ、と来た。
勝手に一日を空けてしまう約束ではなかった。
母さんには、帰る時刻を先に伝える。
「じゃあ、紹介文の返事は、帰ってから。ひよりちゃんには、窓際の席の所だけ、もう一度見てほしいって送っておくね」
「昨日の文章、どうだった?」
「好きな所はある。でも、昼と夕方で違うの、ちゃんと書きたい。私が渡す情報も足りなかったから」
母さんはコーヒー豆の袋を量り、口を折った。
僕の写真に皆がどんな返事をしたかは、聞かなかった。
店の文章は、店主の返事を待って進む。昨夜の席が楽しかったから、そのまま採用になるわけではない。
それが、妙に安心だった。
*
建築棟の入口には、細い木の棒を使った模型が並んでいた。
展示台の向こうで、学生たちが大きな箱を運んでいる。廊下の奥から、紙を丸める音と、誰かの笑い声が届いた。
千夏は、入口脇のベンチへ自分の箱を載せていた。
顎の辺りで切りそろえた栗色の髪を耳へ掛け直し、袖を肘まで上げている。足元の紙袋へ手を伸ばしては、先に模型の角を押さえ直す。
「もう、運んでいい?」
「待って。屋根、今は載ってるだけ。ここを持つと、模型だけ大学に残る」
「箱の方が、先に卒業するんだ」
「卒業させないで。一緒に持って帰るから」
いつもの速さの返事だった。
僕は指された底板を持ち、彼女が内側の詰め物を直すまで待つ。
昨日、写真を撮った小さな腰掛けが、薄い紙の隙間から見えていた。
「講評、終わったんだよね。どうだった?」
「座る場所は、見てもらえた。通る人の目線を低くした写真も、使ってよかったって」
千夏が、そこで一度、顔を上げた。
僕を見る目が、思ったより真っ直ぐだった。
「ありがと。あれ、一枚目にした」
僕は、箱を落とさない方の手へ力を入れた。
「そっか。……嬉しい」
「うん。私も」
短い返事のあと、千夏は箱の角へ目を戻した。
僕の写真だけが褒められた話ではない。彼女が考え、作り、見せた物へ返事があったのだ。
「ただ、雨の日の水の流れ、説明が弱かった。屋根から落ちる所と、通る人の足元。私、晴れてる日の見え方に寄せすぎたみたい」
悔しそうだった。
でも、すぐ、そんなことないよとは言えなかった。昨日の僕も、光をどう入れるかばかり見ていた。
僕が黙ると、彼女は紙袋から、小さな断面図を出した。
「ここ。直すなら、庇を伸ばすだけじゃ、反対の通り道へ水が行く」
「僕、屋根を外した写真が見やすいって、喜んでた」
「写真は、見やすかったよ。見やすくした所に、まだ考えてない物が見えたの」
言い方が、いつもの千夏より少し遅かった。
励まされる側を引き受けるより、自分の作った物を、そのまま話したい顔だった。
「じゃあ、次に撮る時、雨の方も教えて。僕、そっちは、まだどこを見たらいいか分からない」
「うん。そこは、私も考えてくる」
彼女は図を折り、角が模型へ当たらない所へ収めた。
*
箱を運ぶのは、建物の外の受取り場所までだった。
迎えに来る家の車へ、そのまま載せるという。僕は家まで持っていく気でいたので、そこで少し足が止まった。
千夏が気づいて、眉を上げる。
「湊、どこまで持っていくつもりだったの」
「……家?」
「十五分って言ったでしょ。それだと、昼ご飯も終わる」
「箱を持ったら、そのまま歩く顔になった」
彼女が吹き出した。
僕も、低い台へ箱を置いて笑う。頼まれた分が終わっても、そこにいていい時間を、僕はあまり上手に使えないらしい。
千夏は携帯で迎えの時刻を確かめた。
「あと、十分くらい。湊は、もう行く?」
「次の用事まで、まだ少しある。ここにいてもいい?」
聞くと、千夏が携帯から目を離した。
一拍遅れて、うん、と返ってくる。
「じゃあ、そっち。日向、暑い」
並んだ椅子の、庇の下へ移る。
昨日撮った模型の中の席とは違う、実物の影だった。椅子の縁に触れると、日が当たっていた方だけ温かい。
千夏は鞄から水筒を出し、飲んでから、僕を横目で見た。
「昨日の、顔の写真。あれも見た」
僕は、彼女の私用に撮った方を思い浮かべた。
模型の提出用とは別の、千夏の手元と、頼まれて撮った顔の写真。彼女の私用に渡した組だった。
「どうだった?」
「最初、自分の髪ばっかり気になった」
「昨日の僕と同じだ」
「昨日の湊?」
訊かれて、カメラの鞄へ手を置いた。
ここで話していいのは、誰が何を失ったかではない。
僕自身が、写真を撮ってもらったことだ。
「店に来た人に、一枚撮ってもらった。自分の顔って、最初に変な所を探すね、って話になって」
「見たい。……見せてもいいやつなら」
僕は携帯へ送っておいた写真を探した。
カメラの中を順に見せるのでなく、その一枚だけを開く。昨日の席にいた人たちの話まで、一緒に渡すつもりはなかった。
画面を向ける。
千夏の口元が、すぐに動いた。
「パン、持ってる」
「最初、皆そこを見る」
「だって、持ってるから。半分食べる所?」
「その前。笑った所を撮られた」
千夏は拡大せず、画面全体を見ていた。
すぐ返されるかと思ったのに、親指が端へ添えられたまま、少し長い。
「……こういう顔も、するんだね」
「僕、千夏の前で、そんなに怖い顔してる?」
「そうじゃなくて。私が知らない所で、こんなふうに笑ってるんだって」
言い終えてから、彼女は水筒の蓋へ目を落とした。
僕にも、さっき、似た気持ちがあった。模型の講評を受けた千夏は、僕の知らない人から、僕の知らない言葉を受け取っていた。
知らない所が増えるのは、離れることだけではないらしい。
*
「カメラ、今、入ってる?」
彼女が鞄を指したので、僕は頷いた。
出して渡そうとすると、千夏が先に手を引っ込める。
「持つ所と、押す所だけ教えて。昨日、模型に使ってた設定のままだと、変かな」
「少し、近くを見る方になってる。戻すね」
レンズを確かめ、首紐を渡した。
彼女は受け取る前に両手を拭く。模型の粉を付けないためだと分かり、僕はいつもの、水筒の輪染みを避ける手つきを思い出した。
知っている仕草が、知らない道具へ向く。
「こっちを半分押すと、合う場所が」
「待って。いま、半分より先へ行った」
シャッターが鳴った。
画面には、椅子の端と、僕の膝が半分入っていた。
「……模型の方が、待っててくれるね」
「僕も、まだ動いてないよ」
「そうだった。じゃあ、もう一回」
千夏がカメラを構える。
目の前にいる幼なじみの顔が、黒い道具で半分隠れた。見慣れない姿に、僕は、昨日より困らずに笑ってしまった。
彼女は、まだ押さない。
「湊、そのまま。こっちじゃなくて、箱の方、見て」
僕は模型の箱へ目を向けた。
上の紙が風で持ち上がり、抑えなきゃと思って立ちかける。
その手前で、小さな音がした。
「撮れた」
カメラを下ろす顔が、明るい。
隣へ寄せられた画面には、紙の動きを見て腰を浮かしかけた僕がいた。昨日の一枚より、ずっと途中の姿だ。
「これ、立ち上がる前の僕?」
「うん。何か見つけた時の顔」
「どっちかというと、押さえに行く顔なんだけど」
「それも、湊が見つけたからでしょ」
彼女は、画面から目を離さない。
「私、昨日、手を撮ってもらった時、何が写るんだろうって思った。でも、これなら、少し分かる」
僕は、その写真を消すための場所を探さなかった。
落ち着かない姿も、彼女には、残したい途中に見えたらしい。
「それ、僕にも送って。……カメラは僕のだから、あとで自分で出せるけど。千夏が選んだ方を、欲しい」
言うと、彼女の指が紐の上で止まった。
すぐに、うん、と答える。
「じゃあ、これ。一枚目の膝じゃなくて」
「膝は、見なかったことにする」
「それは私も、ほどほどに忘れる」
同じ言い方に、昨夜の怜さんの返信を思い出した。
でも、今、目の前でカメラを返すのは、千夏の手だった。
*
迎えの車が見えて、千夏が先に立った。
二人で箱を持ち、底板を傾けないよう荷台へ収める。窓越しに迎えの家族へ会釈し、僕は元の椅子へ鞄を取りに戻った。
千夏も、扉を閉める前にこちらへ来る。
「助かった。十五分より、少し長くなったね」
「後半は、僕がいたくて座ってたから」
言ってから、カメラの紐を指へ巻きかけ、ほどいた。
荷物を持つ用事が無くなったら終わり、にはしたくなかった。
「次、模型じゃなくても、一緒に撮りに行きたい。千夏が見たい建物とか。僕も、何を見るか考えてくるから」
千夏は、すぐ場所の名前を言わなかった。
車の方へ一度目をやり、それから僕へ戻す。
「行きたい。次の課題が出る日を見て、時間、送る。湊も、空いてる所を教えて」
「うん。全部合わせる、じゃなくて、僕の分も送る」
「そこ、先に言ってくれると助かる」
彼女は笑い、模型の入った車へ戻った。
同盟の名前は、話していない。誰かの失恋を、幼なじみへの説明にもしなかった。
それでも、今日の千夏とは、昨日より少し先の話が出来た。
携帯に、母さんから帰りの買い物の確認が来ていた。
僕は返事をしてから、写真を二枚、同じ画面へ並べた。
パンを持った僕と、立ち上がりかけた僕。
どちらも、撮った人が違うと、残したかった顔が違う。
告白してから六日目。
自分を誰かへ見せることが、返事をもらうためだけではない日が、少しずつ増えていた。




