無糖の紅茶と、帰り道の寄り道
【前回までの人物】
・朝倉湊:商学部二年。幼なじみの模型の搬出を手伝い、自分の希望で次の撮影へ誘った。
・雨宮ひより:文章や編集が好きな同級生。凪待ちの紹介文を作り、店主から窓際の昼と夕方の違いを直したいと返事を受けた。
・白石澪:凪待ちで働く後輩。湊から写真を受け取り、翌日の勤務は予定どおりと伝えた。
・朝倉由紀:湊の母で凪待ちの店主。文章の採用や店の仕事について、自分の意見を返している。
買い物袋を台へ置くと、母さんは、僕より先に卵の箱を受け取った。
「こっちは、無事?」
「僕は、模型を運んできたんだけど」
「模型は千夏ちゃんが受け取ったでしょう。私は、卵の方」
凪待ちの台所へ、いつもの声が戻ってくる。
建築棟から帰る途中、頼まれた分を買ってきた。袋の底へ手を添えたまま歩いたせいで、指に薄い跡が残っている。
母さんが箱を開け、割れていないことを確かめた。
その隣で、僕はカメラの鞄を棚へ置く。
模型の角を押さえていた千夏の手と、カメラを持った時の顔が、まだ少し頭に残っていた。
店の鈴が鳴った。
振り返ると、澪さんが入口で鞄を持ち直している。今日は勤務の日だ。昨日まで客として座っていた人が、決めた時刻に、働く方の戸口へ来た。
「こんにちは。今日も、お願いします」
「お願いします。着替えたら、先に三番のテーブルをお願いね。湊、布巾の場所だけ、もう一度」
「はい。澪さん、こっち。乾いた方は、上の段です」
彼女は小さく頷き、青い前掛けを受け取った。
髪を留め直したあと、上の棚を見てから手を伸ばす。慣れたふりで別の物を取らない所が、彼女らしかった。
「昨日の写真、ありがとうございました」
「うん。送るの、ちょっと照れたけど」
「私も、受け取ってから、ちょっと笑いました」
言ったあと、澪さんが布巾を畳んだ。
写真を眺めた時間まで、今ここで説明する返事ではなかった。それでも、昨日の席の笑いが、今日の仕事の前へ少し続いていた。
僕は、三番のテーブルの方を空ける。
彼女は自分で客席へ出ていった。
*
雨宮さんが来たのは、午後の客が一組、帰った頃だった。
雨宮さん、と僕が呼ぶと、入口の所で片手を上げる。
肩の鞄から薄い紙入れを出し、空いた席を見回した。明るい声のわりに、椅子へ鞄を置くまで、手が離れなかった。
「窓際の席の修正、現物を見に来ました。昼の担当として」
「夕方の担当は?」
「まだ、募集中です。時給は出ません」
いつもなら、そこで笑いを足す所だった。
今日は、口元が上がったあと、息が少し遅れた。
僕は、その先へ別の冗談を乗せず、窓の方を示した。
「母さん、さっき、昼と夕方の写真を並べて見たいって。まだ、文章はこれから?」
「うん。『いつ来ても明るい窓の席』って、私が先に決めちゃってた。夕方は、外より中の灯りを見る席なんだね」
窓には、通りを歩く人と、店の中のカップが、少し重なって映っていた。
昼は外がよく見える。夕方、店へ灯りが入ると、自分の座っている席まで窓へ戻ってくる。
同じ写真を明るく直せばよい話ではなかった。
母さんが、カウンターの下から紙の封筒を出した。
「二人とも、少し買い出しを頼める? 写真を刷ったら並べる紙と、剥がしやすいテープ。五百円まで。今日は、店へ貼る見本だけにしたいの」
「いまから?」
「澪さんと、こっちは見られる。混む前には戻って。ひよりちゃんは、用事があったら、湊だけでいいから」
雨宮さんは、自分の携帯を一度見た。
画面を閉じてから、顔を上げる。
「行きたいです。紙の色も、実物で見たいので」
「じゃあ、行こう。僕も、白すぎない方を見たい」
母さんの五百円と、買う物のメモを受け取った。
澪さんへ、戻るまでよろしく、と言うと、彼女は客席の方を見て、はい、と返した。
僕が出かけることより、いま自分が覚える仕事へ向いた声だった。
*
文具店まで、歩いて十分ほどだった。
九月の午後の道は、日陰でもまだ少し熱い。雨宮さんの靴が、僕の横で、ゆっくり石の継ぎ目を越える。
いつものように、先に話題を見つけては渡してくる歩き方ではなかった。
僕も、何を話せば元気になるだろう、と探しかけた。
探していることに気づき、メモへ目を落とした。
「紙って、色がありすぎると、写真より先にそっちを見るかな」
「見るね。あと、この店の壁だと、クリーム色にしたつもりが、黄色く見えるかも」
「僕、写真だけで選んでた。壁は、もうあるのに」
「うん。私も、文章の中で、お店を明るくしすぎた」
彼女は笑った。
でも、笑ったあとまで、次の言葉を急がなかった。
その間に、横の自転車が一台、追い越していく。僕たちは同じ方へ少し寄って、また並んだ。
沈黙を作らないよう、どちらかが歩幅を速める必要はなかった。
店では、紙を二枚、照明の下から窓際へ持って比べた。
薄い灰色の方へ、携帯に出した写真を重ねてみると、カップの白さが見やすい。雨宮さんは、白い紙も一緒に残した。
「持って帰って、壁の前で、こっちも見よう。今の灯りで勝った方だけ連れていくと、夕方、負けるかもしれない」
「紙同士、けっこう厳しい勝負してるね」
「棚に戻される側にも、次のお客さんがいるから」
小さく返されて、僕は笑った。
紙を揃え、弱い粘着のテープを選ぶ。会計は四百十二円だった。
レシートと、お釣りの八十八円は、母さんの封筒へ戻した。
自分の財布と混ぜないように、鞄の別のポケットへ入れる。
雨宮さんは、紙の角が折れない方を持ってくれた。
*
店を出た所で、雨宮さんが、自動販売機の前で足を止めた。
無糖の紅茶の札を見てから、僕へ顔を向ける。
「少し、ここで飲んでもいい?」
「うん。僕も、何か買おうかな」
彼女は百十円を入れた。
僕も、自分の財布から同じ額を出す。母さんの買い物の釣り銭には触らなかった。
冷えた缶が、取り出し口へ落ちる。
持ち上げると、指の腹が、急に涼しくなった。
隣の小さな広場に、木陰のベンチがある。
僕たちは端と端ではなく、紙を置ける隙間を空けて座った。雨宮さんが先に缶を開ける。
炭酸ではない短い音がした。
「今日は、あんまり、明るい返事が続かないかも」
僕は、開けたばかりの缶を見た。
慰めに使う言葉より先に、今の自分がどうしたいかを探す。
「じゃあ、紙の勝負の続きは、休憩のあとにしよう。僕も、ちょっと座りたい」
彼女が頷いた。
髪を耳へ掛けて、一口飲む。
木の上で鳴いている虫の声が、車の音へ混じった。
僕も飲んだ。甘くない茶が舌へ残り、さっきまでの卵の味が、ようやく遠くなる。
「好きだった先輩の、写真を見ちゃって。見に行ったんじゃないんだけど、流れてきて」
彼女は缶の縁を指でなぞった。
誰と写っていたのかは、言わなかった。僕も、聞かなかった。
「もう大丈夫って、昨日は思ってたんだよね。それで今日、あれ、まだなんだ、って」
僕は、透子の顔を思い出した。
講義で会えば、課題の話は出来る。だから、全部終わったのかと聞かれれば、まだ言葉を探す。
でも、それを長く話して、彼女の缶の上へ重ねたいわけではなかった。
「僕も、昨日楽しかった分で、今日の全部までは決まらなかった」
「うん」
返事が、短かった。
そこで途切れても、悪いことを言ってしまった感じはしなかった。
雨宮さんは、鞄から携帯を出さず、目の前の木を見ていた。
僕も、自分の画面を開かなかった。
*
風が来て、紙の端が少し持ち上がった。
僕が押さえると、雨宮さんも同じ角へ手を伸ばした。
指が触れそうになり、二人とも、半分ずつ引っ込める。
そのせいで紙が、もう一度浮いた。
「……今のは、二人とも譲りすぎました」
「紙の方は、全然譲ってくれなかった」
彼女が吹き出した。
さっきまでより、息が長い笑いだった。
僕は灰色の紙を下へ入れ、白い方を上にする。膝の上で見ると、日向の白さが、思ったより強かった。
「朝倉くん、今日、模型の方も運んだんだよね」
「うん。箱が先に卒業しないように」
「それ、どういう運び方?」
僕は、持つ場所を間違えると屋根だけ外れる、とだけ説明した。
千夏の講評や、彼女が僕を撮った時の話まで、続けて見せる必要はなかった。
雨宮さんは、なるほど、と頷く。
「じゃあ、今日は、物を壊さず運ぶ日だ。ここまで、何勝?」
「卵と模型と、この紙で三勝。さっきの風は、引き分け」
「私、引き分けの所でだけ、参加してる」
「紙の色は、僕一人だと白だけ買ってた。そっちは、一緒に選んだ方」
言うと、彼女の指が灰色の角へ止まった。
すぐ冗談にせず、小さく、そっか、と返す。
僕は紅茶をもう一口飲んだ。
気の利いたことを言おうとしたのではなく、さっき一緒にしたことを、そのまま伝えられた気がした。
彼女が、飲みかけの缶を両手で挟んだ。
「昨日の写真、送ってくれて、嬉しかったよ」
「宝物って、書いてあったから。消さないでって、送っちゃった」
「消さない。あれは、お店の文章とは別の所に置いたから」
僕の耳が、また少し熱くなった。
彼女は、笑ってるから大丈夫、と付け足さなかった。
今、どれくらい元気かを、写真への嬉しさで証明する必要もない。
僕は、うん、と答えた。
*
帰る時刻を確かめると、まだ、少し余裕があった。
まっすぐ戻れば、混む前に店へ着く。
海側の道へ曲がっても、五分ほどしか変わらない。
僕は袋の持ち手を揃え、雨宮さんを見た。
「帰り、海の方を通ってもいい? 僕、あそこから見える灯りが、いつ点くか見たい」
言ってから、彼女が疲れているのに、と足しかけた。
でも、その心配で先に取り消せば、聞いた意味がなくなる。
雨宮さんは、通りの先を見た。
「行きたい。今日は、写真の説明、ずっとしてくれなくてもいい?」
「うん。多分、僕も、ずっとは分からない」
「そこ、詳しいふりしないんだ」
「点く所を、見たいだけだから」
彼女が頷き、僕たちは海の方へ曲がった。
建物の隙間を風が抜ける。茶の缶を持っていた指が、もう冷たくなくなっていた。
港の小さな灯りは、まだ点いていない。
その向こうの水面だけが、建物の陰より明るい。
雨宮さんは欄干へ寄り、しばらく黙って見ていた。
僕も、その横で足を止めた。
カメラは店へ置いてきた。今日は、携帯も出さずに、そのまま見たかった。
それでも、ここへ来た時間を、無駄にしたとは思わなかった。
「朝倉くん」
「うん?」
「紅茶、同じの選んだんだね」
「たまには、甘くない方も飲みたくて」
「……そっか。じゃあ、次も、飲みたい方で」
僕は、彼女の横顔を見た。
元気にするために合わせたのだと思われたのかもしれない。今の返事で、それが少し違ったと伝わったならよかった。
灯りは、まだ点かなかった。
僕たちは時計を見て、店へ戻った。
見たい物が見えなかった分も、次に来る理由として残った。
*
凪待ちの窓は、帰ってみると、さっきより店内を映していた。
澪さんがカップを下げ、母さんが空いた席へ水を置く。
僕は紙とテープ、レシートと八十八円を渡した。
母さんは金額を見て、ありがとう、と封筒を閉じる。
「二色、買ってきたのね」
「ここで、写真を置いて比べたい。夕方の分、もう一枚撮ってもいい?」
「客席が空いてからね。今日は、見本まで」
雨宮さんが、紙入れから修正前の文章を出した。
余白へ、すぐ新しい言葉を書き込まず、窓を見た。
「昼は、通りを見ながら。夕方は、店の灯りのそばで。……こっちから、もう一度書いてみます」
「うん。その方が、私が座っている時に近い。続きも、読ませて」
採用が全部決まった返事ではなかった。
でも、彼女の書いた物へ、店主が自分の言葉を返している。
僕は灰色の紙を壁へ当て、雨宮さんに、携帯の写真を横へ重ねてもらった。
澪さんが、空いた皿を運びながら、少し足を緩める。
「その色だと、窓の方が明るく見えますね」
雨宮さんが顔を上げた。
僕も、紙の角を押さえたまま、窓へ目を向ける。
今日は、二人で見て終わる景色だけではなかった。
戻ってきた席で、別の人の見え方も一つ増えた。
海の灯りは、結局見ていない。
それでも、買い物へ出る前より、次に見たい物を、自分で言いやすくなっていた。




