好きだった人の、悪口じゃない話
【前回までの人物】
・湊:喫茶「凪待ち」の店主の息子。店の紹介文に合わせ、昼と夕方の窓を撮り比べている。
・怜:失恋同盟の一人。湊にカメラを借り、写真を撮ることを試した。
・由紀:凪待ちの店主で湊の母。紹介用の文章と写真は、まだ見本として確かめている。
夕方の写真には、僕の顔が入っていた。
窓の外の街路樹を撮ったつもりが、硝子の真ん中へ、カメラを持つ自分まで戻ってきている。
凪待ちの客席が空くのを待って、ようやく撮った一枚だった。
画面を見た母さんは、笑いながら、僕の肩を少し横へ押した。
「店の紹介に、毎回あなたが立っていると思われると、困るでしょう」
「そこまで、はっきり写ってない」
「でも、隠そうとしてるのは分かる。そっちの方が、気になるのよ」
言い返せず、僕は窓の前から退いた。
雨宮さんは、さっき帰った。昼と夕方の言葉を、家で、もう一度書いてみると言っていた。
澪さんも勤務を終え、母さんへ挨拶をして出ていった。
誰かに見てもらう前に、僕の方の写真も、見本に使える形へしたい。
買ってきた灰色と白の紙が、カウンターへ並んでいる。
昼の窓には、通りが見えた。いまは店内のカップの方が、外の葉へ重なっている。
写真だけ明るくすれば、雨宮さんの文章と同じ店に戻る、という話ではなかった。
鈴が鳴った。
振り返ると、怜さんが、扉を閉じる手を途中で緩めていた。
「あれ。今日は、私が最後?」
「はい。今、客席が空いたところで。閉める準備は、これからです」
「じゃあ、紅茶は間に合う?」
「ええ。先に注文をもらえたら。写真の方は、湊が自分で映り込みすぎてるの」
「母さん」
怜さんが、カメラと窓を見比べた。
耳へ掛かった髪をよけ、今度は僕の立っていた場所へ寄る。
「それなら、私も、映らない練習をしていい? 前の写真、最初の一枚だけで終わるの、少し悔しかったから」
その言い方が嬉しくて、僕は、すぐ頷いてしまった。
貸す前に、ひもを手首へ通してもらう。落ちないことを、操作が分かるより先に確かめた。
*
怜さんの一枚目は、窓の縁だけが、はっきりしていた。
中のカップは、少し柔らかくなっている。
「狙った方へ、合ってないね」
「ここを、先に選べます。押す時に、カメラを下げないで」
「見たくなって、もう下げてた。撮れてるかどうか」
彼女は言ってから、もう一度構えた。
前にカメラを返してもらった時より、指の置き方を覚えている。出来ない所だけを、その人の最初の形にしておきたくなかった。
僕は、後ろから手を重ねず、横へ立った。
「今です。そこから、半分だけ押して」
小さな音がした。
画面を確かめる前に、怜さんが、今のはどう、と僕を見た。
「合ってます。カップの取っ手」
「私が撮りたいの、取っ手だけじゃないんだけど」
「はい。でも、最初に見たかった所へ、合ったので」
彼女は画面へ顔を戻し、少し笑った。
窓の外は、もう青より灰色に近い。その中へ、店の灯りが丸く映っていた。
母さんが紅茶を持ってきて、先に冷めない方を、と声を掛ける。
怜さんはカメラを机へ置き、僕も向かいの椅子へ座った。
「写真は、今日は見本までね。私は奥を片づけてくる。おかわりが欲しかったら、早めに」
「ありがとうございます。冷める前に、ちゃんと飲みます」
母さんは空いた盆を持ち、厨房へ戻った。
客席には、皿を重ねる音だけが、しばらく届いた。
僕は、最初に写ってしまった自分の一枚を、画面の端へ避けた。
*
怜さんは、窓の灯りを撮った写真を、もう一度見た。
「こういうの、前に見たな。旅行先の、夕方の店」
カップへ指を掛ける手が、一度止まった。
僕は、どこですか、と聞きかけて、待った。
彼女が、画面ではなく、本物の窓を見たからだった。
「昔、付き合ってた人と行った所。旅行、好きだったんだよね。私も、相手も」
僕は、小さく頷いた。
同盟の席で、別れた相手がいると聞いている。でも、その人と、どんな場所を見たのかまでは知らない。
怜さんは紅茶をひと口飲み、まだ熱かった、と、少しだけ息を吐いた。
「二人とも旅行が好きなら、暮らす場所の話も、何とかなると思ってた。行く方が好きなのと、戻る場所を決めるのは、別だったんだけど」
「戻る場所」
「うん。相手は、地元で働きたいと言ってた。家の近くで暮らして、そこから休みに出かける。私は、どこで働くかより先に、やりたい仕事を選びたかった」
将来は広告や催事の仕事をしたい、と前に聞いた。
場所を決めずにいることも、何も選んでいないのとは違うのだろう。
僕は、その違いを、分かったつもりで言葉にしなかった。
「怜さんは、それを、相手へ言ったんですか」
「最後には。途中までは、まだ決まってないから、って、先へ送ってた。決まるまで黙ってる方が、相手の邪魔をしないと思って」
彼女は、カップを受け皿へ戻した。
触れた音が、思ったより小さかった。
「向こうは、私も、いずれ近くへ来ると思ってた。それを聞いた時、私、ちょっと怒ったの。勝手に決めないで、って」
怜さんの眉が、わずかに寄った。
今、その相手を叱るための顔ではなかった。
「でも、来ないとも言ってなかった。それで、怒ったまま終われなくなった」
僕は、膝の上へ置いた自分の手を見た。
何か言わなければ、と思う所で、自分の声を急いで探さずに済む席だった。
怜さんの方から話す順が、まだ続いていた。
*
「それで、別れるって、二人で?」
「うん。初夏に。私が仕事を諦めるか、相手が地元を諦めるか、すぐ二つにしてしまう話になって。ほかの暮らし方も話したけど、その時の二人では、選べなかった」
彼女は、選ばなかった、と言い直しかけた。
少し考え、そのまま残した。
「別れてからなら、もっと違う言い方があったって、いくらでも思えるね。でも、二人で選んだことまで、全部、間違ってたことにはしたくない」
店の外を、自転車が一台通った。
窓に映る灯りが、車輪の影へ一瞬だけ欠ける。
僕は、その影が過ぎるのを見てから、顔を戻した。
「旅行の時は、楽しかったんですよね」
「楽しかった。帰りの電車を間違えたのも、今なら、そこまで嫌な思い出じゃない」
「怜さんも、間違えたんですか」
「私が、一本早い方を調べてた。詳しい顔で案内したから、余計に恥ずかしかった」
彼女が笑った。
いつも場を軽くするために出す声より、少し低かった。
僕も笑い、すぐ元の話へ戻すべきか迷った。
でも、その間違いの話も、彼女にとっては、その恋の中にあった物だ。
別れた理由だけが、話す価値のある部分ではなかった。
「相手は、じゃあ先に何か食べようって。私、電車を間違えた自分を挽回したくて、次の乗換えまで、ずっと調べてたんだけど」
「そこで、ご飯にしたんですね」
「うん。たぶん、そういう所が好きだった。失敗した私を、失敗したまま、隣へ座らせてくれる感じ」
言ったあと、彼女は、カメラのひもへ目を落とした。
僕は、さっき自分が、合ってます、と言った声を思い出す。
今ここで、その人と同じことをしている、と重ねたいわけではなかった。彼女も、そういう比べ方を頼んでいるようには見えない。
僕は、カップの向こうから、聞けた分を返した。
「その人を好きだったことまで、やめるのは、難しいですね」
怜さんが、僕を見た。
僕は、言い過ぎた気がして、口を少し閉じた。
「朝倉くんも?」
*
透子に断られてから、六日目だった。
毎日、思い出す回数を数えてはいない。けれど、昨日と同じように課題の話が出来ても、前と同じ毎日へ戻れたかと聞かれれば、返事は遅れる。
「僕は、ちゃんと付き合ってたわけじゃないので。怜さんと同じだとは、言えないです」
「同じ話にしなくても、聞けるよ」
彼女の声が、そこで少し柔らかくなった。
僕は頷いた。
「好きになったのは、別に、間違いじゃなかったと思いたいです。断られたから、見る目がなかったって、自分に言うのも、ちょっと違う気がして」
カップのない手元を見て、指を組む。
相手をよく知らずに、勝手に期待した所はある。それは残る。
でも、好きな人が教室へ来るのを楽しみにした時間まで、あとから恥ずかしいだけの物へ変えたくはなかった。
「それと、まだ会ったら気にするのは、両方あるんですけど」
「うん。私も、相手の地元の駅名を聞くと、一回、そっちを向く」
怜さんは、もう大丈夫、と続けなかった。
僕も、それならまだ好きなんですね、と答えを付けなかった。
人の気持ちを、一つの名前へまとめると、話し終わったような顔だけは出来る。
今は、その顔で席を閉じる必要がなかった。
「相手がひどい人だったら、簡単に話せたのかなって、思ったこともある。でも、それで楽になるために、悪い所を探したくはない」
「それだと、好きだった時の怜さんまで、ずっと間違ってたことになりそうで」
「そう。あと、私だって、ちゃんと話せてなかった。……だからって、全部私が悪かったで終わるのも、違うんだけど」
最後の方で、彼女の眉が少し上がる。
自分の言葉を、自分で支え直した顔だった。
僕は、はい、と頷いた。
善い人だったか、悪い人だったかを決めるために、今日は話していない。別れてしまった二人の、どちらの暮らしも、その先へ続いている。
*
厨房で水の音が止まった。
母さんが、客席を見てから、戸の札を裏返す。
「あと、十五分くらいは大丈夫。帰る支度だけ、ゆっくり始めてね」
「はい。ありがとうございます」
怜さんが、空になったカップを見た。
母さんは、話の中身を訊かず、カウンターの布巾を洗いに戻った。
僕も時刻を見て、カメラを机の真ん中へ置いた。
「さっきの一枚、送ってもいいですか。今日は、取っ手の方へ合った記念」
「ちゃんと全部を撮りたかったことも、付け足して」
「文面に?」
「ううん。私が覚えてる分に。あと、最初の、少しぼけた方も欲しい」
僕は、消そうとしていた一枚を開いた。
窓の縁が先に見えて、奥のカップが柔らかい。完成した見本には、向かないかもしれない。
でも、彼女が、ここを見たかった、と持って帰る分まで、僕が選ぶ必要はなかった。
「二枚とも。僕も、消さずに残します」
「全部を上手く出来た日にしないで、残るね」
怜さんが、小さく笑った。
昔の旅行へ戻れた笑いではない。悲しさが片付いたことを、僕に証明する笑いでもなかった。
今日、窓へカメラを向けた人が、二枚を、自分の物として欲しがっている。
僕は、その返事を、嬉しいと思った。
*
怜さんはカウンターで紅茶の代金を済ませた。母さんから釣りを受け取り、財布を鞄へ戻す。
店を出る前に、彼女は窓を振り返った。
外はもう、店の中より暗い。
硝子には、カメラを片付ける僕と、鞄を持った彼女が、薄く並んでいた。
「また、撮っていい?」
「はい。僕も、怜さんが次にどこを選ぶか、見たいです」
言うと、彼女は一度、僕の方へ顔を向けた。
いつもの、先輩らしい返事が来るまでの間より、少し長かった。
「じゃあ、次は、私が撮りたい物を、先に考えてくる」
僕は頷いた。
次の日時は、今日は決めない。彼女にも、僕にも、店の外で決める予定がある。
それでも、また来た時に何をしたいかは、言葉に出来た。
怜さんを見送り、戸を閉める。
カウンターには、白と灰色の紙が残っていた。
僕は昼の写真と、夕方の写真を並べる。母さんに見せる見本は、まだこれからだ。
雨宮さんへ、夕方の写真が撮れた、とだけ連絡した。怜さんの昔の恋の話は、送る文へ混ぜなかった。
私的な席で渡してもらった言葉には、その席のまま置いておく範囲がある。
最後に、自分が映り込んだ失敗の一枚を、もう一度開いた。
カメラを持つ僕が、窓の中で、少し困った顔をしている。
透子への気持ちは、まだ、片付いていない。
今日聞いた話で、全部の整理がついたふりもしない。
それでも、好きだった時間を、好きだったと言ってよいことは、今夜、自分の言葉に少し近づいた。
僕はその一枚も、すぐには消さず、写真の列の端へ残した。




