まだ弾きたい、八小節
【前回までの人物】
・湊:喫茶「凪待ち」の店主の息子。写真を撮りながら店を手伝い、失恋同盟の仲間と過ごしている。
・澪:凪待ちで働く大学一年生。ピアノを続け、練習帰りに店へ寄ることもある。
・怜:同盟の一人。湊に昔の別れを話し、好きだった時間まで否定しなくてよいと伝えた。
澪さんの間違えた音は、僕が思ったより先に止まった。
大学の共用練習室で、鍵盤から両手が上がる。
蓋の向こうへ伸びていた響きだけが、遅れて部屋の壁へ消えた。
「今のは、聴かなかったことに……いえ、そこを聴いてほしかったんです」
白石澪さんが、譜面へ目を戻した。
長い指で、同じ小節を押さえている。肩の少し下で一つに結んだ黒髪が、身をかがめると、前へ落ちた。
僕は壁際の椅子へ座ったまま、慌てて首を振る。
「ちゃんと、聴いてる。でも、どこが間違いだったかまで、僕には」
「はい。私が、先に言うべきでしたね」
真面目な声で返し、彼女は、自分でも少し笑った。
鍵盤へ戻る前に、手首を一度回す。
上手い人が間違えた時も、こんなふうに、言いたいことを言い直すのだと、僕は初めて知った気がした。
昨日、凪待ちで怜さんを見送ってから、僕は夕方の写真を母さんへ見せた。店の紹介は、まだ見本のままだ。
今日は、その次の日だった。
透子に返事をもらって、七日目。
授業が終わったあと、澪さんから連絡が来た。練習している所を、少し聴いてもらえないかという、短い文だった。
録画を頼むなら、僕へ聞いてみようと思ったらしい。
自分の店の予定とぶつからないことを確かめて、来ると返した。
四時から四時半までの、予約した練習室。
僕が入った時、澪さんはもう椅子の高さを直していた。
今日は、店のエプロンではない。大学の鞄と、角の折れないように挟んだ譜面が、椅子の横へ置かれていた。
*
「ここから、八小節だけです。右が先へ行って、左が、いつも慌てます」
彼女は譜面を持ち上げず、鍵盤の上で、ゆっくり片手ずつ弾いた。
僕には、音符から動きを追うことは出来ない。
ただ、さっきは転んだ階段のように聞こえた所が、今は、低い音を一つずつ置いていく道に聞こえた。
「今の速さだと、最初の音が、ちゃんと残るね」
「そうなんです。ゆっくりなら、出来ます。両手にすると、出来る方へ急いでしまって」
彼女は右手を見た。
得意な方が、苦手な方を助けてくれるとは限らない。その言葉で、僕にも分かる所があった。
写真を撮る時、見慣れた所だけ早く決めて、隅の映り込みを見落とす。
でも、同じですね、と、彼女の練習を自分の失敗へ寄せるのはやめた。
「録るなら、どこを入れたい? 手と、音?」
「手は、両方。顔は、なしでお願いします。止まった時、変な顔をするので」
「変かどうかを、僕が判定する方には、しないよ」
「判定は、私がします。だから、入れない方で」
言い切ったあと、彼女がこちらを見た。
僕も頷き、笑った。
硬い敬語の奥へ隠れていたのではない。何を残したいかを、ちゃんと決める人の返事だった。
僕はスマートフォンの画面を、彼女に向けた。
鍵盤の端と、両手が入る位置。肩より上は映らない。
試しに一度構え、録り始める前に確認してもらう。
「ここなら、どう?」
「はい。あと、左の小指が、ぎりぎり……もう少しだけ」
椅子の横へずれると、床が小さく軋んだ。
澪さんは、その音にも顔を上げた。
「そこ、動かないで大丈夫ですか」
「うん。僕の方は、座ったままで録れる」
録画する人の都合まで、演奏する方が見ている。
それが嬉しくて、僕は画面へ顔を隠しかけ、ちゃんと彼女へ目を戻した。
*
一回目の録画では、また途中で止まった。
澪さんが、ああ、と短く声を出す。
きれいに整えてから出す言葉ではなかった。
「同じ所。そこまで、覚えなくていいのに」
言って、自分の右手へ少し眉を寄せた。
僕は録画を止め、すぐ、惜しかったね、と言うのを飲み込んだ。
本人が何度やっている所なのかも知らず、初めて聴いた一回へ点数を付けるのは、少し違う。
「今の、見る?」
「見ます。消すかどうかは、見てからで」
彼女は鍵盤へ薄い布を掛け、椅子を少し引いた。
僕の隣へ立つのではなく、画面が見える向きに自分の椅子を回す。
録音された音は、さっき部屋で聴いた物より近く、少し硬かった。
澪さんは、止まる直前で画面へ指を置いた。
「ここで、手首も上がってる。音だけ聴いてると、次の小節で慌てた気がしてました」
「もっと前から?」
「はい。左が届かないと思って、先に右を逃がしてるみたいです」
画面の手が、同じ所でもう一度動く。
さっきは失敗した時の変な顔を気にしていた人が、今は、その一つ前を何度も見ている。
僕は、再生を戻す時だけ指を動かした。
本人が見ている物の名前を、僕まで全部知ったふりはしない。
それでも、何を見るために呼んでもらえたのかは、少しずつ分かってきた。
*
時計は、まだ四時十五分になる前だった。
澪さんは飲み物をひと口飲み、膝へ手を置く。指だけでなく、肩まで少し下りた。
「いつも、こんなふうに、同じ所を練習するの」
「同じ所ばかりで、嫌になる日もあります。今日は、その日ではなかったはずなんですけど」
「僕が、来たから?」
「少しは。出来た所から、見せたくなりました」
彼女は、困ったように口元を曲げた。
僕を責める声ではない。自分で気づいて、少し悔しがっている声だった。
「僕は、途中も聴けてよかった。全部弾けた所だけだと、どの音を待ってるのか、分からなかったと思う」
言ってから、えらそうだったかな、と付け足しかける。
でも、澪さんは譜面の端を押さえ、少しだけ顔を上げた。
「待ってる音、ですか」
「うん。さっきの、低い方の音が、次まで残る感じ。僕には、そう聴こえた」
正しい専門用語ではないだろう。
彼女は訂正するより先に、鍵盤へ視線を戻した。
「そこ、消したくなかったんです」
短い言葉だった。
僕は、その返事が嬉しかった。
*
「小さい頃、家に帰ると、母が、今日は何を弾けたのって聞いてくれて」
澪さんが、鍵盤に布を残したまま話し始めた。
「何も出来なかった日は、同じ所をやった、としか言えませんでした。父も母も働いて、月謝を出してくれていたので。何か増えた方を、言いたくて」
僕は、膝の上へ置いた自分のスマートフォンを伏せた。
ここから先まで録る頼みは受けていない。
澪さんは、その動きを見てから、少し息を緩めた。
「でも、母には、音が一つ違う時があるって言われました。全部、同じじゃないって」
「聴いてくれてたんだね」
「はい。私が、出来たって言う前から」
窓の向こうで、誰かが廊下を歩いた。
足音が過ぎるまで、彼女は少し待つ。
「音楽だけを専門にする進路は、選びませんでした。費用のことも、私がどこまで進めるかも、話して。簡単に、親に止められたって言うのは違うんです」
彼女は、話した時の自分を思い出すように、指を組み直した。
「私も、ほかのことを学びたかった。子供が、弾けた音を人に聴かせたいと思った時に、ちゃんと聴ける方へ行きたくて」
「音楽を、教える方?」
「それを、教育の方からも学びたいです。今の私が、もう先生になれるという意味では、ないですけど」
最後の一言が、急いで付いた。
僕は、分かる、と頷きかけて止めた。僕には、その勉強の量までは分からない。
「今、練習してる理由には、その先も入ってるんだ」
「はい。それと、今の曲を、私が弾きたいです」
その言葉の方が、少し強かった。
未来の誰かに役立つからという理由だけで、今日の一曲を抱えているわけではない。
僕は、その順が、彼女らしいと思った。
*
澪さんは、布を外す前に、自分の指を見た。
「前は、好きな人に、上手くなった所を見せたいと思ったことも、あります」
僕は顔を上げた。
同盟の席で聞いたことのある、彼女の失恋。その先を、僕から尋ねたことはない。
「だから、もう、そのためではないと言うと、そこまで嘘になる気がして。でも、今、練習をやめたいわけでもなくて」
言葉が一度、途切れた。
僕は、昨日の怜さんの旅行の話を思い出した。
けれど、その内容をここで渡してよいわけではない。
僕が返すなら、自分の言葉で返したかった。
「好きだった人へ見せたいと思った時間があっても、今、弾きたい曲まで、その人の物にはならないと思う」
澪さんが、少しだけ瞬いた。
僕は、自分の言い方が大きすぎた気がして、膝へ目を落とす。
「僕も、まだ、うまく分けられる方じゃないけど」
「……はい。私も、です」
整った返事だけで終えず、彼女は譜面の一番上へ指を置いた。
「その人が聴かなくても、ここから、弾きたいんです」
その時、彼女の顔から、困った笑いが少し消えた。
悲しみがなくなったわけではないのだろう。
自分の手を、自分の次の音へ戻した顔に見えた。
*
次の一回は、速さを落とした。
澪さんが、先に、その速さを二度確かめる。僕は録画の画面へ両手が入るのを見て、顔を上げた。
「始める?」
「はい。今度、途中で止まっても、私が手を上げるまで、録ってください。戻り方も、見たいので」
分かった、と返して押す。
最初の低い音が、部屋の床へ広がった。
右手の音が、その上へ乗る。
さっき速くなった所で、彼女の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
僕は息を止めかけ、音へ戻した。
左の指が、次へ届く。
音は、消えずに続いた。
八小節目の最後で、右手がゆっくり鍵盤から離れる。
澪さんは、すぐ、どうでしたかと訊かなかった。
自分で残った響きを聴いていた。
僕も、その時間を、先に喋って埋めたくなかった。
やがて、彼女の手が上がる。
僕は録画を止めた。
「今の、途中で走らなかったです」
「うん。低い方の音、最後まで聴こえた」
彼女の顔が、そこで笑った。
僕に褒められる前に、出来た所があった人の笑いだった。
「もう一回……あ、時間」
壁の時計へ目が行く。
四時二十五分を過ぎていた。
澪さんは、残念そうに譜面を見てから、閉じた。
「片付けます。次の人に、待ってもらうわけにはいかないので」
上手く弾けたから、予約の外まで時間を伸ばしてよいことにはならない。
彼女は椅子の位置を戻し、忘れ物がないか確かめた。
*
廊下へ出ると、音のない方の広さに、耳が少し驚いた。
澪さんは、自分のスマートフォンへ届いた二つの動画を確かめた。
最初に止まった方と、最後まで繋がった方。
どちらも、本人へだけ送った。凪待ちの紹介用の写真や、誰かに見せる記事へ入れる物ではない。
「最初の方も、残します。明日、また同じ所で慌てたら、今日、気づいた場所を忘れそうなので」
「僕の方は、どうしよう。送れたら、消しておく?」
「手元の分は、消してください。次に、私が聴いてほしくなったら、自分で送ります」
僕は頷いた。
頼ってもらえたことと、その後まで持っていてよいことは、同じではない。
送信が終わったのを二人で確かめ、自分の端末の二本を削除した。
澪さんは、ありがとう、と、少し柔らかい声で言った。
階段の前で、彼女が譜面を抱え直した。
「今日は、聴いてもらえたら、少しは人前の練習になると思って。でも、失敗した所からで、すみません」
「僕は、また聴きたい。録画が要る時だけじゃなくても」
言ってから、自分でも少し照れた。
店の用事でも、誰かの代わりでもない、自分の希望だった。
澪さんは、すぐ、いつでも、と返さなかった。
譜面の端を軽く押さえ、僕を見た。
「では、次に練習の予約が取れたら、訊いてもいいですか。都合が合う時だけ」
「うん。その時、僕も、自分の予定を見て返す」
「はい。私も、来てもらえる日だけ、練習するのではないので」
最後は、彼女の方が先に笑った。
僕も笑い、階段を下りる。
好きだった人のことは、二人とも、今日で全部片付いたわけではない。
それでも、また聴いてみたい音が、自分の明日の方にも出来た。
窓から入った夕方の光が、澪さんの抱えた譜面の白へ当たる。
僕は写真に撮らず、その隣を、出口まで歩いた。




