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空いている日に、僕を消した

【前回までの人物】

・湊:喫茶「凪待ち」の店主の息子。写真が好きで、店を手伝う大学二年生。

・ひよりと怜:湊と同じ失恋同盟の仲間。ひよりは文章、先輩の怜は催しや広告に関心がある。

・澪:凪待ちで働く大学一年生。湊に練習の録画を頼み、また聴いてほしい時には自分から訊くと話した。

・千夏:湊の幼なじみ。建築を学び、課題の模型づくりにも取り組んでいる。

 みんなの空いている日を、五つの丸で囲んだ。

 僕の予定だけ、消しゴムを使った。

 その時は、予定が決まってよかったと思っていた。


 澪さんと大学の出口で別れたあと、僕は凪待ちへ戻った。

 告白から七日目の夕方。店の扉を開けると、コーヒーより先に、焼いたパンの匂いが来る。

 母さんがカウンターから顔を上げた。

「お帰り。手を洗ったら、四番の水をお願い」

「うん。あと、今日の写真、夜に少し見せたい」

「落ち着いてからね。今は、四番が先」

 水差しを持つと、指の間へガラスの冷たさが移った。

 さっきまで、音が残るのを待っていた手だ。

 今は、グラスを空にして待っている客へ、先に水を運ぶ。

 その切り替わりが、嫌ではなかった。

 いつも通りの店で、今日、聴いた音だけが、少し自分の中に残っていた。


     *


 ひよりさんが来たのは、そのあとのことだった。

 今日は紹介文の見本を持っている。仕事の相談だからと、鞄を椅子へ放り投げず、カウンターの脇で母さんの手が空くのを待っていた。

 前髪を耳へ掛け、僕が戻ると紙を少し持ち上げる。

「三行、減らしました。減らしたあとに一行戻したので、勝ったのは二行です」

「行数と戦ってたんだ」

「はい。最初の敵が、私でした」

 僕は笑い、水を置いた。

 紙の見本には、窓辺と、湯気の立つカップの写真が入っている。文章は、店の名前からいきなり大きな思い出へ飛ばず、まず、どんな席で飲めるかを伝える形になっていた。

 母さんは一度読んで、店の時間の一行へ指を置く。

「ここは、今の営業案内と揃えて。あとは、閉店後にもう一度読む」

「分かりました。今日、返事を全部いただくつもりではないので」

 ひよりさんは自分の控えへ印を入れた。

 それから、ようやく客の椅子へ座った。

「では、ここからは、私のコーヒーをお願いします。文章を出したら無料、にはしない方で」

「母さん、いま、かなり真剣に聞いてたよ」

「そこだけね」

 カウンターから返る母さんの声で、二人とも笑った。

 文章を読んでもらう時と、客として休む時で、同じ席にも、少し違う時間があるらしかった。


     *


 怜さんは、仕事の連絡を一本終えてから入ってきた。

 扉の外で端末をしまい、肩に掛けた鞄を直す。こちらを見つけると、小さく手を上げた。

「遅くなった。ひより、まだ、働いてる方?」

「いえ。今、飲んでいる方です。さっき、区切りました」

「よかった。私も、そっちへ入りたい」

 怜さんは隣の席へ座り、メニューを開いた。

 誰かを慰めるために、いつも余裕を残して来る人の姿ではなかった。

 僕が注文を聞くと、少しだけ迷い、甘い方の飲み物を指した。

「今日は、こっち。さっきまで、苦い顔で話してたから」

「飲んだら、顔も甘くなるんですか」

「そこまで効くなら、湊くんにも一つ買ってあげる」

 ひよりさんが、カップを口へ運ぶ前に笑った。

 僕も笑って、伝票へ注文を書いた。


 外へ行く話は、出来上がった飲み物と一緒に始まった。

 怜さんが、港の先の遊歩道へ行きたいと言ったのだ。

 前に撮った写真を、自分の端末で見せてくれる。

 水平線が、見事に斜めになっていた。

「これ、撮った時は、まっすぐなつもりだったの。私が傾いてたのかな」

「岸の線を、画面の端だと思ったのかもしれません」

「次は、海の方へ聞いてから撮る」

「返事が、波で来ますね」

 ひよりさんの言葉に、怜さんは、それは困る、と笑った。

 僕は、もう一枚を見せてもらう。

 うまく撮れている物もあった。歩く人の足と、長く伸びた影。その少し先に、ベンチがある。

「これ、好きです。足が、もう、次の方へ行ってる」

 僕が言うと、怜さんは画面を自分へ戻した。

「それ、失敗の方へ分けかけてた。じゃあ、残す」

 点数を付けたつもりではなかった。

 見えた所を渡すと、相手の残したい物が、一つ変わった。

 その小さな動きが、さっき聴いた音とは違う形で、また嬉しかった。


     *


「皆さんで行くなら、食べる所も一つ、欲しいです」

 ひよりさんが、自分の端末へ店の名を出した。

 海へ向かう道にある、小さなパン屋だった。

「前を通ると、焼いている時だけ、ものすごくいい匂いなんです。私、いつも、急いでいる日に通ってしまって」

「じゃあ、急がない日に」

 僕が返すと、彼女は、はい、と頷いた。

「買ったパンを、すぐ食べたい方です。鞄に入れて、一日働いてから出すより」

「それは、かなり大事な予定だね」

「三行減らすより、大事かもしれません」

 冗談のあと、彼女は本当に行きたい顔をした。

 僕は、机の端へ小さな紙を置いた。

 皆の都合が合う日を、書いてみたくなったのだ。


 澪さんには、同盟の四人の連絡の場へ、外出の候補だけ送った。

 今日の練習のことや、二本の録画は、そこへ持ってこない。

 すぐ返事が来るとは思わず、僕は一度、端末を伏せた。

 怜さんは自分の手帳を開き、ひよりさんも授業と家の用事を確かめる。

 空いた時間の人間が、いつも同じ四人、店で待っているわけではない。

「三日後の午後なら、私は、いまのところ。夕方には、別の用があるけど」

 怜さんが、紙の一つを指した。

 ひよりさんは、自分の画面で家の用事を確かめた。

「私も、午後なら。ただ、お店を一軒増やすと、帰る時刻を忘れそうです」

「じゃあ、パン屋で三時間、は、やめよう」

 僕が言うと、ひよりさんは少し真面目に悩んだ。

「……それは、それで、出来そうで怖いですね」

 その顔が可笑しくて、僕は、紙へ最初の丸を描いた。


     *


 千夏は、二人の飲み物が半分ほどになった頃に来た。

 肩の鞄が、いつもより四角く膨らんでいる。中の課題の図を曲げたくないらしく、戸を押す時も、壁の方へ身体をずらしていた。

「湊。今日は、席、まだ大丈夫?」

「うん。でも、図を全部広げるなら、奥の方が」

「今日は、広げない。私まで、机の上に建つことになるから」

 千夏はひよりさんと怜さんへ挨拶し、空いた所へ座った。

 僕が外出の話をすると、すぐ行くと答える代わりに、課題の予定を開いた。

「三日後? 午前の作業が終わって、午後なら。前の日に徹夜して来いって日程は、やめてよ」

「それは、僕も嫌だよ」

「湊は、眠くても、皆が楽しそうならいいです、って顔するから」

「声まで、僕より丁寧になってる」

 千夏は笑い、鞄を足元へ置いた。

 同盟の席とは別に、千夏とも一緒に歩きたかった。彼女には、外へ行く予定として話した。

 ひよりさんがパン屋の話をすると、千夏は、隣の建物の窓を見たい、と言った。

「道路から、中まで抜けて見える所。写真だと分からないから、一度、立って見たい」

「パンを買ったら、そこへ立つ方も出来るね」

「うん。でも、私が窓を見てる間、皆が全部食べ終えるのは、なし」

 ルールのように言ってから、彼女もメニューを開いた。

 自分の見たい所がある人の返事が、紙へ増えていった。


     *


 澪さんから返事が来たのは、僕が空いた皿を下げたあとだった。

 三日後は午後なら出られる、とあった。

 練習は午前にしていて、夕方には家へ連絡する用事があるそうだ。

 書かれた範囲だけ、皆へ伝える。

 別の予定を、なくしてもらう必要はなかった。

「湊くんは、その日、店は?」

 怜さんが訊いた。

 僕はカウンターへ向き直る。

 母さんに聞くと、その午後は、もともと僕の担当ではないと、帳面を見せてくれた。

「代わりに、別の日を増やしたことにはしないでよ。決めてある所は、そのまま」

「分かってる。じゃあ、僕も、空いてる」

 口から出た時には、ほとんど、決まっていた。

 自分の端末へ、写真展の案内が残っていることを、知らなかったわけではない。

 三日後の午後。

 小さな海辺の展示室。見に行ける最後の日。

 昼過ぎから開いて、最終入場は二時、三時には閉まる。

 健太と、行けそうなら一緒に行こうと話していた。

 ほかの日は、授業や店の担当と重なる。だから、三日後を楽しみにしていた。


「何か、入ってた?」

 千夏が、僕の手元を見た。

 僕は、画面を一度閉じた。

「ちょっと、見たかった物。でも、先に決まってた用事じゃないから」

 決まっていなかったのは、健太と会う時刻だ。

 行きたかったことまで、未定だったわけではない。

 でも、そこまで言う前に、僕は紙へ五つ目の丸を描いていた。

「一時半に、この店の前からなら。四時くらいまでで、どうかな」

「私は、それなら戻れる」

 怜さんが、自分の手帳へ時刻を入れる。

 ひよりさんも、千夏も頷いた。

 澪さんへ送ると、少しして、楽しみにしています、と返ってきた。

 僕は、それを読んで、ちゃんと嬉しかった。

 嬉しかったから、消した予定が、小さく見えた。


     *


 千夏が帰る前に、母さんへ注文の会計を済ませた。

 鞄を肩へ戻すと、角が、さっきより少し上へ来る。

「じゃあ、私は、課題を今日の所まで終わらせる。三日後に、窓の前で眠くならないために」

「うん。お疲れ」

「湊も、自分の用事、片付けなよ」

 何でも知っていて、僕の嘘へ釘を刺した声ではなかった。

 千夏は、僕がまだ何を見に行きたかったか、知らない。

 自分の鞄を持ち直して、先に、今日の続きへ戻っていった。

 怜さんも帰る時刻になり、ひよりさんは紹介文の控えだけ母さんへ渡す。

 皆が出たあとの席は、いつもの木の色へ戻った。

 さっきまで、五人分の楽しみが、そこへ置かれていた気がする。

 僕は紙を畳み、ポケットへしまった。


     *


 十九時に店を閉め、片付けが済んでから、母さんへ写真を見せた。

 僕が見せたのは、澪さんの手でも、練習室でもない。

 凪待ちの窓と、カップと、厨房から見える客席だった。

「この、端に残ってる皿、もう少し入れた方が、うちっぽいかもね」

「片付ける前なのに?」

「全部並べ終わった店より、次に使う皿が待ってる方。私は、好き」

 母さんが、自分の店の顔を選んだ。

 僕は画面を戻し、よく似た二枚を並べる。

 小さく残っていた皿が、言われてから、急に、余計な物ではなく見えた。

 自分と違う人が、写真のどこを見るのか。

 見に行きたかった展示も、そういうことを知りたかった。

 遠くの港で働く人の写真が並ぶと、案内に書いてあったのだ。

 自分の町では見慣れた物を、その人は、どう残すのだろう。

 その問いは、今夜、まだ、なくなっていなかった。


「湊、まだ、選ぶ?」

「もう少し。母さんは、先に休んで」

「長くやるなら、灯り、こっちだけにしてね」

 母さんは、空いたカップを持って奥へ行った。

 息子の写真を見る人から、明日の仕込みを考える店主へ戻る後ろ姿だった。

 僕も、机の上へ、自分の予定表を出した。


     *


 鉛筆で書いていた、展示、の二字を消した。

 その下に、海、パン、窓、と、小さく書く。

 行きたい物が三つになったのだから、増えた方だと思おうとした。

 でも、紙には、消しゴムの細いかすが残っていた。

 僕は掌で払わず、指で一つずつ、端へ寄せた。

 端末に、健太から連絡が来た。

 展示の最終日、午後に行けそうだという文だった。

 僕は、さっき皆へ送った時刻を、もう一度見た。

 一時半から、四時。

 どちらも行けるように、少しだけ足を速くすればいい。

 一瞬そう考え、会場までの道を見て、それは無理だと分かった。

 皆の外出へ遅れて、パンを選ぶ時間を急がせることになる。

 なら、自分の方を、消す。

 その考えは、驚くほど、簡単に戻ってきた。


 ごめん、その日、別の予定が入った。今回は、行けない。

 文を打ち、送った。

 別の予定、の方には、自分で、丸を五つ付けたのだ。

 誰かに、来いと言われたわけでもない。

 澪さんへ、また聴きたいと自分から言えた時の嬉しさを、思い出した。

 自分の希望を言えることと、いつでも残せることは、まだ、同じではなかった。

 僕は、皆の予定を合わせた紙を、予定表の上へ置いた。

 五つの丸は、きれいに揃っている。

 僕のところだけ、消した字の跡が、薄く残っていた。


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