僕も、そこへ行きたかった
【前回までの人物】
・湊:喫茶「凪待ち」を手伝う大学二年生。皆との外出を提案し、同じ日に見たかった写真展を諦める連絡を送った。
・健太:湊の大学の友人。映像と音を学び、写真展へ行けそうなら一緒に行こうと話していた。
・ひより・怜・澪:湊と私的な失恋同盟を作った仲間。千夏を含む五人で、二日後の午後に出かける仮の予定を立てている。
透明な袋に入れた、借りていたケーブルを返すだけのつもりで、健太を探した。
告白から八日目の昼。講義棟を出ると、風は冷たいのに、日向の手摺だけ温かかった。
昨夜、行けないと送った文には、朝になって、分かった、飯は、と返事が来ていた。
僕はケーブルの入った袋を持ち直す。
理由を詳しく訊かれなかったことに、少しだけ安心していた。
「湊。それ、返す前に一回、巻き直せ」
学食前のベンチにいた健太は、袋の外から形を見ただけで言った。
「ちゃんと留めたよ」
「留める前が、ちゃんとしてない。そこだけ、頑張って丸くしただろ」
袋を開くと、中で一箇所、輪が細く捻れていた。
僕が指を掛けるより先に、健太は食べかけのパンを包みへ戻す。
「ほら。こんな曲がり方、俺の腰でもしない」
「健太の腰は、そんなに詳しくない」
「じゃあ、今度撮る時、見とけ。機材より先に俺が壊れる」
手の中で、ケーブルが柔らかい輪へ戻る。
僕は袋を膝へ置き、空いた所に座った。
「ありがとう。模型の時、助かった」
「映像じゃなくても、役立ったならいいけど。お前、自分の変換のやつは?」
「まだ、買ってない」
「次も借りるつもりなら、先に言えよ。俺が持ってく日と被る」
「うん。先に訊く」
それは分かりやすい用事だった。
相手が使う物を、自分がいつ使いたいか。訊いて、空いていなければ違う日にする。
昨夜の紙の丸より、ずっと簡単に思えた。
昼は、二人とも学食で買って、外の席へ運んだ。
健太のパンは朝の残りで、昼の皿には別に、大きな揚げ物が載っていた。
「そのパン、ここで食べる必要あった?」
「腹減って、待てなかった。今から食べる分は、別」
彼は皿を持つ手を少し引いた。
取ろうとしていたわけではないので、僕は笑って自分の箸を割る。
風が吹くと、遠くの練習場から笛の音が流れてきた。健太の袋の口が動き、畳んだ包み紙が飛びそうになる。
僕が端を押さえると、彼は皿から目を離さず、ありがと、と言った。
そのあとで、普通の声で訊いた。
「展示、何でやめたの」
「別の予定が入って」
「それは、読んだ」
箸が一度止まる。
健太は追いかけず、揚げ物を小さく分けた。湯気が、切れ目から出る。
「店の方?」
「違う。友達と、出かけることになって」
「そっか。じゃあ、俺は一人で見てくる」
あっさり言われて、僕は頷いた。
それで終わっても、おかしくなかった。
友達と行く。健太は、一人で行く。誰も困らない。
それなのに、味噌汁を飲もうとすると、港で働く人の写真が並ぶという案内の一文が、また浮かんだ。
どんな距離から撮ったんだろう。
働いている手だけを切り取ったのか。待っている顔もあるのか。
画面の小さな見本では、端まで見えなかった。
「……混むかな」
気づくと、僕は訊いていた。
「最終日?」
「うん。小さい展示室だし」
「分かんない。だから、一時過ぎには着いとこうと思ってる。お前、前は、最初の方の空いてる時間に見たいって言ってたよな」
「音が聞こえそうな写真だったから」
言ってから、健太の方を見る。
彼は、からかわずに、箸を皿の上へ置いた。
「音?」
「見本の、荷物を待ってる人。後ろに船があるんだけど、顔はそっちを見てない。誰かが呼ぶのを待ってるみたいで。写真なのに、次に声がする気がした」
説明するうちに、店の窓を撮った時のことまで思い出した。
カップだけ置けば、綺麗には撮れる。けれど、置いた人の手が離れた直後は、少し違う。その人がそこにいたことを、僕はどう残したいのか。
「そういうの、実際に並んでるところで見たかった」
「だったら、行きたいんじゃん」
健太の声に、僕は口を閉じた。
当たり前のことを言われたのに、昨夜、自分で消した字を読まれた気がした。
「みんなの時間、揃ったから」
僕は箸で米を少し寄せた。
「その日しか、合わない人もいて。もう一時半からって、送ったし」
「向こうが、その時間を決めたの?」
「僕が」
「……お前が?」
「うん」
健太が、額へ手を当てた。
「悪い。何か、抜けられない用が増えたんだと思ってた」
「出かけるのも、僕が誘ったんだ。だから、自分だけ展示に行きたいって、あとから言うのは」
そこで、次の言葉が出なかった。
わがままだから。
それを言い切ると、机の向こうの人まで、僕の代わりに決めたことになりそうだった。
健太は少し黙って、皿を自分へ寄せた。
「それで、本当に、一緒に楽しめるの」
強い声ではなかった。
だから、聞き返して時間を稼ぐこともできなかった。
僕は味噌汁の椀を置く。まだ残っているのに、もう軽い。
「楽しみだよ。海の方に行って、パンも買って。見たい建物もあるし」
「じゃあ、よかった」
そう答えた健太の方へ、僕は顔を上げた。
「え、それでいいの」
「俺が、行くなって言うわけじゃないだろ」
「でも、いま」
「行きたかった展示を、なかったことにして話すから。どっちなのかなって、訊いただけ」
彼は、残ったご飯へソースを少し落とした。
「俺と行く方を選べ、って言ってるように聞こえたら、ごめん。そうじゃない」
僕は首を振った。
彼の言うどっちかを、今すぐ一つにしようとしていたのは、自分だった。
皆との外出は楽しみだ。
写真展も、楽しみだった。
消しゴムを使っても、後ろの方まで消えなかっただけだ。
「前にさ」
健太が、空いた包み紙を畳み直した。
「俺、映像の班で、音の係やったじゃん」
「夕方に、芝生の所で撮ったやつ?」
「そう。俺も、最後の光で撮りたいカットがあったんだよ。でも、誰も言わないから、録る方をずっとやって。終わってから、まだ一個あるって言った」
彼は、自分の膝へ手を当てる。
「そしたら、もう電池がなかった」
「……言わなかったの」
「言わなかった。みんな、音は大丈夫かって何回も訊いてくれたし。大丈夫って答えたのも俺」
僕は、学食の皿の向こうに、あの夕方を思い出した。
上がってきた映像は見たことがある。鳥の声がよく入っていて、健太も面白かったと言っていた。
その先に撮りたかったものがあるとは、知らなかった。
「そのあと、言えた?」
「言った。次の回に、俺のも撮ってくれって」
「次があったんだ」
「うん。毎回あるかは、分かんないけど。あの時は、あった」
軽く言う彼の指が、包み紙を同じ所でもう一度折った。
「俺も、言ってるほど上手くやれてない。いまでも、頼む前に、これだけ終わらせようってなるし」
健太の失敗が、僕の予定の答えになるわけではない。
展示の最終日は、次の回を待ってくれない。
それでも、見えない所で同じようなものを消していた人が、隣にいたと分かった。
僕は、冷めかけたご飯をひと口食べた。
塩の味が、さっきより分かった。
健太が端末を出し、画面をこちらへ向けた。
「この前、川の音を動画で録りに行ったんだけど。変なの撮れた」
見せてくれたのは、その動画から抜いた一枚だった。川沿いの道で、歩いている人の足は画面から切れ、柵に掛かった誰かの上着だけが、風で膨らんでいる。
「これ、何を撮りたかったの」
「川。画面、見てなかった」
「音の方は?」
「ずっと、俺の上着がマイクに当たってる」
僕が笑うと、健太も少し笑った。それでも、すぐに次の写真へは送らなかった。
「失敗したんだけど、これ、嫌いじゃないんだよな」
上着の袖の下に、小さく舟が見えた。人の姿はなく、岸へ寄せたままの舟。
僕は画面へ顔を近づける。
「この袖がなかったら、舟だけ見て終わったかも」
「何か、言い訳がうまい」
「言い訳じゃなくて。手前に、ここで待ってた人がいる感じがする」
健太は自分の袖を摘まんだ。
「それ、たぶん、俺」
「じゃあ、健太がいた写真だ」
画面を戻した彼は、少し黙って、それから写真の端へ指を置いた。
「これ、残しとく」
僕は頷いた。
上手く説明できたかは分からなかった。けれど、健太が気に入っているものを、笑い話だけで閉じずに見られたのは嬉しかった。
写真展へ一緒に行きたいと思ったのも、たぶん、こんな話がしたかったからだ。
綺麗だね、と同じことを言うためだけではない。
僕が気づかなかった場所を、隣の人が指す。その人の写真を、自分はどう見たか話す。
昨夜消した二文字の中には、展示だけではなく、そういう時間も入っていた。
「その人たちには、展示の話、したの?」
健太に訊かれ、僕は首を振る。
「してない。空いてる時間だけ訊いて、そのあと、僕が決めた」
「じゃあ、知らないんだ」
「うん」
ひよりさんが海を歩きたいと言った顔を思い出す。
怜さんが見たい場所を指し、澪さんが午前の練習の話をして、千夏は課題を終わらせると言った。
自分の都合を言っていた四人に、僕は、揃ってよかった、とだけ返した。
皆が僕の予定を消したのではない。
誰にも見せず、自分で消したのだ。
「あとから訊くの、迷惑かな」
言うと、健太が首を傾けた。
「俺は、その四人じゃないから。分かんない」
それから、自分の空いた皿を見た。
「俺なら、訊く前に決められてる方が、ちょっと困る。断ることもできないし」
「……そうか」
「でも、全員に今から展示見ろって言われても、それも困る」
僕は笑った。
胸の中で、もう一枚、予定表を作りかけていた。海を短くして、パンを後へ回して、展示へ着くように、全部をずらす。
まだ誰にも訊いていないのに、また、自分の頭だけで丸を揃えようとしていた。
「危ない。いま、それやりかけた」
「ほら。まず、お前が何をしたいかだけ、送れば」
健太は皿をまとめ、立ち上がりかける。
「俺、午後に音の確認ある。ケーブル、今日返してくれて助かった」
「じゃあ、巻き直して正解だった?」
「そこは最初から正解を選べ」
袋を受け取る時、彼はいつもの声で笑った。
僕は、席へもう少し残った。
午後の講義までには、まだ時間がある。卓の上には皿も、書き込む紙も、もうない。
端末で、五人の予定を相談した画面を開く。
皆が空けてくれた時刻が並んでいる。
昨日は、その下へ自分の行きたい場所を書くと、全部が崩れる気がした。
指を置き、いくつか打って、消す。
すみません、予定を変えてもいいですか。
その文だけだと、何をしたいのかが、また抜けている。
僕は、謝る言葉より前へ、写真展、と入れた。
昨日、一時半からって提案したけど、ひとつ、言えてなかったことがある。
同じ日の午後、海辺の展示室の写真展を、僕も見に行きたかった。
最終入場が二時で、三時に閉まるから、今の予定のままだと行けない。
みんなと出かけるのも楽しみにしてる。時間と行き先を、もう一度相談させてほしい。
読み返す。
展示へ行くことは、まだ決まっていない。皆が同じ場所を見たいかも、分からない。
それでも、これなら、僕が見たかったものは伝わる。
送信する前に、端末の黒い縁へ、自分の親指が映った。
写真を撮る時は、画面の中へ何を入れるか、あんなに考える。
自分の予定では、いない方が収まりがいい、と簡単に決めていた。
僕は、その文を送った。
小さな送信の表示がつく。
すぐ返事が来るかと、一度待った。
来なかった。
皆も、今はそれぞれの場所にいる。
僕は端末を伏せ、講義棟の方を見た。風が、ベンチの脇の落ち葉を一枚、裏返した。
言えたから、全部うまくいくとまでは思わない。
それでも、まだ話していない四人の返事を、勝手に書かずに待てそうだった。
立ち上がると、健太が返却口の向こうから片手を上げた。
忘れ物かと思って近づくと、彼は、ケーブルの袋を肩へ掛け直す。
「展示、もし一緒になったら、あとで一枚だけ撮ろうぜ」
「展示室の中は、撮影できるか分からないよ」
「外。帰る前。お前も入る方」
僕は少しだけ返事に遅れた。
展示を見た自分を、その外に立たせて想像していなかった。
「……行けたらね」
「うん。まだ、行けたらで」
健太はそれ以上、話を大きくしなかった。
僕も、まだ変わっていない二日後の予定を、変わったことにせずに歩き出した。
外出の日の丸は五つ。
その中へ、消した自分の字を、もう一度入れてみたかった。




