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恋をしたら、解散で

【前回までの人物】

・朝倉湊:商学部二年。実家の喫茶店を手伝いながら写真を撮っている。

・雨宮ひより:湊と同学年。店の紹介文と、写真の使い方を相談している。

・九条怜:大学の先輩。写真を見るだけでなく、撮る役を代わることも提案した。

・白石澪:教育学部一年。喫茶店で働き始め、ピアノの練習も続けている。

 雨宮さんは、書いた紙より先に、パンの入った袋をテーブルへ置いた。


「差入れです。原稿を直してもらう料金を、パンで済ませようという趣旨ではありません」

「そう言われると、パンに付いてくる原稿が怖いんだけど」

「二百字です。怖さも二百字分でお願い」


 夕方の店には、窓際にお客さんが二組残っていた。僕は袋をカウンターの内側へ預け、店の奥の席へ戻った。

 薄茶の髪を編んだ彼女が、椅子の横へ黒いトートを置く。さっきまで外を歩いていたせいか、頬が少し赤い。

 差し出された紙には、母さんがここで店を始めたことと、窓際の席のことが書かれていた。

 僕の失恋は、一文字もなかった。


「ここ、午後になると窓が明るいって書いてるけど、西日、結構まぶしいよ」

「いい感じの光、と書くつもりでした」

「夏は母さんが先にカーテン閉める。僕、ここの席で写真選んでて、顔に線が付いた」


 雨宮さんが、吹き出しそうになって口を押さえた。


「それを、店の特色にしていい?」

「本人の写真付きは、やめて」

「分かりました。顔に線が付く人の取材は別件で」


 ペンの先が、明るい、という言葉に小さな線を引いた。

 初めにいいと言ってしまえば、直さなくて済む。けれど彼女は、直した紙を見て、少し楽しそうだった。

 僕も、窓の外を見る。庇の影が、空いた席の半分まで来ていた。


     *


 怜さんが来たのは、その紙を母さんへ見せている時だった。


 肩に触れる暗い栗色の髪をゆるくまとめ、薄灰色のシャツの袖を折っている。小さな耳飾りが揺れたあと、平たい紙袋が、カウンターへ静かに載った。


「由紀さん、頼まれていた案内の見本。置き場所の寸法も、見ていただきたくて」

「ありがとう。あとで一緒に見ようか。入口のは、お客さんが傘を置くと隠れちゃうんだよね」


 母さんは紙袋を受け取り、入口を振り返った。青いエプロンの裾が、椅子の背に少し引っ掛かる。僕が外すより早く、自分で後ろへ手を回した。

 店に来る人には、店に来る用事がある。

 昨夜、同じテーブルに座ったからといって、今日も僕の話を聞くために来たわけではなかった。


「朝倉くん、写真、持ってきた?」


 用事のある人が、僕も見つけてくれた。

 鞄を足元から出すのが、思ったより速かった。


「はい。今日、模型を撮らせてもらったんです。見てもらってもいいですか」

「模型? 見たい。ひよりさんの相談を邪魔しなければ」


 雨宮さんが、僕の持っているカメラへ目を向ける。


「私も見たいです。今、文章から逃げたいだけじゃなくて」

「それは、ちょっと入ってるんだ」

「ちょっとだけ。パン一口分くらい」


 彼女は紙を端へ寄せた。

 僕は千夏と選んだ提出用の組を開いた。顔の写真が入った方ではない。カメラの中で分けておいて、よかった。


 小さな建物を、二人が覗き込む。

 怜さんは腰掛けの辺りを拡大し、雨宮さんは屋根を取った一枚へ戻した。


「ここ、店が閉まっていても通れるの?」

 雨宮さんの問いに、僕は頷いた。

「うん。通り道を塞がないようにしたって。そこは、作った人に教えてもらった」

「じゃあ、この角度がいるね。私、最初の一枚だと、お店に入る椅子だと思った」


 怜さんは、カメラから少し顔を離した。


「朝倉くんが撮る物、昨日より小さくなったね」

「はい。船より、かなり」

「うん。でも、見たい場所へ近づいてるのは、同じかもしれない」


 言われて、画面を見直した。

 自分では、海と模型を並べたことがなかった。写真を撮る度に別の物を覚えていたのに、前の日の僕と切れているわけでもないらしい。


「入口から撮ったの、先に見せたいって思ったんです。説明を聞いてからだと、違って見えて」

「それ、書いておく?」

 雨宮さんが原稿の裏を指す。

「私の感想より先に。撮った人が、どこを見たのか」


 上手に言うための言葉を探すと、たぶん止まる。

 僕は彼女のペンを借り、入口、とだけ書いた。

 次に、座る所を見つけた、と足す。

 それで、今日の昼に聞いた千夏の声が、自分の中ではちゃんと戻ってきた。


     *


 母さんが袋からパンを出し、小さく切った物を皿へ載せてくれた。

 僕らが一口ずつつまんだ頃、澪さんが、楽譜の入った鞄を抱えて来た。閉店まで、もう少しだった。


 今日は仕事の日ではない。練習の帰りに、昨夜の写真の続きを見ていってもいいかと、先に連絡をくれていた。

 低い位置で結んだ黒髪の先が、肩の後ろで一度跳ねる。白いシャツに細い黒のパンツ。カウンターの手前で止まった彼女は、母さんの手元を見た。


「あの、お皿、下げた方がいいですか」

「今日はお客さんでしょ。鞄を置いて。働く日は、ちゃんと時間を付けるから」

「……はい。見えてると、気になって」


 澪さんは少し笑って、両手で鞄を持ち直した。

 まだ習っていない砂糖の補充まで、気を回したことにしなくていい。母さんが閉店の札を裏返す間、彼女は僕らの席へ来た。


「朝倉先輩、途中からでも大丈夫ですか」

「もちろん。今、雨宮さんが原稿を書いてるところ」

「朝倉くん、ここへきて急に、逃げ道を塞ぐね」


 雨宮さんが眉を上げる。

 僕も、言ったあとで笑ってしまった。


「パン一口分の休憩、結構長いよ」

「二口食べたので。延長が発生してます」


 澪さんは、声を出さずに肩を揺らした。

 それから、テーブルへ置かれたパンの袋を見て、自分の鞄へ手を入れかけ、やめる。


「あ、私、何も持ってきてなくて」

「大丈夫。私も、差入れを持っていく人に見られたくて買ったの、半分だから」

「残りの半分は?」

 僕が聞くと、雨宮さんは袋を押した。

「自分が食べたい。澪さん、これ、一緒に食べてくれたら、全部解決します」


 言い切る前に、澪さんが笑った。

 無理に気を遣わなくていい、と言うより、パンを一つ選ぶ方が早かったらしい。


 母さんはカップを人数分載せてきた。


「閉店後、二十分だけね。澪ちゃん、電車は?」

「その次ので間に合います。時計、見ます」

「仕事の相談は、残ったらまた日を決めよう。湊、カップはあとで一緒に洗って」

「分かった。二十分になったら言う」


 コーヒーの湯気に、パンのバターの匂いが混ざった。

 お客さんのいなくなった店は、冷蔵庫の音が、少し近い。


     *


 僕の写真を一通り見たあと、怜さんが、テーブルの向こうから手を出した。


「今日は、私にも一度、撮らせて」


 昨夜、撮る役を交代する、と言ってくれていた。

 言葉だけで終わらず、今日の手になったのが嬉しかった。

 僕はカメラを渡そうとして、止めた。


「僕が写るんですか」

「渡したら、私は何を撮る予定だった?」


 怜さんが笑う。雨宮さんがカップを口元へ持っていったまま、こちらを見た。

 僕は紐を外した。


「カップを撮るとか……」

「朝倉くんを見てみたい。嫌なら、カップにお願いする」

「嫌では、ないです。撮られ慣れてないだけで」


 紐を渡すと、怜さんは首へ掛けた。普段の落ち着いた手つきのまま、ボタンを一つ押す。

 次の瞬間、首が少し傾いた。


「……拡大になった」

「そこ、撮った写真を見る時のです」

「そう。昨日、見せてもらった所は、覚えたつもりだった」


 ちょっと悔しそうだった。

 いつも先に見つけてくれる人の、そういう顔を見たのは、初めてかもしれない。

 僕は隣へ回り、指を出す前に、押していい場所を示した。


「撮る時は、こっちです。半分だけ押すと、合う場所が変わります」

「ここ? あ、今、動いた」


 僕が席へ戻ると、今度は本当に、レンズがこちらを向いた。

 何をしていればいいか分からず、背中が伸びる。


「朝倉くん、それ、証明写真になってる」

 雨宮さんの声で、肩が落ちた。

「急に見られると、分かんないんだよ」

「分かります」


 澪さんが、膝の上の指を擦った。


「練習の時は弾けるのに、後ろに誰かいるだけで、最初の音、考えちゃうので」

「うん。今、椅子の座り方から、考えてる」

「じゃあ、パン食べたら?」


 雨宮さんが、僕の皿を指した。

 言われるまま手を伸ばすと、怜さんが慌ててカメラを少し下げる。


「ごめん、食べる前に一枚。顔を作らなくていいから」

「今の方が、作り方が分からないんですけど」

「その顔がいい、と言ったら、意地悪かな」


 耳飾りが揺れた。

 僕は、パンを持った中途半端な手を見た。隠すにも遅く、皆の前へ出すのも変だ。

 それがおかしくなって、息が漏れた時、シャッターが鳴った。


 画面を見せられて、最初に、自分の目を探した。

 ちゃんと笑っていた。

 断られた日から五日で、こんな顔を撮られるとは思わなかった。

 その五日を知らない写真の中では、パンを持った僕が、ただ楽しそうに座っている。


「変じゃ、ないですね」

「変な所、探すのが最初なの?」

 怜さんが、画面を僕の方へ向けたまま聞く。

「……自分の顔って、そうなりませんか」

「なる。でも、この一枚は、私、残したい」


 僕は返事の代わりに、一度頷いた。

 誰かが見せてほしいと言った写真を、今日は僕も、消さずに置いておきたかった。


     *


「昨日より、同盟らしくなってきましたね」


 雨宮さんが、原稿の裏の、僕の短いメモを見て言った。

 同盟、と繰り返したのは、澪さんだった。


「同じ、写真の?」

「写真を見たり、パンを食べたり。あと、昨日みたいな話を、話したい時だけ出来る集まり」


 雨宮さんの指が、紙の端を二度叩く。

 さっきまで原稿を進めていたペンは、持っていなかった。


「失恋同盟、とか」


 軽く言って、こちらを見る。

 僕はすぐ笑えなかった。その名前で昨日を思い出せるのが、少し嬉しかったからだ。


「名前、ちょっと強いね」

「こっそり名乗る用です。店の紹介文には、書かない」

「会員募集も、なし?」

「したら、由紀さんに怒られる。店の入口へ、失恋した人はこちら、って」


 想像するとおかしくて、今度は僕も笑った。

 カウンターで帳面を閉じた母さんが、遠くから、何も貼らないでね、と言った。

 澪さんが、パンを落とさないように皿へ戻した。


「あの、私、いつも同じ話、出来るか分かりません」


 笑ったあとだったから、少しだけ、聞き取りにくい声になった。

 雨宮さんの目が、彼女へ戻る。


「うん」

「忘れてたのに、練習中、急に思い出したりするので。さっきみたいに写真を見てる方が、平気な日も、多分あって」

「……私も。その方がいい日、ある」


 雨宮さんの返事は、短かった。

 同じ話をするために集まるなら、話のなくなった人から、席を失くす気がした。

 僕は、自分のメモの横へペンを置いた。


「昨日の続きがなくても、来てほしい。僕は、次の写真も見てもらいたいから」


 言い終わると、三人がこちらを見た。

 さっきはレンズ一つで困ったのに、今は、言い直したくなかった。

 澪さんが、小さく息を吐いて笑う。


「それなら、来たいです。今日は何を見てたのかなって、気になるので」


 怜さんはカメラの紐を外し、僕へ返してくれた。


「じゃあ、撮る役は時々交代。私は、操作をもう少し覚えたい」

「はい。次は、拡大以外も」

「そこは、忘れてくれていいんだけど」


 冗談を返す声が、昨夜より近かった。

 雨宮さんがペンを取り、紙の隅へ小さく四人分の丸を描く。名前の横に、店の原稿とは別、と書き添えた。


「失恋同盟。集まる日は、その都度相談。じゃあ、恋をしたら解散で」


 僕は、え、と顔を上げた。

 澪さんも、同じようにパンから目を離していた。

 雨宮さんは、二人の顔を見てから、口を開きかけて閉じた。


「……あ。恋をしちゃ駄目、じゃないです。次へ行けたら、その時はもう、失恋の集まりじゃなくてもいいかなって」

「解散したら、この席もなくなる?」


 僕が聞くと、彼女の指が、丸の上で止まった。

 そんなことはないと、すぐ言われると思った。

 けれど雨宮さんは、一度、僕の顔を見たまま黙った。


「それは……なくしたく、ないな」


 最後だけ、少し小さかった。

 僕も、カメラを膝へ下ろした。


「じゃあ、席は残して。名前、変わっても」

「うん。そうしよう」


 雨宮さんが笑った。

 さっきの、差入れの説明をした顔とは違っていた。上がりかけた口元を、そのままにするまで少し掛かった。

 僕は、その顔を撮らなかった。

 今は、見ているだけで、返事を待ってもらっている気がした。


     *


 二十分は、思ったより早かった。


 澪さんが時計を見て、鞄を持つ。怜さんは案内の見本を母さんと確かめてから、帰ると言った。原稿の相談も、今日は母さんに持ち帰ってもらうことになった。

 皆が僕の都合に合わせて、ずっと座っているわけではない。

 だから、帰り際の、またね、に次があるのが嬉しかった。


「先輩、パンの写真、送ってもらってもいいですか」


 鞄の肩紐を掛け直しながら、澪さんが聞いた。

 僕は、パンだけの写真を探しかけ、怜さんの笑い声で顔を上げた。


「朝倉くんが写っている方、だと思う」

「……そうです。説明、足りませんでした」


 澪さんの耳が赤くなった。

 僕も、すぐ送る、と答える声が少し変だった。

 怜さんは小さな紙袋を持ち直し、雨宮さんは二百字の原稿を母さんへ渡した。

 皆で一つの鞄を持って帰るわけではない。それぞれの用事と、続きを持って、店を出ていく。


 最後に、雨宮さんが戸口で振り返った。


「同盟の名前、まだ内緒でお願いします」

「分かった。模型を作る人にも、言わない」

「模型?」

「今日の写真の。今度、本人に会ったら、その話を聞いて」


 彼女は頷いた。誰かの私事を、紹介の代わりに渡さずに済んだ。

 戸が閉まり、鈴が短く鳴る。


 カウンターでカップを洗うと、指先へ熱が戻ってきた。

 携帯には、新しい写真が残っている。写る側だった僕が、皆のいる方へ顔を向けて笑った、一枚。

 恋をしたら解散。

 口の中で繰り返すと、さっきより少し困る名前だった。


 誰かが好きになったら、まず、誰に話せばいいんだろう。


 雨宮さんが置いていった紙の隅で、四つの丸が並んでいた。

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