見せていいもの、見せたいもの
【前回までの人物】
・朝倉湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学二年生。写真が好きで、幼なじみの千夏の模型を撮る約束をしている。
・相原千夏:建築を学ぶ湊の幼なじみ。春の別れを湊に話し、互いの私事を勝手に他人へ伝えないと約束した。
・雨宮ひより:湊と同学年で、文章と取材に関心がある。凪待ちの紹介文について店主へ相談している。
千夏の模型は、僕の昼飯より先にテーブルへ乗った。
凪待ちの二階。窓を開けると、九月の風が薄いカーテンを膨らませた。階下からは、母さんが皿を重ねる音と、炒めた玉ねぎの匂いが上がってくる。
約束していた昼の撮影に、千夏は白い箱と、大きな紙の袋を持ってきた。顎のあたりで揃えた栗色の髪が、運んでいる間に少し乱れていた。
「湊、そこ。箱を置くから、カップ動かして」
「はいはい。昼飯の場所が、どんどんなくなる」
「撮り終わったら返す。模型は食べないで」
僕がカップを持ち上げると、千夏は箱の底を両手で支えて下ろした。建築を学ぶ彼女が、空き店舗を使い直す課題で作っている模型だ。前に見せてもらった時より、庇と、入口の段差の細部が増えていた。
紙袋からは、木目の薄板と白い紙が出てくる。
「背景まで持ってきたんだ」
「お店のメニュー表、後ろに入ったら、建物よりお腹が気になるでしょ」
「僕はもう気になってる」
「じゃあ、先に食べる?」
からかった顔から、普通の問いへ戻った。
僕は時計を見た。まだ、約束した時刻を少し過ぎただけだった。
「窓の光、今の方がいい。まず全体を撮ろう。それから食べたい」
「了解。今日の写真係、注文が具体的」
千夏が薄緑の袖をまくった。爪の際に、切った紙の白い粉が残っている。
僕はカメラの紐を首へ掛けた。
昨日の夜、見せた写真とは違う。今日は、相手が見せたい物を、僕がまだ知らない。
*
最初の一枚を見て、千夏は眉を寄せた。
「きれいなんだけど、ここ、低く見える」
入口の庇を、細い指が指した。
僕の椅子からは、正面の形が一番よく見える。けれど、その角度だと奥行きが潰れ、軒先が通り道を塞いでいるように写っていた。
「もう少し、横から?」
「うん。あ、屋根を取った方がいいかな。いや、最初に取ると、どこから入る建物か分かりにくいし……」
彼女の手が、屋根に触れかけて戻る。
いつもの調子で正解を指してくれると思っていたから、僕は少し意外だった。
「一番、見てもらいたい所ってどこ?」
「ここ。外を歩いてた人が、何か買わなくても一度座れる所」
入口の横にある、小さな腰掛けだった。
前に、雨宿りした靴屋の椅子を一緒に撮った。あの時の写真に入った傘を思い出し、僕は立つ位置を変えた。
模型の正面へカメラを向けるのをやめる。通りを歩く人の高さに近づけ、斜めから庇の下を覗いた。
小さな椅子の背に、窓からの光が落ちた。
「これなら、座る所を見つけてから、入口が見える」
千夏が僕の横へ来た。画面を覗く顔が、さっきより近い。
「……うん。これ、欲しかった」
短い返事だった。
軽く頷くだけで済ませそうになったけれど、指が次の設定へ動かなかった。
欲しかった、と言ってもらった一枚を、ちゃんと覚えておきたかった。
「撮り方、考えてくれてたんだ」
「その言い方だと、僕、いつも押すだけの人なんだけど」
「違う。前は、私がここ、ここって言って、それを撮ってもらってたから」
彼女は模型へ顔を戻した。
「今日、聞いてくれたの、助かった。説明、まだ出来るつもりでいた」
僕も、知っているつもりで見ていた。
長く知っている友達の作った物でも、聞かなければ分からない場所がある。
千夏が庇を少し直すのを待ち、僕は同じ位置から、もう一枚撮った。
屋根を外す時は、彼女の方から声が掛かった。細い壁を押さえ、別の台へそっと置く。上から覗くと、腰掛けの向こうに、小さな通り道が続いていた。
「ここ、中へ入らなくても抜けられるんだ」
「そう。お店が休みの日まで、塞ぎたくなかったから」
「あの靴屋の椅子、雨の日、店の人に声を掛けなきゃ借りられないと思ってた」
「私も。あの日、座っていいって言ってもらって、やっと荷物下ろした」
僕らは模型の中の、人が一人分だけ通れる隙間を見た。小さな腰掛けにも、彼女が考えていた時の長さがある。
僕は入口の写真とは別に、上からの一枚を撮った。千夏に見せると、彼女は画面の左端を指す。
「ここ、ちょっとだけ切れる? 模型の下の板、曲がって見えるから」
「撮る位置を上げてみる。端を切ると、外へ抜ける所がなくなる」
「あ、それは残したい。待って、私、反対側を押さえる」
千夏が回り込むと、床が軽く鳴った。僕らの影が白い紙から退き、内側の線が明るくなる。
シャッターを切り、二人で覗いた。今度は彼女の指が画面を隠さず、膝へ戻った。
「これなら、言える。どこを見てほしいか」
提出する時、そこに立つのは彼女だ。撮り終えたあと、その場面を思い浮かべられたのが嬉しかった。
頼まれた撮影なのに、自分の方にも次の一枚が欲しくなっていた。あの腰掛けが本物になる日、今度は模型ではなく、その場所を撮りたかった。
*
作業をしている手も撮りたいと言ったのは、僕の方だった。
模型だけなら、提出する紙の上で形は伝わる。けれど入口の小さな人形を置く指が入ると、どれくらい小さい物を作っていたかが分かる気がした。
用途を話すと、千夏は自分の爪を見た。
「手、今、ひどいよ」
「削った粉は払える。でも、作ってた手って分かる方が、僕は好き」
千夏の指が止まった。
続いて、僕の口も止まった。
写真の話だ。そう足せば済むのに、急いで足すほど変な気がして、レンズの縁へ目を落とす。
「……じゃあ、粉は払う。そこは、格好つけさせて」
彼女は笑いながら、指を軽く擦り合わせた。僕の方を見ないまま、紙屑を小さな袋へ落とす。
首の後ろが熱くなった。
僕は椅子を引き直して、見慣れた手が、人形を入口へ置くところを撮った。
シャッターを切ると、千夏が顔を上げた。
「今の、顔も入った?」
「手だけ。顔が入るのは、先に聞こうと思って」
「そうなんだ」
少し意外そうだった。
僕らの昔の写真には、変な顔で写った物もたくさんある。撮っていいかなんて、いちいち聞いてこなかった。
でも今日、僕が頼まれたのは、模型の写真だ。
「これ、提出に使うのと、私が持ってるの、分けてもらってもいい?」
「もちろん。どれを使うかは、千夏が選んで」
「じゃあ、一枚だけ、顔も。提出のじゃなくて、私の方に」
レンズを上げる手が、少し遅れた。
千夏は窓の光を背にしない場所へ、自分で椅子を動かした。僕が注文を付ける前に模型へ手を添え、それから、ふいに僕を見る。
「そんなに構えられると、こっちが変な顔になる」
「いつも撮ってるのが建物とか舟だから。建物、こっち見ないし」
「じゃあ、見ない」
本当に横を向かれて、僕は笑った。
笑い声に彼女の目が戻る。口元が、少しだけ上がった。
その瞬間に、一枚。
画面を確認すると、風で動いた短い髪と、模型を支えたままの指が写っていた。
見慣れた千夏なのに、撮れた写真をすぐ誰かへ見せる気にはならなかった。
*
昼飯は、母さんが上へ運んでくれた。
皿を置くために、僕らは模型を窓際の台へ移した。熱い卵を開くと、炒めた米から湯気が上がった。
母さんは空いた箱を壁へ寄せ、カメラを見た。
「撮れた?」
千夏が、皿の場所を空けながら顔を上げた。
「はい。すごく。……あ、私の課題がすごいって話じゃなくて」
「分かるよ。食べ終わったら、建物の方、見せて」
千夏は頷いた。
母さんが階下へ戻ると、僕はカメラから手を離した。先に見せる一枚を、自分だけで選ばなかったのは、今のやり取りのおかげだった。
「昨日も、撮ってた?」
「朝、海を。夜、店で何人かに見せた」
「写真の知り合い、増えたんだ」
声は普通だった。
僕は、それなら何人と会ったか、どんな話をしたか、全部続けて言っていいような気がした。
ひよりも、怜さんも、澪さんも、口止めをしたわけではない。
でも、昨夜テーブルで聞いた言葉を思い出すと、名前の後ろへ簡単に付けられなかった。
「同じ大学の人。うちの店で会って、写真を見たいって言ってもらって」
「へえ。見せてって言ってくれる人、増えてよかったじゃん」
「うん。……私事も少し話したけど、それは僕から言わないでおく」
千夏のスプーンが、一度、皿の縁で止まった。
「私に言ったこと、向こうにも?」
「僕が断られたことは話した。千夏の話はしてない」
返事をすると、彼女は息を吐き、卵の端をすくった。
「ありがと。自分で話すならいいんだけど、初めましての前に知ってる人が増えるのは、ちょっと嫌」
「分かる。僕も、たぶん」
「たぶんじゃなくて、嫌なら嫌でいいよ。私は、失恋した幼なじみ代表で紹介されたくない」
最後だけ、いつもの早い調子になった。
僕は笑い、匙を持ち直した。
「紹介するなら、模型を食卓に広げる建築の人」
「それはそれで、行儀の悪い人じゃん」
言い返してから、千夏も笑った。
僕が彼女へ頼まれた仕事は、写真を撮ることだ。誰かに説明しやすい一つの出来事へ、彼女を小さくすることではなかった。
目の前にいる人が、最後の一口まで熱そうに食べるのを見て、僕も残りを口へ運んだ。
*
午後、写真を選び終えた千夏は、模型を箱へ戻した。
欲しかった入口の一枚。全体の形。屋根を外した中の様子。それから、指を添えた一枚を、提出候補の組にした。
顔の写った一枚は、別の組へ。
僕は送り先を二度確かめてから、彼女へ渡した。
「これ、外に出す時は、また聞く」
「課題のは使っていいよ。撮った人の名前が要るなら、入れて」
「入れる。そこは、私が作ったことにしない」
彼女は箱を抱え直した。
開けていた窓から風が入り、首へ掛けた僕の紐が裏返った。
「待って。ねじれてる」
模型を台へ置き、千夏の手が伸びた。
首の下で、紐をひっくり返す指。近くで、髪から洗った布みたいな匂いがした。
僕が動きを止めると、彼女も顔を上げかけて、やめた。
「……自分で直せる?」
「うん。出来る」
そう言ったのに、彼女の手が離れてから、僕は少しの間、紐を持ったままだった。
千夏は箱を持ち上げ、空いた紙袋を僕へ差し出す。
「じゃあ、これは持って。階段、狭いから」
「それは出来る」
「何なら出来ないのよ」
答える前に笑われた。
僕も笑って、階段を一段、先に下りた。
*
千夏を見送ってから、カウンターで、雨宮さんからの文を読んだ。
今日の昼頃に送られていた。昨夜の私的な話を、店の紹介文へは入れないこと。それとは別に、写真を借りるなら用途を先に相談したいこと。
原稿を作る前に、念のため、と付いていた。
僕はカメラを置き、返信欄へ指を動かした。
「僕も、昨日みんなから聞いた話は、人に話さないようにする。僕の写真は、候補を見てから使い方を相談したい」
声に出して確かめて、同じ文を送った。
すぐ返事が来るとは思わず、母さんの隣で、洗い終わった皿を拭き始めた。今度は先に、十五分だけ手伝う、と言ってある。
温かい皿が二枚、三枚と重なった頃、携帯が短く震えた。
「了解です。店の写真係、引き抜き交渉を正式に始めます」
明るい一文の次に、少し間を置いて、もう一つ届いた。
「昨日の写真、記事に使えるかより先に、見せてもらえて嬉しかったです。それは書いておきたかった」
僕は布巾を持ったまま、画面を見ていた。
カウンター越しの母さんの手が、次の皿を僕の前へ置く。
「それ、拭きながら読まない。落とすよ」
「……まだ落としてない」
「うん。まだね」
皿を台へ戻してから、僕は返した。
「僕も、見てもらえて嬉しかった。また、持っていく」
昨日の夜に言えなかったほどの大きな本音ではない。
それでも、嬉しかった、と自分の言葉で送るまで、少し時間が掛かった。
画面を閉じる前に、千夏からも写真を受け取ったという連絡が届いた。
顔の一枚、消さないで置いといて。
その短い文の下へ、僕は、置いとく、と返した。
誰に見せるか、まだ決めなくていい写真が、一枚、僕の所にも残った。




