笑い話にしない、四人の席
【前回までの人物】
・朝倉湊:写真が好きな大学二年生。朝の海を撮り、夕方は母の店「凪待ち」で新人を教えた。六時に仕事を終え、帰宅後に写真を選ぶつもりでいる。
・白石澪:凪待ちの新しいアルバイト。同じ大学の一年生で、ピアノを続けている。初日は四時から七時までの勤務。
・雨宮ひより/鳴瀬怜:凪待ちで湊と知り合った同学年の女子と、一学年上の先輩。湊はひよりの終わった恋に触れ、怜からは勤務後に座る時間をもらった。
写真を三枚まで減らしたところで、同じ舟を四度見ていたことに気づいた。
帰宅して、鞄を置いて、シャツを替えた。机に座ってからも、店の注文を取る声が、耳の中に少し残っている。
画面の舟は白かった。次の写真も白い。ただ、その縁へ朝の光が当たっているのは、一枚だけだ。
僕はそれを大きくした。
撮れた瞬間には分からなかった色が、水面へ薄く残っていた。
怜さんへ見せると言ったことを思い出す。
写真を一枚送るだけなら、いま出来る。けれど送信欄を開いたまま、指が動かなかった。
見てください、だけで会話が始まるのが、少し怖い。大した一枚でもないのに、と先に自分で小さくしたくなる。
僕はその文を消し、今日は朝に撮れました、とだけ打った。
返事は、しばらくして来た。
いま店にいる、という文と、見られたら嬉しい、という文。すぐ来て、とは書かれていない。
時計は七時に近かった。
「母さんの店だから行くんじゃなくて、見せに行くんだよな」
部屋で声にすると、妙に大袈裟だった。
でも、カメラを持って立つ理由にはなった。
*
凪待ちの扉を開けると、母が入口の札を裏返そうとしていた。
「忘れ物?」
「写真。見せに来た」
カメラを持ち上げると、母は壁の時計を見た。七時だった。
「今日はここで閉めるから、席は使っていいよ。仕事をしに戻ったことにはしないでね」
「分かってる」
「分かってる人、さっきから私のグラス見てる」
手を出すつもりはなかった。たぶん。
僕はグラスから目を離し、カメラの紐を両手で持った。
奥の席には、怜さんとひよりがいた。二人の間に、薄い紙とメニューが並んでいる。
暗い栗色の髪を緩くまとめた怜さんが、片手を上げた。ひよりは黒いトートを椅子の脇へ寄せる。淡い茶色の髪の片側に、小さな編み込みが見えた。
「お帰り、朝倉くん。……じゃないね。いらっしゃい、写真の人」
ひよりが言い直し、僕も少し笑った。
「その肩書きなら、今日は分かりやすい」
「私は店の紹介文の相談。勝手に取材始める前に、載せられる物を聞いてたの」
彼女は並べた紙を片づけた。まだ紹介文を書き終えたわけではなく、今後相談する項目を出したところらしい。
怜さんは、たまたま同じ時間に寄った、と自分のカップを指した。
「次に持ってくる案内の話も、由紀さんへ聞けたから。朝倉くんは、今日は撮れたんだね」
「はい。曇ってましたけど」
言ってから、また言い訳を足したことに気づく。
怜さんは天気の評価を急がず、椅子を少し引いて、僕の画面が見える場所を空けた。
*
カウンターの向こうで、澪さんがエプロンを外していた。
短い爪で結び目を解き、畳む前に、ポケットの手帳を取り出す。初めて会った時より動きが遅いのは、慣れたからだけではなさそうだった。
母が、今日は終わり、と声を掛ける。
「お疲れさま。片づけの残りは私がやるから、白石さんはここまでね」
「はい。ありがとうございました」
澪さんが頭を下げ、カウンターを出た。その視線が、僕のカメラで止まる。
「今朝の、海ですか」
「うん。よかったら、一枚だけ見る?」
声を掛けてから、彼女の鞄を見た。
「帰る時間、大丈夫だったら」
「次の電車まで、少しあります。……見たいです」
澪さんは、母に頼まれて残ったわけではないと分かる声で答えた。
ひよりが自分のトートをもう一度寄せ、座る場所を作る。
「雨宮ひよりです。同じ大学の二年。今日は仕事で来た人、ということにしておいてください」
「白石澪です。教育の一年です。よろしくお願いします」
「鳴瀬怜。私は三年だけど、ここでは先に注文した人くらいで」
怜さんが笑う。
澪さんはどこまで頷けばよいか迷う顔をしてから、いったん普通に、よろしくお願いします、と返した。
その少し硬い挨拶を、ひよりは笑ってほどこうと急がなかった。
母が、余ったお湯でお茶を淹れる、と声を掛けた。勤務後の一杯として出すもので、注文を取る仕事はないという。
澪さんは反射で立ちかけたが、母が首を振ると、座り直した。
「今日は、飲む方で」
「……はい」
膝へ戻った彼女の手を見て、僕もカメラを机へ置いた。
*
舟の写真を見せた時、最初に喋ったのは澪さんだった。
「白い所、全部同じ色じゃないんですね」
僕は画面へ視線を戻した。塗られた白の、影になった縁が少し青い。
「朝、一瞬だけ光が当たって。いまのうちだって撮った」
「待って、撮ったんですか」
「待ってたつもりはなくて。帰ろうか迷ってた時」
ひよりが、画面の端を覗く。
「じゃあ、帰らなくて得した一枚だ」
「そうだね」
そう言われると、その朝が少しだけ得意になった。
怜さんは、船尾のそばへ小さく入った係留の綱を見ていた。
「これがあると、ちゃんと岸にいる感じがする。海だけだと、私はどこに立てばいいか迷いそう」
写真を褒めるための正しい感想を揃えたわけではない。
皆、違う場所を見ている。それが面白くて、僕は次の一枚へ指を動かした。
水面だけの写真だった。
見せた瞬間、透子へ送るならこれだろうかと考えた朝が戻ってきた。
画面を戻そうとした指が止まる。
「……これ、一度、好きだった人に見せるならって考えた」
言ってから、自分で驚いた。
誰にも名前を訊かれていない。僕も名前は出さなかった。
「今日、撮ってる時。もう返事はもらったのに、まだ、そういう順番で選ぶんだなと思って」
笑い話にしようとして、頬だけが半分上がった。
ひよりが何かを言いかけた。けれど、いつもの明るい声が出る前に、口を閉じた。
湯気の向こうで、カップを持つ手が一度止まった。
「それ、分かるって言いたいんだけど。私のと、まるきり同じには出来ないね」
ひよりは笑わずに言った。
「私は、送る前に終わった方だから。送ってよかったのかな、っていう写真が残ってる」
前に聞いた先輩の話が、僕の中で少し具体的になった。
先輩の名前も、その写真の中身も、彼女は出さなかった。僕も訊かなかった。
怜さんが、カップの取っ手から指を離す。
「私は、もう一緒に行くつもりで取ってた休みが、一日空いた」
その声に、ひよりが目を向けた。
「別れるって、二人で決めたんですか」
「うん。住みたい所とか、仕事の考え方とか。相手が間違ってるとは言えなくて、私も変える気がなかった。話した日は納得したんだけど、休みは残った」
怜さんはそこで、自分で少し笑った。
「予定表まで、すぐ賢くならないね」
年上だから、失った物をきれいに畳めるわけではない。
僕は、そうですね、と返しかけて止まった。
「その休み、どうしたんですか」
「寝た。昼まで」
即答に、ひよりが小さく吹き出した。
怜さんも笑う。悲しかった話をしたから、最後まで悲しい顔を揃える必要はなかった。
*
澪さんは、お茶の表面を見ていた。
聞いている人へ、そっちはどう、と順番を渡す空気にはしたくなかった。僕が写真を三枚目へ動かすと、彼女は少し顔を上げた。
閉まった売店の写真だった。店先の日除けが、まだ畳まれたまま写っている。
「ここ、冬は風が強そうですね」
「うん。たぶん、今も開ける時は苦労する」
澪さんは頷き、両手でカップを持った。
「私も、返事をもらったことはあります」
声は大きくなかったが、途中で消えなかった。
「恋人としては見られないって。あの、同じ大学の方では、ないです」
僕は彼女を見た。
ピアノを弾く人。初日に手帳を埋めた人。その二つの説明へ、僕が勝手に入れていなかった時間を、この人も持っている。
「話したくない所は、話さなくていいからね」
言い終えた時、少し先生の声になった気がした。
澪さんは、はい、と答え、それから僕を見た。
「でも、言いたかったんです。いまは。皆さんが話したから、話さなきゃと思ったのではなくて」
僕は背筋を戻した。
「ごめん。止めたかったんじゃなくて」
「はい。分かっています。……私も、ちゃんと言えた時まで、失敗だったことにはしたくないので」
カップへ目を戻すまでに、彼女の指が少し緩んだ。
ひよりは、偉い、とも、まだ若いから、とも言わなかった。ただ自分のお茶を飲んで、息を吐いた。
「私、それは言えなかった方。言わないって決めたつもりだったのに、あとで、言えばよかったって思ってる」
「言っても、あとから、言わなければって思いました」
澪さんが小さく返す。
ひよりが目を丸くし、それから眉を下げて笑った。
「じゃあ、どっちも、あとからうるさいんだね。自分が」
澪さんも、そこで少し笑った。
どちらかの選び方を、もう片方の慰めにする会話ではなかった。
僕はカメラの角を指で撫でた。透子の返事を聞いた日の自分も、ここへ急に連れてきて、元気な顔へ変えなくてよかった。
*
厨房の奥で、食器をしまう音がした。
母は戻ってこなかった。誰が誰を好きだったか、四人分を尋ねるためのお茶ではない。
外を通る自転車の灯りが、店の窓を一度横切った。
会話が途切れたあと、お茶の温かさが、ようやく舌に分かった。少し渋い。
「まだ三枚あるの?」
ひよりが、画面の隅の数字を指した。
「ううん。選んだのは三枚。ほかは、似たのとか、ぶれたのとか」
「似てるの、見たい。さっきの白い舟、光がない方」
僕は彼女の顔を見た。
「そっちは、そんなに上手く撮れてないよ」
「うん。違い、見たいから」
役に立つ写真だけを出さなくてよかった。
画面を戻すと、光のない舟は、少し静かに見えた。澪さんが、こっちは青い所が広いです、と言う。怜さんは、自分ならこっちも残す、と別の箇所を見ていた。
僕は三枚に絞ったはずの一覧へ、一つ印を戻した。
「誰かに見せるために撮ってたのに、見せる相手が減ると、撮る理由まで減った気になってた」
自分で言うと、胸の中の形が少し分かった。
「でも今日、これは残したいって思った。まだ、見てない写真もあるし」
ひよりが頷いた。
「じゃあ、続きも、見せて。今日全部じゃなくていいから」
返事をする前に、彼女は付け足した。
「あ、感動的な感想を毎回用意するのは無理です。いまのうちに」
「僕も、毎回感動的な朝には出来ない」
そう返すと、四人とも少し笑った。
誰か一人が、笑わせる係を引き受けた笑いではなかった。
*
電車の時刻が近づき、澪さんが席を立った。
「お先に失礼します。お茶、ご馳走さまでした」
母へ挨拶してから、こちらへもう一度頭を下げる。片づけを代わるとは言わず、自分のカップを母の示した台へ置いて鞄を持った。
ひよりと怜さんも、帰る支度をする。
僕はカメラをしまい、明日の昼は千夏の模型を撮るのだったと思い出した。
その約束を、今夜の四人の話を伝える口実にはしない。
写真を撮る相手にも、今日ここにいた人にも、僕へ話した物の範囲がある。
扉の前で、怜さんがカメラの紐を見た。
「撮る役を交代する話も、また今度ね。今日は、見せてもらった方が多かった」
「はい。今度は、撮られる方も練習します」
「練習って言われると、私の一枚も練習にしておきたいな」
その声が少し困っていて、僕は笑った。
澪さんが先に歩き、怜さんも店を出る。ひよりはトートの持ち手を肩へ直し、最後に僕を振り返った。
「朝倉くん。さっきの、送らなかった方の写真の話だけど」
「うん」
「今日は、写真の中身までは言わない。でも、話せてよかった」
僕は、聞いてよかった、とはすぐに答えられなかった。彼女が言わなかった所まで受け取った顔をしたくなかった。
「うん。あの舟、また撮ったら見せる」
ひよりは一度、目を瞬いた。
それから、さっきより小さな声で、楽しみにしてる、と言った。
戸が閉まると、店は静かになった。
四人とも恋がうまくいかなかった。そのことは、今夜笑ったからといって変わらない。
けれど、朝の舟を見る人は増えた。
僕は、母へ席を貸してくれた礼を言った。
帰ったら、消しかけたもう一枚も残しておこう。
そう思ってカメラの袋を閉じると、今日はその音が、終わりより続きをしまう音に聞こえた。




