初日の後輩と、教わる先輩
【前回までの人物】
・朝倉湊:写真が好きな大学二年生。失恋の気持ちを抱えながら、凪待ちの勤務後に怜と話し、翌朝は自分のために海を撮りに行こうと決めた。
・鳴瀬怜:湊の一学年上の先輩で、凪待ちの常連。湊に勤務後の席を作り、次の撮影では撮る役を交代したいと話した。
・相原千夏:湊の幼なじみ。模型を撮ってもらう約束があり、湊から日程の候補が届いている。
海は、思っていたより灰色だった。
大学へ行く前に家を出た。九月の朝はまだ蒸し暑く、駅へ向かう人の足音が、堤防のこちらまで聞こえた。
カメラを構えると、水面へ細い白が走る。晴れている日の青さとは違う。でも、昨日の席から見えた水面の向こうへ、自分で来たのだと思うと、帰る理由をすぐ探さずに済んだ。
波だけを撮った。係留された小さな舟と、まだ閉まった売店も撮った。
一度、透子に見せるならどの写真だろうと考えて、指が止まる。
好きだった人に見てもらいたかった気持ちまで、四日目の朝に都合よく消えたりしない。
僕は画面を閉じた。誰へ送るかは、あとで決めてもよかった。
舟の白い縁へ、一度だけ陽が当たった。青空になるほどではなく、すぐに薄い雲へ戻る。僕はその間に一枚撮り、撮れたか確かめる前に、実物の海をもう一度見た。
スマートフォンへ、千夏から返事が来ていた。
「今日は昼も詰まってる。明日の昼なら空けられる。模型、持ってくね」
昨日送った日程への返事だった。
了解、と返してから、撮る場所の候補も一つ送った。海へ来た時間を潰して、今すぐ別の約束へ変えなくていい。
カメラの肩紐に、潮の湿気が薄く乗っていた。
*
授業を終えて凪待ちへ入ると、カウンターの内側に、見慣れない人がいた。
黒い髪を肩の下で一つに結び、白いシャツへ、店のエプロンを合わせている。胸元の紐を直してから、手帳を持ち直す。その指の爪は短く揃っていた。
僕を見ると、背筋が、もう一段伸びた。
「はじめまして。白石澪です。本日から、よろしくお願いします」
名前より先に、声の硬さが残った。
母が、拭いていたグラスを籠へ戻す。
「湊、今日から来てくれる白石さん。同じ大学の一年生だよ。四時から説明して、今日は七時まで」
「朝倉湊です。二年。こちらこそ、よろしく」
僕が名乗ると、澪さんの視線が、母と僕の間を一度動いた。
「朝倉先輩、でいいでしょうか」
「うん。でも店では、湊でも通じるよ。母も朝倉だから」
言ったあとで、急に名前を呼んでくれと言ったように聞こえた気がした。
澪さんは母を見て、真面目に一度頷く。
「では、しばらく先輩で。間違えた時に、分かるようにしたいです」
そんな理由なら、と僕も頷いた。母が口元だけを緩める。
「湊は四時半から六時。私が会計と厨房、湊が卓の番号と注文の取り方を説明するから。困ったら二人とも私を呼んで」
新人を任せるね、の一言で、全部が僕へ来るわけではなかった。
壁の時計は、四時半になるところだった。
*
澪さんは、手帳を小さく区切っていた。
卓の番号、伝える順、食器の場所。見出しの下へ、余白を残して書いていく。
僕は覚えやすそうだと思い、いつもの調子で説明を続けた。
「ここの二人席が一番。奥が二番で、入口から見て――」
母に呼ばれ、途中で水差しを渡した。戻ってから、続きのつもりで砂糖の場所を指す。
「こっちは切れたら、下の棚から補充する。空になった入れ物は、そのまま新しいのに足さず、洗って乾かしてから」
澪さんは、手帳へ目を落としていた。
頷きが、さっきより小さい。
「すみません。卓の三番は、どちらでしょうか」
僕は、自分がまだ三番へ行っていなかったことに気づいた。
「ごめん。今、説明の方が飛んだ。三番はこっち。……先に、卓だけ終わらせよう」
覚える方が遅い顔をしてしまわなくて、よかった。
そう思った時点で、自分の中にその顔が用意されていたことも分かり、少し苦くなった。
毎日、身体で辿っている順番を、初めて来た人へ一度で渡せるつもりだった。
僕は番号を書いた紙を持ち、客のいない卓を一緒に回った。
澪さんが、一つずつ位置を言い直す。
「窓に近い方が一番。そこから奥へ、二番。この柱の向こうが三番ですね」
「そう。それで合ってる」
彼女は小さく息を吐き、手帳の空白を埋めた。
頷けなかった場所を、そのままにしない人なのだと思った。
*
練習の注文は、僕が客の役をした。
水の入ったグラスと、何も載せていない盆を使う。母が実際のお客さんへ珈琲を淹れる間、窓際の席へ座った。
昨日、怜さんと座った席だった。今日は説明する方へ意識が寄り、窓の海を見ないままメニューを開く。
「温かい紅茶を一つ。ミルクは別で、あとから入れたいです」
昨日聞いた注文が、そのまま出た。
澪さんは書き終え、顔を上げる。
「紅茶をお一つ。ミルクは別の器で、よろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
カウンターへ戻った彼女が、母へ注文を伝える形で言ってみる。
そこで一度、卓の番号を手帳へ見に戻った。
「一番、紅茶が一つ。ミルクは別です」
母は厨房の手を止めず、頷いた。
「聞こえた。今の速さで大丈夫。分からなくなったら、その前に聞いてね」
澪さんは、また同じ箇所へ何かを書いた。
覗こうとはしなかったけれど、手帳の角を押さえる指が、さっきより強くなっている。
一回出来たから次も大丈夫、と本人に先回りして言うのはやめた。
グラスを運ぶ練習では、盆の端が少し下がった。
僕が手を伸ばす前に、澪さんは歩くのを止めていた。空いた台へいったん置き、持つ位置を直す。
「途中で置いても、いいですか」
「もちろん。こぼす前に止まれる方がいいよ」
彼女は頷いたが、少しだけ唇を結んだ。
「分かっていても、止まるの、遅れそうになります。持って歩き始めたから、向こうまで行かなきゃと」
自分のことを言われたようだった。
昨日も、六時になってからグラスへ手を伸ばした。終わりの時刻を過ぎても、持っている用事の途中だから、と考えていた。
「僕も、それはある。ここまで来たから、もう少しって」
言いながら、彼女の盆へ触れかけていた手を引いた。
「今の、もう一回、自分の持ち方でやってみる?」
「はい。お願いします」
二度目は、机へ置くまで傾かなかった。
置いたあとで、彼女の口元が、ほんの少しほどけた。
*
五時を回ると、本当の注文が入った。
二人で来たお客さんが窓際へ座り、メニューを閉じる。母が目で合図し、澪さんが一歩前へ出た。僕は少し離れた所で、水差しを持っていた。
「紅茶を二つと、この焼き菓子を一つ。分けるお皿も、お願いできますか」
澪さんの鉛筆が止まり、また動く。
「紅茶がお二つ、焼き菓子がお一つと、取り分けのお皿ですね」
お客さんが頷いた。澪さんは戻りかけ、注文を取った卓の位置へ、もう一度だけ目を向ける。
「一番、紅茶二つと焼き菓子一つ、取り皿もお願いします」
母が復唱した。
僕は水を置きに行き、それからカウンターへ戻った。澪さんは余分な皿がどれかを確認し、自分で盆へ載せている。
覚えたことを使うのを、僕の方から奪わずに済んだ。
紅茶を持つ時、澪さんは布の位置を確かめた。
湯の熱が、昨日の手の甲の記憶を引っ張る。僕が先にポットを持とうとすると、彼女の視線が僕の手へ動いた。
「そちら、熱くありませんか」
「昨日ちょっと、湯がかかって。今日は大丈夫だけど、同じ所へ当てないようにしてる」
言ってから、布をもう一枚取った。
平気な先輩の手を見せるために、熱い物へ触る必要はなかった。
「こっちの布、渡してもらえる?」
澪さんはすぐ手を伸ばし、濡れていない方を確かめてから渡した。
たったそれだけなのに、教えている間より、彼女の顔が見えた気がした。
「はい。乾いている方です」
「ありがとう。助かった」
澪さんの返事は、最初の挨拶より短かった。
「いえ。よかったです」
紅茶を運び終え、二人とも空いた手で戻った。お客さんの卓には、二人分のカップと、一つの菓子を分ける小皿が並んでいる。
僕一人で全部持てたかもしれない。でも、いま母と澪さんと僕で動かした方が、店の仕事だった。
*
客足が一度途切れると、母は澪さんを奥で少し休ませた。
水を飲む時間と、今のうちに訊きたいことを手帳へ書く時間。僕も入口の黒板を直してから、カウンターの隣へ腰を掛けた。
澪さんは手帳を開き、何かの順を指で辿っている。
机へ指先が四つ、静かに触れた。
「それ、覚える時の癖?」
彼女は指を止めた。
「あ、すみません。音、立ってましたか」
「立ってないよ。綺麗に順番が揃ってたから」
褒めるつもりで先に採点したようにも聞こえた。言い足そうとしたが、澪さんは自分の指を見て、小さく笑った。
「ピアノを、弾いていて。弾かない所でも、手だけ動く時があるんです」
僕はそこで、もう一度短い爪を見た。物を運ぶために今日だけ切った爪ではなかったのかもしれない。
「大学でも?」
「教育の方です。続けています。……音楽の専門では、ないんですけど」
最後に自分で狭めた声が、少し気になった。
だからといって、専門じゃなくてもすごいよ、と僕が言うのは違った。弾いたところを、一度も聞いていない。
「僕は写真を撮る。今日も、大学へ行く前に海へ行ってきた」
カメラを示すと、澪さんは鞄と僕を見た。
「この辺の海ですか」
「うん。店から見えるから。近くにいても、撮りに行かないと撮らないんだなって、今朝思った」
何を当たり前のことを言っているのだろう。
言った自分で少し笑うと、澪さんも口元を緩めた。
「弾ける時間があっても、座らなかったら、弾かないのと似てますね」
彼女の言葉で、今朝の予定が少し違う形になった。
頼まれたわけでも、上手な一枚が保証されていたわけでもない。それでも自分で家を出たことを、話してよかった。
「いつか、見せてもらってもいいですか」
「うん。今日のは、まだ選んでないけど。よさそうなのがあったら」
怜さんにも見せて、と言われている。
見せたい相手が増えると、撮ったまま鞄へしまっておくのが、少し惜しくなった。
*
六時の少し前、母がカウンターから声を掛けた。
「湊、引き継ぐこと、今のうちに。白石さん、このあとは私と一緒にやりましょう」
僕は残った作業を数え、飲みかけの水を置いた。澪さんへ食器の場所を一つ伝えようとして、やめる。
明日の勤務でも間に合う説明まで、今日の最後へ詰めることはなかった。
「今日やったのは、卓と注文と、水を出すところ。砂糖の補充は、途中で僕が話を飛ばしたから、また教えるね」
「はい。そこ、手帳でも途中で止まっています」
澪さんが見せた頁には、砂糖、と書いたあとに、小さな空白が残っていた。
分からないのに分かったふりをした跡ではない。分からない場所を、ちゃんと残した跡だった。
「空けといてくれて、助かる」
僕が言うと、彼女は手帳を閉じる前に、もう一度そこを見た。
「次は、ここからですね」
その返事が、最初の硬い挨拶より好きだと思った。
閉じる手帳を見ていたら、明日も同じ所から話せそうだと思えた。もう一度話す続きを、その人の方にも持ってもらえたのが嬉しかった。
エプロンを外すと、首の後ろへ夕方の風が入った。
今日は、僕からグラスを取りに戻らなかった。母へ退勤の挨拶をして、鞄のカメラを持ち直す。
「お疲れさまでした、朝倉先輩」
「お疲れさま。初日なのに、色々聞いてくれてありがとう」
澪さんが一瞬、目を丸くした。
「聞いた方なのに、お礼を言われるんですね」
「間違って覚えられたら、僕も困るから。……それに、教え方が飛んでるの、分かった」
彼女は少し考え、今度は自分から笑った。
「では、また分からなくなったら、聞きます」
扉のベルが鳴ると、澪さんの顔は客の方へ向いた。
もう僕の返事を待っている顔ではなかった。
母の声と、彼女の復唱が続く。僕は店の外へ出て、その声が扉の向こうへ戻るのを聞いた。
帰ってから、朝の写真を一枚ずつ見よう。
誰かに見せるための前に、どれを残したいのか、自分でも選んでみたかった。




