六時からは、こちらの席で
【前回までの人物】
・朝倉湊:写真が好きな大学生。失恋の気持ちは残るが、演習の課題は班で提出した。凪待ちで十六時半から十八時まで手伝う。
・雨宮ひより:春の授業で湊と写真・文章を分担した同級生。店の紹介を相談し、告白しないまま終わった恋について湊に話した。初めて凪待ちを訪れ、会計後に帰った。
・朝倉由紀:凪待ちの店主で湊の母。ひよりと挨拶を交わし、正式な取材の日時は別に相談することにした。
五時を過ぎると、店の中の音が変わった。
カップを置く音に、椅子を引く音と、入口のベルが重なる。窓から入る風はまだ温かいのに、氷を掬う手の甲だけが冷たかった。
僕は雨宮さんの使ったグラスを洗い、水切りの籠へ伏せた。
彼女の席には、もう別のお客さんがいる。
「湊、奥の二つ、お願い」
母がカウンターから皿を差し出した。僕は水を止め、手を拭く。
「うん。いま持っていく」
母から受け取った皿を盆へ載せた。
焼き菓子の端から、バターの匂いが立つ。二つの皿を、重ならない向きへ少しずらす。
歩き出す直前、扉のベルが鳴った。
「こんばんは。いま、一人、入れますか」
鳴瀬怜さんだった。
南瀬大学の三年生で、店には去年から時々来ている。最初は、大学の小さな催しで配る案内を置けるか、母に相談しに来た。そのあとも、大学では学年の違う僕へ普通に声を掛けてくれる人だった。
暗い栗色の髪を肩の辺りで緩くまとめ、薄い灰色のシャツを着ている。片腕に挟んだ平たい紙袋が、扉を押さえるとき、かさりと鳴った。
母がカウンターの席を示すと、怜さんは先に店内を見た。
「ここなら、袋を置いても邪魔にならないですね。ありがとうございます」
紙袋を足元へ寝かせ、椅子を引く。
僕は挨拶だけして、先に皿を届けた。
*
「朝倉くん、今日は何時まで入ってるの?」
水を置くと、怜さんが訊いた。
「六時までです」
僕が時計を見上げると、怜さんは口元を緩めた。
「あと少しだ。今はまだ、店員さんの顔だね」
怜さんは、僕のエプロンを見て言った。
「店員さんの顔って、そんなに違います?」
「眉が、注文を覚えようって頑張ってる。大学で話すときは、もう少し動かないよ」
自分の額へ触れそうになって、盆を持ち直した。
怜さんは笑い、メニューを開く。
「ホットの紅茶を。ミルクは、あとで自分で入れたいです」
「かしこまりました」
カウンターへ戻ると、母は抽出の途中だった。
僕は紅茶の支度をし、水の減った卓へ目をやる。
窓際のお客さんが、鞄から折り畳んだ傘を出した。帰るところだろうと思って会計の方を見たら、その人は椅子の背へ掛け直しただけだった。
ちゃんと見ていないと、すぐ意味を先へ作ってしまう。
好きだった相手の返事も、そうやって都合よく読み違えた場面があったのだろうか。
湯を注いだとき、蓋の裏の雫が手へ落ちた。
熱さに、肩が小さく上がった。
「大丈夫?」
母に訊かれ、水で冷やしてから頷く。
「今、よそ見してた」
「もう少し冷やしてな。時計は母さんが見てるから」
母が時計を見ている間に手を冷やした。布で水気を取って戻ると、紅茶の時間は、まだ過ぎていなかった。
失恋していても、注文の紅茶が薄くてよくなるわけではない。
僕は時計へ目を戻し、怜さんのカップを温めた。
*
怜さんの紙袋には、催しの案内が入っていた。
去年と違い、今日は新しい物を置きに来たわけではなかった。入口の棚に残っていた、期間の終わった案内を回収する用事だという。
「置いた所だけ覚えて、終わったあと忘れると、次に頼みにくいでしょう」
母へ説明し、許しをもらってから棚へ向かった。
怜さんは自分の案内だけを抜いた。ほかの人の物は並べ直す程度にして、空いた段の埃を見つけると、僕へ布を借りられるか訊く。
「僕、あとで拭いておきます」
「ありがとう。じゃあ、布だけ借りてもいい? 私が抜いた所だから、そこだけ拭いて帰るね」
布を渡すと、怜さんは紙を片手へまとめ、空いた所だけを拭いた。
全部の棚を磨き始めるわけではない。その区切りが、妙に上手かった。
僕が作業を引き取れば、すぐ終わる。
そう考えることが多かった。
でも、そのあと僕の方へ、いつまでも仕事が残ることもある。
「怜さん、こういう段取り、慣れてますよね」
「いま見えてる所はね」
怜さんは布を返した。
「袋の底、見ないでね。使う順に入れたつもりで、今日いらない物まで入ってるから」
冗談のように言ったところで、紙袋から筆箱が滑り落ちた。
僕が拾い、彼女が少しだけ眉を寄せる。
「……ほら。いまの発言、撤回してもいい?」
僕は、普通に笑えた。
先輩だから全部落ち着いている、という顔を、怜さん自身が一枚だけ外してくれた気がした。
*
六時が近づく頃には、窓際の席が一つ空いた。
僕はテーブルを拭き、砂糖の容器を戻した。片づけた盆を下げようとしたとき、怜さんのスマートフォンが震える。
画面を読んだ彼女の指が、一度止まった。
「すみません。少し、外で電話をしてもいいですか」
母に断り、紙袋は席へ残して出ていった。
窓越しに見える横顔から、話の内容は分からなかった。頷く回数が多く、笑ってはいない。
僕は、聞こえない声を想像するのをやめ、椅子の位置を戻した。
母が、壁の時計を見る。
「湊、そろそろ上がっていいよ」
「ここのグラスだけ、洗ってから」
手を伸ばした僕より先に、母が籠を引き寄せた。
「はい、それは母さんの分。六時まで、助かった。お疲れさま」
昨日も、似たようなことを言われた。
終わりを決めていいと分かっていても、手の届く所に仕事があると、ついもう一つと思ってしまう。
僕はグラスを籠の横へ置き、手を洗った。
エプロンの紐をほどくと、首の後ろが少し涼しくなる。
外から怜さんが戻ってきた。
「あ、上がったんだ。お疲れさま。眉も休めた?」
戻ってきた怜さんに、僕はほどいたエプロンを見せた。
「たぶん。眉は、自分では見えないので」
「そっか。じゃあ、眉の報告は私がしないとだね」
怜さんは笑って、カウンターへ戻った。
カップへ手を伸ばした怜さんが、もう湯気のない紅茶をひと口飲んだ。
それから、空いた窓際の席を見た。
「朝倉くん、いまから予定ある?」
*
答える前に、僕はスマートフォンを出した。
千夏との、模型を撮る約束が残っている。
雨宮さんの取材も、ちゃんと日時を決めなければいけない。
そのどちらも、今ここですぐ始める約束ではなかった。
「今日は、急ぎの予定はありません」
「じゃあ、私がもう一杯頼む間、そっちへ座らない? 話したくなければ、紙袋の整理を見守る係でもいいから」
そう言ってから、怜さんは母を見た。
「席を替えてもいいですか」
怜さんの問いに、母は窓際へ掌を向けた。
「どうぞ。あちらも空いていますよ」
僕はレモネードを頼んだ。
怜さんは、紅茶をもう一杯。
別々に注文を済ませ、彼女が自分の紙袋を持って窓際へ行く。
僕は向かいへ座ろうとして、入口から顔の見えにくい側の椅子を少し引いてもらった。
「こっちだと、カウンターを見て立たずに済むかなと思って」
怜さんが、斜め向かいへ腰を下ろす。
僕は何も言えず、置いたばかりの鞄の持ち手を握り直した。
「……僕、そんなに立ってました?」
鞄の持ち手を握ったまま訊くと、怜さんは少し首を傾けた。
「私が来てから、三回くらい。……今日は目についただけ。いつもまで知ってる顔は、しないでおく」
僕を全部知っている、という言い方ではなかった。
その三回だけで、少し居心地のいい椅子が出来ていた。
通りを、学校帰りの二人が歩いていった。
片方が腕を上げると、もう片方が鞄から何かを取り出す。
窓の向こうの話は、やっぱり聞こえない。
「電話、大丈夫でしたか」
僕は、怜さんの方へ顔を戻した。
「予定の相談。私だけ、今日中に決めなきゃって急いでた。向こうは、明日でもいいよって。……私、空回りしてたみたい」
「じゃあ、少し、時間が空いたんですね」
「うん。ただ、私の頭だけが、まだ急いでる」
彼女はスマートフォンを、画面を下にして置いた。
仕草の最後で、肩が少し落ちた。
「用事は終わったのに、まだ走ってる感じ。……朝倉くんも、いま?」
レモネードの底へ指を添えた僕は、すぐには顔を上げられなかった。
「あります。終わったのに、終わったって、できない感じなら」
言ってから、口の中に何かが残った。
怜さんは続きを催促しなかった。
母がレモネードを置く。グラスの底の冷たさが、指先へじわりと移った。
*
「二日前に、振られたんです」
氷が小さく傾いたところで、僕は言った。
今日は、初めて言う言葉ではない。
それでも、相手が変われば同じ言葉が同じ軽さにはならなかった。
怜さんは、僕の顔を見た。
「……そう、だったんだ」
怜さんは、持ち上げかけたカップを戻した。
「言ってくれて、ありがとう。私はここにいるから。続きが出てきたら、聞くよ」
僕は、レモンの薄切りを見た。
続きを聞きたいのかもしれない。それでも、黙っていていいと言ってくれた。
「今日は、これだけで。……聞いてもらえただけで、少し楽です」
僕がグラスへ目を落とすと、怜さんもカップを引き寄せた。
「うん。分かった」
怜さんは、その先の名前を訊かなかった。
大学の同級生だという説明も、僕は足さなかった。
千夏のことも、雨宮さんのことも、ここで話す用事はない。
「気を遣わせましたね」
「いま一緒にお茶を飲んでるんだから、そのくらいは。私の空回りの話も、聞いてもらったし」
彼女の返事に、少しだけ笑った。
「私も、予定を全部埋めたら、考えないで済むかなと思った時期はあるよ」
怜さんは、そこで言葉を切った。
何のことか、どこまでかを、すぐ訊くのは違う気がした。
「うまくいきました?」
「うん。忙しくなることには、成功した」
あまりに普通の答えで、今度は声が出た。
怜さんも、笑った。
「それで、暇になった時間に、まとめて来るの。だから今日は、空いた時間を、そのまま空けてみようと思ってる」
紅茶の湯気が、窓の光の中を細く上がった。
彼女にも、まだ途中のことがある。
詳しく知らないままでも、隣の時間が少し楽になることはあるのかもしれなかった。
*
怜さんの紙袋から、回収した案内が出てきた。
整理を手伝おうとしたら、一枚だけ渡された。
「これは、見せたかった物。去年の写真、朝倉くんが撮ってくれたでしょう」
小さな催しの記録に使った写真だった。
会場全体の物ではない。終わったあと、椅子を畳んでいる人たちの一枚。
中央の人が笑い、端の二人は運ぶ段数を相談していた。
「これ、こっちを使ったんですね」
「うん。来年、手伝う人へ見せるなら、何をするか分かる方がいいと思って」
僕は印刷された隅を指で押さえた。
自分の撮った写真なのに、紙になった物を見ると、少し距離が変わる。
画面では見えていた小さな表情が、印刷では弱くなっていた。その代わり、椅子を抱える腕の向きが、思ったよりはっきりしていた。
「朝倉くん、ここにいたよね」
「いました。撮ってるので」
「そう。カメラの後ろにいる人は、毎回、写真から抜けるんだなって」
怜さんは、それ以上責めるようには言わなかった。
自分の手帳から、小さな付箋を取り出す。
「次に何か一緒にやるなら、一枚くらい、撮る役を替わってもいい?」
僕は、紙へ落としていた目を上げた。
「怜さんが、撮るんですか」
「うん。押す所から教えて。……目を閉じた瞬間を撮ったら、そのときは謝る」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
失恋を聞いたから、元気が出る言葉を選んでいるのだと、決めつけたくはなかった。
写真を渡す用事があって、その人が次の一枚の話をしてくれた。
今は、それでよかった。
紙を返すとき、机の下で鞄が傾いた。
僕は足元へ手を伸ばし、怜さんも同じ方へ身体を寄せた。思っていたより近くに、シャツの袖が来る。
「そっちは持つね」
彼女が紙袋を、僕が鞄を起こした。
髪の先が頬へ落ちると、怜さんは空いた手で耳へ掛け直す。その間だけ見えた小さな耳飾りが、窓の光を拾った。
見慣れた常連の先輩なのに、こんな近さで話したことはなかった気がした。
怜さんが顔を上げる前に、僕は自分の椅子へ戻った。
レモネードを飲むと、薄くなったはずの酸味が、舌へ少し強く残った。
「そのときは、お願いします」
僕が言うと、怜さんは付箋へ、交代、と書いた。
「じゃあ、書いとく。朝倉くんに、うまく逃げられないようにね」
*
グラスの氷が、二つから一つになっていた。
母がカウンターの奥で皿を重ねる。
僕は一度顔を向けたけれど、椅子から腰を上げなかった。
怜さんは、それを見て褒めたりしなかった。
ただ、自分の鞄へ紙を戻し、窓の外へ目をやっている。
「あ。ここからも、海が見えるんですね」
窓へ目を向けたまま、僕は言った。
建物の隙間に見える、狭い水面だった。
店で毎日働いていても、椅子へ座らなければ見えない角度がある。
「僕、明日の朝、少しだけ撮りに行きたいです」
思いついた言葉を、そのまま口にした。
誰かに頼まれた写真ではなかった。
「海?」
「はい。大学へ行く前に。曇ってたら、曇ってる所を」
「じゃあ、晴れにしておくようには頼まないでおくね」
怜さんが言い、僕は笑った。
何かいい一枚が撮れれば、失恋した意味が出来る、という話にはしたくなかった。
撮りたいから撮る。
それだけの予定を、自分で一つ持っていてもよかった。
千夏へ、模型を撮る日程の候補を送った。
明日か、その次の日の昼休み。返事は急がなくていいと添える。
海の写真の時間は、そこへ差し出さずに残した。
「明日の朝、楽しみになった?」
怜さんの問いに、僕は首を傾けた。
「はい。……撮りたいなって、自分で思えたので。朝、少しだけ」
言ってみると、少し照れくさかった。怜さんは、もう一度窓の方へ目を向ける。
「そっか。曇りでも撮るんだもんね」
それから、二人とも少し黙った。
気まずくなっていないか確かめるために、次の言葉を探さずに済んだ。
怜さんは帰る前に、自分の二杯分の会計をした。
僕もレモネードの分を払い、カップを運ぼうとしたら、母が盆を取った。
「お客さん、今日はもう、それでおしまい」
怜さんが、横で小さく笑った。
僕は空いた手を、鞄の持ち手へ戻した。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
入口まで一緒に歩いて言うと、怜さんは紙袋を持ち直した。
「こちらこそ。またね、朝倉くん。明日の写真、よかったら見せて」
怜さんが扉へ向き直ると、緩くまとめた栗色の髪が肩を滑った。
ベルの音が一度響き、通りの風が店へ入ってくる。
六時から座った席は、もう空いていた。
そこへ、さっきまで自分もいた。
誰かが空けてくれた椅子へ座るのにも、少し勇気が要る。
今日は、それを覚えた。




