雨宮さんの、笑い話じゃない話
【前回までの人物】
・朝倉湊:透子への気持ちが残るなか、幼なじみの千夏へ失恋を話した。千夏の課題の模型を撮影する約束もした。
・相原千夏:建築を学ぶ湊の幼なじみ。春に恋人と別れたことを湊に話した。互いの私事は、頼まれるまで他人へ伝えないと約束している。
・立花透子:湊と同じ演習の班の同級生。告白の翌日も課題の相談には普段通りに接した。千夏は相手の名前をまだ聞いていない。
・湊の母:凪待ちの店主。湊には手伝いを終える時間を決め、千夏には模型を広げる席を貸した。
資料の提出が終わると、班の共有画面に短い返事が並んだ。
『受理されてるね。お疲れさま』
透子の名前を、僕はほかの人のものより少し長く見た。
それから『お疲れさまでした』と打ち、画面を閉じた。
好きだった相手を、今日からただの連絡先にすることは、まだ出来ない。
でも、提出の終わった課題を、いつまでも開いておく理由もなかった。
鞄へスマートフォンを戻したところで、名前を呼ばれた。
「朝倉くん。……いま、五分くらい、捕まってもらえる?」
雨宮ひよりが、廊下の窓際から手を上げていた。
人文社会系の二年で、春の共通教養で同じ班になった人だ。
そのときの取材冊子で僕が写真を、彼女が紹介文を担当した。それからも、学内の有志で作る小さな読み物のことで、時々、写真を頼まれる。
肩より少し長い明るい茶色の髪が、窓から入る風で外へ跳ねた。片側を細く編んで留めている。淡い黄色のブラウスの腕に、黒いトートバッグを引っ掛けていた。
いつもより膨らんだ鞄から、紙の角が幾つも出ている。
「取材?」
鞄から出た紙の角を見ると、雨宮さんも同じ方を見た。
「そう。昨日、送ろうとしたんだけど、長すぎて。これは会った方が早いなって」
「五分で終わる?」
「……いま、短く言いすぎたかもしれない」
自分で先に笑ってから、雨宮さんは鞄を持ち上げた。
「お店のこと、少し聞ける? 朝倉くんのお母さんがやってる喫茶店」
*
中庭のベンチは、日陰の端だけが空いていた。
僕らは一人分の隙間を空けて座った。
芝を刈ったばかりらしく、青い匂いが、まだ少し湿った土の上に残っている。
雨宮さんが出したのは、店の紹介を集めた紙面の案だった。
校門から駅までの道を中心に、学生が入りやすい店を載せたいという。
「うちは、駅の向こうだよ。通学路からは外れるけど」
「だから、載せたいの。知らないまま通り過ぎる場所、っていうページにしたくて」
彼女はノートを開き、書きかけの見出しを見せた。
初めての人にも、帰り道に寄れる店。
「帰り道は、人によって違うんじゃない?」
「そう。それが、まだ悩んでるところ」
雨宮さんは、すぐに線を引かなかった。
見出しの下へ僕の言葉を書き、脇に小さく丸をつける。
「危ない。うちの駅に帰る人しか、頭にいなかった。ほかの帰り道も、聞いておこう」
鞄の中で、ペンが何本か鳴った。
明るい言い方だけれど、指摘されたことを笑いに変えて消しているわけではなかった。
ちゃんと、残していた。
「店の写真が要るなら、母に聞くよ。お客さんの顔が入る物は、その場で決められないけど」
「うん。そこは、許可をもらってから。営業中に急に入って、写真だけ撮って帰るつもりじゃないよ」
雨宮さんは紙面の空白を指した。
「メニューより、人がそこでどう過ごすかを、書いてみたいんだよね。一人で入っても浮かないとか、本を一冊だけ持っていけるとか」
昨日の、千夏の模型を思い出した。
奥へ入らなくても座れる、小さなベンチ。
似た話に見えて、二人が作ろうとしている物は違う。
「僕が撮った商店街の写真に、そういうのがあるかもしれない」
「見てもいい?」
「持ってる分なら。掲載に使えるかは、別に確認するけど」
スマートフォンで、選んだ写真だけを見せた。
全画像が並ぶ画面を、そのまま渡さずに済んでよかった。
取材で撮った透子の写真も、そこには残っていたから。
雨宮さんは靴屋の軒先の写真で、指を止めた。
「これ、いいね。濡れてない椅子が、一つ残してある」
「雨宿りをさせてもらったんだ」
「あ、飾りの椅子じゃないんだ。誰かが来たら座れるように、空けてあるんだね」
何気ない言葉だった。
でも、看板でも商品でもない物を見てくれたことが、嬉しかった。
*
話が一段落すると、雨宮さんはノートを閉じた。
「今日は、このあと忙しい?」
「帰ったら、店にいると思う。手伝う時間は、まだ決めてない」
「じゃあ、お客として行ってもいいかな。今日は見に行くだけ。取材の約束は、別にちゃんと取る」
僕は母へ連絡した。
店は普通に営業していること、取材の相談は混まない時間なら出来ること。返信を、そのまま雨宮さんへ伝えた。
「よかった。今日は……このあとも、誰かに会ってから帰りたくて」
言ってから、彼女は笑った。
「……あれ、これ、予定表の空欄を怖がってる人みたいだね。忙しいふり、下手だな」
そう見える日もあるだろうと思った。
けれど、続きを聞くためのうまい返事は、出てこなかった。
雨宮さんが、鞄の持ち手を両方揃えた。
「私、最近ね。……好きだった先輩に、恋人ができたの」
声だけが、少し明るすぎた。
「告白も、してないんだけどね。聞いちゃったら、あ、終わったなって。……始めてないのにね、こっちは」
僕はノートの置かれた膝を見た。
彼女の指が、表紙の角を繰り返し撫でている。
「……そう、だったんだ」
僕が返すと、雨宮さんはノートを膝で立て直した。
「うん。だから、取材先を増やして、街を歩いて。いまのうちに、活動的な人になっておく作戦」
言いながら、雨宮さんは背筋を伸ばした。
「どう? かなり前向きじゃない?」
僕は、答えるのに少し遅れた。
彼女の前向きさを褒めれば、話は滑らかに進んだと思う。
でも、二日前の自分が同じことを言ったら、褒めてほしかっただろうか。
「……雨宮さんは、今日、歩きたい?」
雨宮さんが、こちらを見た。
「いや、歩きたいならいいんだけど。無理に予定を増やしてるなら……少し座ってからでも」
言ってから、急に偉そうだった気がした。
「ごめん。自分の話が、少し混ざった」
「朝倉くんの?」
僕は鞄の縫い目へ目を落とした。
千夏から聞いた春の話は、ここでは話さない。
母へ話したときの言葉も、千夏が返してくれた言葉も、自分だけの物のようには使わない。
「僕も、二日前に振られた」
自分のことだけを言った。
雨宮さんの目が丸くなった。
「え。……二日前? ごめん、私、自分のことばっかり」
「話してなかったから。雨宮さんが謝ることじゃないよ」
雨宮さんは口を開きかけて、一度閉じた。
「……うん。いま、次の冗談が出なかった」
彼女が頷く。
いつもの、次の言葉へ繋ぐための頷きより、少しゆっくりだった。
「まだ、好き?」
「うん」
その答えは、昨日から変わらない。
雨宮さんは笑わなかった。
「私も。付き合ってたわけでもないのに、って言われたら、返す言葉があまりないんだけど」
「付き合ってなかったから、悲しくないはずだ、なんて。それは、言わない」
彼女の指が、表紙の角から離れた。
「ありがとう。先に言ってくれて、助かった」
*
凪待ちへ着いたのは、夕方の混む時間より前だった。
店のベルが鳴ると、母がカウンターから顔を上げた。
耳の下で切った黒髪の白い筋が、窓の光を拾った。青いエプロンのポケットから、いつものペンが出ている。
「お帰り。いらっしゃいませ」
「大学で写真をお願いしたことのある、雨宮さん。さっき話した紙面の相談」
「雨宮ひよりです。連絡、ありがとうございました。今日は、まずお茶を飲ませてください」
雨宮さんは、僕といるときより少し背筋を伸ばして挨拶した。
「朝倉由紀です。湊から、連絡をもらいました」
母は自分も名乗り、窓際の二人席を示す。
「そこの席、どうぞ。相談の時間は、また決めましょう」
母の知らない話が、僕らには一つ増えていた。
けれど、そのために母の態度まで変わる必要はなかった。
雨宮さんはアイスティーを、僕はホットコーヒーを頼んだ。
手伝いをするか聞く前に、母が僕へ向き直った。
「今日は、四時半から六時まで、入れる?」
壁の時計を見る。
それまで、まだ時間があった。
「うん、六時までなら」
僕が答えると、母は窓際へ目を向けた。
「じゃあ、それまでは座ってて。二人分、いま持っていく」
言われると、途端に椅子へ座りやすくなる。
僕はカウンターの内側へ行きかけた足を、窓際へ戻した。
「息子さんでも、ちゃんと注文するんだね」
メニューを閉じた雨宮さんが、向かいから聞いた。
「店の物を、全部勝手に飲んでいいわけじゃないので」
「なるほど。息子さん専用の、飲み放題制度ではなかった」
今度の冗談には、普通に笑えた。
僕が笑うと、彼女も笑った。
その順番を、なぜか少しだけ覚えておこうと思った。
*
コーヒーの湯気が、頬の前を通った。
雨宮さんは店の中へ、ゆっくり視線を動かしていた。
席の間隔、窓、入口から見えない奥の壁。
メモを取りかけてから、ペンを鞄へ戻す。
「今日は見に来ただけ、って言ったから。ずっと書いてたら、いつの間にか取材になるね」
「別に、気になることを書き留めるくらいはいいんじゃない?」
「じゃあ、一個だけ」
ノートへ短く書いて、僕の方へ回した。
何もしないで座っていても、急かされない。
「お客さんが少ない時間だから、っていうのもあると思う」
「それも、そうだね」
雨宮さんは、その下へ、平日の午後、という言葉を足した。
「朝倉くん、こういうの、ちゃんと言ってくれるから助かる」
「いまの、訂正しただけだよ」
「うん。その一言が欲しいんだよ。私、そのままだと、いい感じ、で一頁書いちゃいそうで」
僕はノートを返した。
彼女の字には、消したり書き足したりした跡が多かった。
口にするときの滑らかさを、そのまま紙へ置いているわけではないらしい。
「先輩も、そういうふうに読んでくれる人だったの?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
雨宮さんは、グラスへ触れていた手を止めた。
「うん。直す所と、残した方がいい所を言ってくれた」
間を置いて、付け足す。
「でも、私にだけ、そうだったわけじゃない。だから、勝手に特別な意味をつけたのは、こっちなんだよね」
「でも、そこを好きだったのは……別に、間違いじゃないんじゃないかな」
言葉が、考えるより先に出た。
雨宮さんはグラスの氷を見た。
からり、と一つが傾く。
「……それ、笑って返そうとしたけど。いま、ちょっと、できなかった」
「僕も、そう思いたいだけかもしれない。好きだった理由まで、なくなるのは嫌だから」
透子の、課題の写真を選ぶ目を思い出した。
僕のために選んでくれた写真ではない。
それでも、一緒に話せて嬉しかったことまで、消す必要はないはずだった。
「……じゃあ、私も言うよ。朝倉くんが好きだった所も、間違いじゃなかったと思う」
雨宮さんが言った。
僕は頷いて、少し冷めたコーヒーを飲んだ。
苦みが、さっきよりはっきり舌に残った。
*
母に呼ばれ、僕は一度席を立った。
夕方に出す焼き菓子の皿を、棚から下ろすだけの用事だった。
カウンターの内側から振り向くと、雨宮さんは窓の外を見ていた。
ストローを使わず、グラスを持ち上げている。小さなシロップの容器は、手つかずで横にあった。
彼女の顔に、笑顔はなかった。
悲しい顔だ、と決められるほど、長く見たわけではない。
ただ、誰かへ返事をする前の顔ではなかった。
戻ると、雨宮さんはすぐこちらを向いた。
「店員さん、お帰りなさい」
「まだ勤務前です」
「そうだった。では、お客さん、お帰りなさい」
そこで、僕の返事を待つ。
何か面白く返せば、彼女は笑ってくれたと思う。
「ただいま」
僕は、それだけ言って座った。
雨宮さんも、グラスを置いた。
「さっきから、私、ちょっと喋りすぎてる?」
「取材の話は、面白かったよ」
「それ以外は?」
窓の向こうを、自転車が二台通った。
僕は、二台目の籠に入った花束が見えなくなるまで、目で追った。
「聞くのは、嫌じゃない。でも、全部に気の利いた返事は出来ないと思う」
雨宮さんは、少し目を見開いた。
それから、肩の力を抜くように息を吐いた。
「……じゃあ、よかった。私も、面白いことを言わなくても、ここにいていい?」
「うん。お茶、まだあるし」
僕がグラスを示すと、今度は、彼女の方が笑った。
声は、さっきより小さかった。
*
四時半になる少し前に、僕は席を離れた。
「そろそろ、働く時間なので」
「うん。ありがとう。私も、この頁だけ直してから帰る」
雨宮さんが開いたノートには、消した見出しの下に、新しい言葉があった。
いつもの道から、少し外れて。
「そっちの方が、帰る方向が違っても大丈夫だね」
「うん。こっちでいく。二回目も、止めてくれてありがとう」
僕は笑って、エプロンを取りに行った。
首へ紐を掛けると、慣れた布の重さが肩へ戻る。
会計を済ませた雨宮さんが、カウンターへ顔を向けた。
「由紀さん、また来てもいいですか」
「もちろん。取材の相談なら、予定を教えてね」
「次は、相談がなくても来るかもしれません」
母が、どうぞ、と笑った。
雨宮さんは僕にも、小さく手を上げた。
「今日の話は、記事にはしないから」
「分かってる」
「私のも、見出しにはしないでね」
「写真にも撮れないしね」
言ってから、少しだけ失敗した気がした。
けれど雨宮さんは、今度は普通に吹き出した。
「……うん、いまのは、普通に変だった。よかった、私だけじゃなくて」
ベルが鳴った。
明るい茶色の髪が、扉の向こうで一度揺れ、通りへ出ていく。
僕は空いた席のグラスを下げた。
底に残った茶と、使われなかったシロップを、別々に持つ。
今日は、誰かを元気にした日ではない。
僕の失恋が片づいた日でもない。
ただ、気の利いたことを言い続けなくても、途中で席を立たずに済んだ時間があった。
そのくらいのことなら、今の僕にも、ちゃんと覚えておけそうだった。




