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いつもの席を、ひとつずらして

【前回までの人物】

・朝倉湊:写真が好きな大学生。透子への告白は実らなかったが、相手の返事を受け入れた。母の喫茶店「凪待ち」を手伝っている。

・立花透子:湊と同じ演習の班にいる同級生。告白に、恋人としては好きではないと率直に返事をした。

・相原千夏:建築を学ぶ湊の幼なじみ。模型と図面に取り組みながら、翌日、凪待ちへ寄ると連絡してきた。

・湊の母:凪待ちの店主。夜、湊本人から失恋の話を聞き、翌朝の店の仕込みを休むという相談を受けた。

 午前十時十二分。

 資料を送ったあと、僕はスマートフォンを伏せた。


 昨日の続きから、目が覚めた。

 朝になれば何かが片づいているような気がしていたのは、寝る前の自分だけだったらしい。


 班の共有先に、透子から返事が来る。


『ありがとう。あとで確認します』


 いつもの返事だった。

 僕も『お願いします』と返した。

 その四文字を打つのに、朝のパンを食べるより時間が掛かった。


 階下では、食器の重なる音がした。

 母は僕を呼ばなかった。休んでいいと、昨日、決めたからだ。

 だから、下りて何か手伝えばいいという逃げ道も、今朝は使わなかった。


 もう一度だけ資料を開き、数字が一つずれていた所を直した。

 修正版を共有して、鞄へ教科書を入れる。

 することは、まだあった。


     *


 演習で隣の班が発表している間、透子は、配られた紙へ細かく書き込んでいた。

 僕らの番が来ると、彼女は自分の担当を話した。

 質問には少し考えてから答え、分からない数字は持ち帰ると言った。


 昨日の返事と、同じ人だった。

 僕のために、冷たくなることも、余分に優しくなることもなかった。


 終わったあと、資料の確認をした。


「朝倉くん、ここの写真、一枚替えてもいい?」


 透子が資料をこちらへ寄せた。僕は、指の先の写真を見た。


「入口が写ってる方に?」


「うん。話を聞いた店が、どこにあるか分かる方がいいと思って」


 僕は頷いた。

 写真の選び直しに、告白の返事は関係なかった。


 だから、ちゃんと話せた。

 ちゃんと話せたぶん、帰りの階段で、急にしんどくなった。


 夕方、手伝えるかと母へ連絡したのは、電車を待っているときだった。

 誰かに頼まれたわけではない。

 それでも、家に帰って部屋で一人になるより、店にいたかった。


『六時くらいからなら』


 送ると、母から『助かる。七時まででどう?』と返ってきた。

 終わる時間まで決まっていることに、少し救われた。


     *


 幼なじみの相原千夏が来たのは、僕がエプロンを外した、すぐあとだった。大学では建築を学んでいて、昨日の連絡でも、遅くなると聞いていた。


 ドアのベルが鳴り、最初に、平たい箱が入ってきた。

 それから鞄。最後に、箱を斜めにしないよう苦労している本人の顔が見えた。顎の辺りで切りそろえた栗色の髪が、肩からずれる鞄を直すたび、頬に掛かった。薄い緑のシャツの袖はまくり上げられ、指には小さな紙片がついている。


「湊、扉! そこで押さえて」


 箱の角を避けて戸を引くと、千夏が片足ずつ入ってきた。


「はいはい。……模型、生きてる?」


「いまのところ。だから、その椅子は引かないで。角、当たる」


 僕は伸ばしかけた手を止めた。

 千夏は箱を自分で窓際の卓へ置くと、ようやく肩から鞄を下ろした。


「……よし。生還」


 箱から離れた千夏が、両肩を大きく下げた。


「大学って、そんな場所だっけ」


「帰りが危ないの。人は多い、私は眠い、模型は軽いのにでかい。もう、三つも敵がいる」


 もっともだった。

 千夏はカウンターへ顔を向け、母に挨拶した。


「こんばんは。遅くにごめんなさい」

「いらっしゃい。今なら、パンのある物と、飲み物は出せるよ」

「じゃあ、チーズトーストと、アイスコーヒー。あと、箱を少し置いておいても大丈夫ですか」

「うん。その卓なら、いいよ」


 許可をもらうと、千夏はいつもの椅子へ腰掛けた。

 窓へ背中を向け、店の中が見える席だ。

 鞄から取り出した筆箱に、細い紙の切れ端がくっついていた。


「ついてる」


 僕が指すと、彼女は指先でつまんだ。


「あ、昨日の屋根だ」


「壊れたの?」


 千夏は紙片を筆箱へ戻した。


「壊したの。直したら、だいぶ良くなった。……寝る時間は、減ったけど」


 疲れているのに、その言い方だけは明るかった。

 そういうときの千夏は、昔から、話が長くなる。

 僕は向かいへ座り、箱の端を見た。


「今回、何を作ってるの」

「商店街の空き店舗。小さな展示と、人が座れる場所を入れる課題」

「それ、ここで広げて大丈夫な大きさ?」

「収まる。糊も使わない。……そこまで信用ない?」


 先に言い切ってから、彼女は蓋を持ち上げた。

 白い紙で作られた壁の中に、小さな机と、人の形をした切り抜きが並んでいる。

 入口の近くには、低い台があった。


「ここ、ベンチ?」

「うん。店に入るか迷ってる人でも、座れる所。奥まで入ってから、帰りたくなると困るでしょ」


 千夏の家は、工務店だった。

 子どもの頃から、父親の引いた図面を、食卓の端で見ていた。僕には線にしか見えない所を、ここは階段、ここはお風呂、と指してくれた。


 今、指先にある場所は、彼女自身が考えたものだった。


「外と、中の間があるんだ」

「そう。そこを、ちゃんと作りたくて」


 千夏が顔を上げた。

 いつもなら、そこで僕がもう一つ聞くのを待っている顔だった。


 僕は、その入口を見ていた。

 入らなくても、少しだけいられる場所。


「……湊?」

「あ、ごめん。聞いてる」

「今、何の話だと思ってた?」

「……ベンチの話」


 千夏が、半分だけ開いた蓋へ手を置いた。


「合ってるけど、それじゃ聞いてなくても当たるんだよなあ」


 笑おうとして、うまくいかなかった。

 千夏は、模型の蓋を半分だけ戻した。


「今日、長かった? 説明」


「いや。面白い。ごめん、ちょっと遅れてるだけ」


「謝ってって言ったんじゃないよ。……いつもの湊なら、もう一個、訊く所だったから」


 昔から知っている人に、いつもどおりを見せるのは、少し難しい。

 それで助かる日もあれば、困る日もある。


 母がトーストを運んできた。

 千夏が卓の上を空け、僕も肘を引く。


「湊、もう上がっていいからね」

「うん」

「千夏ちゃん、模型、帰りも気をつけて」

「はい。今日一日で、一番大事な予定です」


 母は笑い、カウンターへ戻った。

 千夏はトーストの一切れを持ち上げた。

 伸びたチーズが、途中で細く切れる。焼けた匂いに気づいて、僕もようやく腹が空いていたことを思い出した。カップを持つ指には、洗い物の湯の温かさがまだ残っていた。


「食べる?」

「注文した人が、ちゃんと食べて」

「お、今日は譲らない。じゃあ、私のチーズは私が食べる」


 僕は、それには少し笑えた。


     *


 千夏は、食べ終わるまで、続きを聞かなかった。


 アイスコーヒーの氷をストローで沈め、模型の台へついた小さな屑を払う。

 僕も、空いた皿をカウンターへ返した。

 仕事は終わったのに、身体が先に動く。


 戻ろうとすると、いつもの向かいの椅子には、箱の蓋が立ててあった。


「湊、こっち。横からだと、ここ、低く見えない? ちょっと座ってみて」


 千夏は、自分の隣の椅子を少し引いた。

 僕はそこへ座った。

 同じ卓なのに、窓に映る角度が変わった。千夏が模型へ身を寄せると、耳へ掛けた栗色の髪が一筋ほどけた。普段は向かいにある横顔が、少し動けば肩の触れそうな近さにあった。

 目を合わせるより、同じ入口を見ている方が、今は話しやすかった。


「ここ、立ち上がるときに、ぶつかりそう?」

「模型だと、ちょっと低く見える。実際の寸法は?」


 千夏はノートを開いた。

 図面の数字を二つ示す。

 僕は自分の膝の高さと、卓の下の余裕を比べた。


「だったら、大丈夫そう。低く見えたのは、この人が少し大きいからかも」


 切り抜きの人を指すと、千夏が黙った。

 次に、別の切り抜きと並べた。


「……あ。前の課題の人、連れてきてる」


「この人だけ、大きいね」


 切り抜きを横へ並べた千夏が、こらえきれずに息を漏らした。


「大きい。入れないよ、この入口からじゃ」


 二人で笑った。

 千夏は大きい方の人を取り除き、筆箱の隅へ寝かせた。


「ありがとう。提出の前で、よかった」

「入口から見たときは、分からなかったね」

「いつも一つの向きから見てると、こうなる」


 彼女は小さく息を吐いた。

 うまく出来ている物でも、見てほしい所はあるらしかった。


「商店街、取材したときさ」


 千夏がノートの端を指で押さえた。


「湊、店の外の椅子ばっかり撮ってたこと、あったよね」

「靴屋の前? 雨宿りさせてもらったときの」

「うん。看板じゃないんだ、って思った」


 あのときは、取材の日とは別に、千夏と商店街を歩いた。

 急に雨が降り、店主が軒先の椅子を空けてくれた。許可をもらって撮った写真には、畳んだ傘と、乾いた場所へ寄せた靴が写っている。


「あそこに座って、助かったから。どういう店か、僕には、あの椅子の方が分かりやすかった」

「それ、今度、記録写真の説明に書いてもいい?」

「僕の話でいいなら」

「自分が作りたい場所の話だから。誰かが、そういうふうに見てくれた所が、あったんだなって」


 千夏はノートに短く書いた。

 僕の方へ向けて、こういう意味で合ってる、と確かめる。

 数行しかない字の中に、自分の好きで撮ったものが残った。


 写真の話を、今日は出来ないと思っていた。

 そんなことは、誰にも決められていなかった。


 模型を覗き込んでいたら、隣から声がした。


「ねえ。今日は、こういう話じゃない方がよかった?」


 僕は顔を上げた。

 千夏は模型を見ていた。こちらの表情を、捕まえようとはしていなかった。


「ううん。こういう話、してたい」


 千夏は、半分戻していた蓋をまた開いた。


「そ。じゃあ、もう少しだけ付き合って」


 それで終わった。

 終わってくれたので、その先を、自分から言おうと思った。


「昨日、振られた」


 ストローを持っていた千夏の手が止まった。

 店の奥で、母が水を流した。


「……昨日?」


 千夏はストローを離した。僕は模型の入口を見たまま、頷いた。


「うん。だから、今日は、ちょっと返事が遅い」


 変な説明だった。

 千夏は否定も、納得したふりもしなかった。

 グラスを置き、少しだけ座り直した。


「……聞くよ。言いたくない所まで、訊かないから」


「言えるところだけで、いい?」


「うん」


 誰に、と、最初には聞かなかった。

 僕は、大学の同じ班の人だと話した。名前を口にするところで一度止まり、言わずに続けた。

 好きだと伝えて、付き合えないと返事をもらった。

 今日も演習で会った。


「嫌なこと、言われた?」

「言われてない。むしろ、ちゃんと言ってもらえた」

「そっか」

「だから、向こうがひどいっていう話には、したくなくて」


 千夏は、ゆっくり頷いた。


「うん。湊が好きになった人なんでしょ。会ったこともないのに、ひどい人だったね、とは言わない」


 それを聞いて、息が少し深くなった。


「まだ、好き?」


 その質問には、すぐ答えられた。


「うん」


 千夏は黙った。

 指先が、グラスの結露を一筋だけなぞった。

 何か言いかけたように見えたけれど、僕には、その言葉は分からなかった。


「……まだ、一日だもんね。そりゃ、そうか」


 千夏は手を引いた。


「私もさ。春に別れたとき、もう平気って、先に言っちゃって」


 僕は、彼女の横顔を見た。

 長く付き合っていた人がいたことは知っていた。

 春から、その話を聞かなくなったことにも気づいていた。

 でも、終わったのだと本人の口から聞くのは、初めてだった。


「……そうだったんだ」

「行きたい所が、合わなくなったの。何回も話したし、別れた方がいいって、私も思った。……決めたのにね」


 千夏は、模型の小さな入口を見た。


「それでも、納得したらすぐ寂しくなくなる、ってわけじゃなかったから」


 僕は頷いた。

 分かる、と軽く言えるほど、彼女の春を知らない。

 だから、頷くだけにした。


     *


 残りのコーヒーを、千夏はゆっくり飲んだ。


 誰かを好きになれば忘れられるとか、もっといい人がいるとか。

 そういう言葉は、一つも出なかった。


 模型の入口を直す話に戻り、店先で撮影したら、窓からの光がどう入るかを話した。

 僕は、久しぶりにカメラのことを思い出したような気がした。

 実際には、昨日の夜にも話しているのに。


「それ、撮りたいな。……撮ろうか」


 言うと、千夏がこちらを向いた。


「これ?」

「うん。提出用の記録、要るんでしょ」

「要る。頼みたい。でも、今日は座ってて。……ほら、もう腰が浮いてる」


 先回りされたことに、少し笑った。

 たしかに、もう立とうとしていた。


「じゃあ、撮るときに、僕にも見せて。小さい人の目の高さで、撮ってみたい」


 千夏が、模型の横へ頬を近づけた。


「……ああ。そういうの、湊っぽい」

「どういうの」

「こっちから見るんだ、って思うところ」


 彼女は模型ではなく、僕を見た。

 その目が、さっきより長く止まった。


「それ、撮ってほしい。湊の、その見方で」


 いつもの頼み方より、少しだけ静かだった。


 帰る支度をするとき、千夏は箱を抱える前に、僕へ鞄を渡した。


「外まで、これ、お願い。両方持つと危ない」

「了解」


 僕は鞄を肩へ掛け、扉を押さえた。

 涼しくなり始めた風が、二人の間を通った。


「今日、話したこと」


 僕が言うと、千夏は足を止めた。


「言わないよ。私の方から、誰かに話したりしない」

「ありがとう。千夏の話も」

「うん」


 箱を落とさないように、彼女は持ち直した。

 それから、僕の肩から鞄を受け取る。


 指が少し触れた。

 子どもの頃から何度もあったことなのに、そのときだけ、どちらが先に手を離すのかが分からなくなった。


 千夏が、先に引いた。


「じゃあ、撮影の日、あとで相談する」

「分かった」


 彼女は二歩進み、振り返った。


「いつもの席じゃないのも、悪くなかったね」


 模型を横から見た席のことだ。

 そう答えようとして、言葉が一拍遅れた。


 千夏は、今度は待たずに笑った。


「またね」


 僕は手を上げた。

 店の中へ戻ると、二つ並んだ椅子が、まだ少しだけ斜めになっていた。


 直す前に、そこへ目が留まった。

 昨日と同じように透子を思い出す夜になる、と、朝は思っていた。


 たぶん、思い出す。

 それでも今夜は、それだけではないらしかった。

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