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恋が終わっても、店は五時に忙しくなる

 好きだと伝えたあと、同じ商学部の立花透子は、すぐには返事をしなかった。

 大学に入って二度目の九月だった。同じ演習で何度も顔を合わせてきた相手なのに、今は目を上げるだけで息が浅くなる。


 大学の図書館の裏手には、低い煉瓦の塀がある。

 僕らはその脇に立っていた。九月に入っても昼の熱が残っていて、冷房で冷えた指先だけが、まだ少し涼しかった。


「……朝倉くん」


 名前を呼ぶ前に、透子は、持っていた紙袋を両手で持ち直した。肩より長いまっすぐな黒髪が、うつむいた頬へ落ちる。耳へ掛け直した指が袋へ戻るまで、僕は待った。

 袋には、留学の説明会でもらってきた資料が入っている。


「言ってくれて、ありがとう。……嬉しかった、それは、ちゃんと伝えたい」


 その先を、聞く前から少しだけ分かってしまった。

 分かったつもりで、それでも待った。


「でも、付き合うことはできない。朝倉くんのことを、恋人として好きだとは、言えない」


 木の葉がこすれた。

 向こうの道を通る自転車のブレーキが鳴った。

 聞こえていた音が急に増えて、僕はようやく、自分が返事をする番だと気づいた。


「そっか」


 もっと違うことを言う準備はしていた。

 急にごめん、とか。

 返事はゆっくりでいい、とか。

 実際に口から出たのは、その三文字だけだった。


 透子が、僕の顔を見ていた。

 無理に笑ってほしいわけじゃないのだろう。僕も、笑わせたいわけではなかった。


「……うん。聞いてくれて、ありがとう。返事も」


 そこまで言うと、やっと息が続いた。


「説明会のあとに、ごめん。時間、取らせた」


 透子は紙袋を抱え直して、首を横に振った。


「ううん。話すって決めたのは、私もだから」


 透子は言葉を選んでいた。

 その丁寧さを、今ならまだ可能性がある、という意味には取りたくなかった。


 資料の袋が、彼女の指先で小さく揺れた。

 留学へ行くかもしれないから、という断り方はしなかった。向こうでの勉強も、将来のことも大事にしている人だけど、それを僕への返事の理由に借りなかった。


 そういうところが、好きだった。

 今、それを思うのは、少し困った。


「……明日の演習は、普通に話してもいい?」


 帰る方へ目をやりかけた透子が、もう一度、こちらを見た。


「うん。僕も、そのつもり。資料は、今日中にまとめて送るから」


 いつもの答えが出た。

 グループの発表資料を最後に整えるのは、大抵、僕だった。

 それが嫌なわけじゃない。得意な人がやればいいと思うし、人の文章を見て、どうすれば伝わるか考えるのも好きだ。


 でも、今日も同じように出来るかは、分からなかった。


「……いや、ごめん。今日中って、いま言わなきゃよかった。明日の午前でもいい?」


 透子は一度、頷いた。


「うん、明日の午前に。提出は明後日だし、私も自分の所を直しておく」


 透子は、少しも困った顔をしなかった。

 勝手に今日中だと決めたのは、僕の方だった。


「分かった。じゃあ、また明日」

「また明日」


 彼女は紙袋を腕へ掛け直し、校門の方へ歩いていった。

 途中で振り返ることはなかった。


 僕も追わなかった。

 塀の縁に置いていた鞄を取り、肩に掛けた。


 告白する前と、荷物の重さは同じはずだった。

 なのに、どう持っても落ち着かなかった。


     *


 駅へ向かう道で、スマートフォンが震えた。


『買い物終わり。牛乳いる?』


 母からだった。

 僕は『ある』と打ち、送る前に消した。

 店に在庫があるのか、買ってくる必要があるのか、それでは分からない。


『あと二本ある。今日は足りると思う』


 送り直して、画面を閉じる。

 失恋しても、牛乳の残りは確認できるらしい。


 歩道橋の上で、電車を一本見送った。

 駅へ向かっているのに、駅へ着くのが嫌だった。

 着けば、いつもの時間の電車に乗って、いつもの店へ帰る。そうしている間に、さっきまでとは違う日が、普通の日の顔で進んでしまう。


 鞄の肩紐を直した。汗で額に張りつく短い黒髪をかき上げても、指先はすぐに下ろせなかった。シャツの背中まで熱いのに、さっき冷えた腹の底だけが戻らない。

 透子を好きになったのは、いつだっただろう。


 入学して間もない頃、グループ課題で同じ班になった。

 僕が出した、近所の店を取材して紹介する案に、彼女は最初に質問をした。


『誰に来てほしいかは、店の人に聞いた?』


 格好よく紹介できるかばかり考えていた僕には、思いつかなかった質問だった。

 取材の日、透子は、店主が話し終わるまでメモを取らなかった。最後まで聞いてから、分からなかったところを確かめていた。


 たぶん、そういう時間を幾つも覚えていた。

 一つの特別な出来事があったわけではない。

 だからこそ、終わったと言われても、どこへしまえばいいのか分からなかった。


 赤い電車が、線路の上を通り過ぎた。

 窓には、知らない人の顔が並んでいた。


 もう一本見送ったら、店の夕方の支度に間に合わない。

 僕は階段を下りた。


     *


 喫茶店『凪待ち』の入口には、古い真鍮のベルが下がっている。

 押した扉の向こうで、それが二度鳴った。


「おかえり。思ったより早かったね」


 この店の店主でもある母は、カウンターの内側でグラスを拭いていた。耳の下で切った黒髪には、近頃、白いものが少し増えた。青いエプロンのポケットからペンをのぞかせ、返事を待つ間も布を動かしている。

 この店ができたとき、僕はまだ赤ちゃんだった。二十歳になった今でも、カウンターの端に残る小さなへこみを見ると、脚立に乗って手伝っていた頃を思い出す。


「ただいま。……今は、落ち着いてる?」


 僕が店内を見ると、母も予約の札へ目を移した。


「今だけね。五時から二組。上で着替えておいで」


「うん、すぐ戻る」


 裏の階段を上がりかけて、靴が一段目に当たった。

 つまずくほどではなかった。手すりをつかんで、そのまま上った。


 部屋の机に、カメラが置いてある。

 父の印刷の仕事を手伝ったとき、店の紹介写真を撮るのが面白くて、貯めた金で買ったものだ。


 先月、そのカメラで透子を撮った。

 演習の取材で、店先の暖簾を押さえてもらった写真だった。

 共有する資料に使うから、と断って撮った。


 あの写真の中で、彼女は笑っていた。

 僕だけに見せた表情だなんて、思っていたわけじゃない。

 それでも、レンズを向けたときに、こっちを見てくれたことが嬉しかった。


 カメラには触れず、シャツを着替えた。

 鏡の前でエプロンの紐を結ぶ。

 いつもどおりの結び目になって、少しほっとした。


 階下へ戻ると、母がメニューを差し出した。


「湊、黒板、お願い。今日のおすすめ」


「ナポリタンと、チーズケーキでいい?」


 母は冷蔵庫の皿を確かめた。


「うん。ケーキ、あと四つあるから。それを先に」


 店先の黒板を消す。

 白い粉が指に付いた。


 おすすめ、と書くときに、一本目の線を曲げてしまった。

 消して、書き直す。

 失恋したからといって、字まで下手になる必要はないのに、と思ったら、ほんの少しだけ笑えた。


 開いた窓から、商店街の音が入ってきた。

 向かいの店がシャッターを半分下ろしている。夕飯の買い物へ行く人が、店先を歩いていく。


 五時になると、本当に忙しくなった。


 予約の一組は、近所の合唱サークルだった。

 六人が一度に話すので、飲み物の注文を取るだけで小さな会議になる。


「アイスコーヒー二つ、ホット三つ、紅茶一つ。ケーキは皆さんで四つ、切り分けてお持ちしますね」

「あ、僕のアイス、氷は少なめにしてもらえる?」


 卓の端の男性が手を上げた。僕はその人の位置へ印を足す。


「はい。アイスコーヒー、一つは氷少なめで」


 カウンターへ戻ると、母がコーヒーを落としていた。

 湯が粉の上で丸く膨らみ、甘いような、焦げたような匂いが広がる。


「湊、四番のテーブルへ水」

「了解」


 水を注ぐ。

 皿を下げる。

 ケーキを切るために、包丁を温める。


 することがあると、助かった。

 注文を間違えないように聞いている間は、ほかのことを考えなくて済んだ。


 最後のケーキを運んだ帰り、母が僕の前に小皿を置いた。

 端が少し欠けた、切り分けの余りだった。


「食べていいよ。今のうちに」

「ありがと」


 裏の作業台で立ったまま食べた。

 甘かった。

 当たり前だ。いつものケーキなのだから。


 透子がこれを食べたとき、美味しいと言ってくれたことを思い出した。

 フォークが止まった。


 仕事をしていれば平気でも、ケーキを一口食べるだけで、もう駄目だった。


「……これ、やっぱり美味しいね」


 フォークが止まったまま言うと、母は作業台から少し離れた所で、小皿を拭いていた。


「うん。今日は、よく冷えてるから」


 それ以上は聞かなかった。

 僕は小皿を洗い、戻る前に、一度だけ大きく息を吐いた。


     *


 客が引いたのは、七時を回ってからだった。

 窓ガラスに、通りの明かりより店内の椅子が濃く映る。


 僕がテーブルを拭いていると、奥から母の声がした。


「湊、ご飯。食べられる?」


 母が二枚の皿を持ってきた。トマトの匂いに、僕は布巾を置いた。


「食べる。何?」


「ナポリタンと、残ったスープ」


「……助かる。いま、腹が減ってるのに気づいた」


 いつもの席に座った。

 厨房が見える、カウンターに一番近い二人掛け。

 母が向かいへ腰掛け、携帯電話を確かめた。


「お父さん、納品が遅くなったから、先に食べてって」

「分かった」


 フォークを持ってから、しばらく皿を見た。

 玉葱が透きとおっていた。ピーマンの切り方が、今日は少し太い。


「母さん」

「うん?」

「今日、告白して、振られた」


 言葉にすると、ずいぶん短かった。

 歩道橋からここまで、何時間も抱えてきたものが、一息で終わってしまった。


 母はフォークを置いた。


「そっか」


 僕があのとき言ったのと、同じ言葉だった。

 なのに、聞く側になると、少し違って聞こえた。


「……分かってた?」


 水のグラスを動かしかけた母が、僕を見た。


「何かあったかな、とはね。帰ってから、返事の前に、いつもより間があったから」


 母は、僕の皿の横へ水を寄せた。


「聞くよ。……先に食べてからでもいいけど。まだ、温かいうちに」


 透子のことを、順番に話そうとした。

 どんなところが好きだったのか。どうして今日、伝えようと思ったのか。

 口を開くと、うまくまとまらなかった。


「ちゃんと、返事してくれた」


 最初に出てきたのは、それだった。


「そう」

「ごまかさずに、付き合えないって言ってくれた。それは、よかったと思う」

「うん」

「でも、きついね。……ちゃんと言われたら、もっと平気かと思ってた」


 最後だけ、少し笑うつもりだった。

 出来たかどうかは分からなかった。


 母は励ましの言葉を探さなかった。

 水を一口飲み、僕が続きを話すかどうか待っていた。


 店の時計が、一分進んだ。


「明日は、午前中の手伝い、休んでいい?」


 頼んでから、朝の仕込みを自分の予定へ勝手に入れていたことに気づいた。

 大学へ行く前に、僕が毎日必ずやると決まっているわけじゃない。それでも、自分がしないと母が困るような気がしていた。


「いいよ。明日の朝は、母さんがやる」


 返事は早かった。母は、僕の前のスープを少し寄せる。


「夕方も、帰ってからでいい」


「うん。……帰ってから、決める」


 復唱すると、少しだけ、腹が減っていることを思い出した。

 ナポリタンはまだ温かかった。


 食べていると、母が窓際の黒板を見た。


「おすすめ、書き直した?」

「字を曲げたから。あの辺だけ」

「そっか。今の字、読みやすいね」


 慰めに聞こえなくて、少し笑った。

 母は本当に、店先の文字のことを言っている。


「写真も、そろそろ替えたいんだよね。涼しくなったら、温かい飲み物を前に出すから」

「それは、撮りたいな。父さんが買ってきた青いカップ、温かいのに合いそう」


 言ってから、明日の約束にはしなかった。

 撮りたいと思う気持ちはあった。それを急いで、何もなかったことにする必要はない。


「じゃあ、撮る日を一緒に決めよう」


 母はそう答え、残りのスープを飲んだ。


     *


 食器を下げる前に、スマートフォンが震えた。

 相原千夏からだった。


『明日、凪待ち寄る。遅くなるけど、店いる?』


 小さい頃からの友達だ。

 大学では建築を学んでいて、今は模型と図面に追われている。忙しい時期の千夏の連絡は、大体、短い。


 いる、と打ちかけて止まった。

 明日の夕方、自分がどうしているかは、まだ分からない。


『たぶんいる。いなかったら連絡する』


 送ると、すぐに既読がついた。


『了解。私も模型が崩壊したら連絡する』


 画面を見て、少し笑った。

 母がこちらを見たので、画面を伏せながら、千夏、とだけ言った。母は、それ以上のぞき込まず、残りの皿をまとめた。


 明日も、予定はあった。

 演習があって、店があって、幼馴染が来るかもしれない。

 恋が終わったぶん、すべてが空っぽになるわけではないらしかった。


 それでも今夜は、好きだった人のことを、何度も思い出すと思う。

 もう好きではない、なんて、まだ言えなかった。


 僕は空になった皿を二枚重ね、立ち上がった。

 店のベルが、閉めかけの扉で小さく鳴った。

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