撮らない時間の、そのあとに
【人物のおさらい】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を撮り、自分の冊子を作っている。
・千夏:湊の幼なじみ。自分の建築課題の模型を作っている。
・ひより:文章と編集が好きな、失恋同盟の仲間。
千夏から届いた写真は、まだ僕の携帯にあった。
火曜の最後の講義が終わり、僕は鞄へノートを戻す前に、一度だけそれを開いた。
窓を見ている自分の横顔。こちらを撮っている人のことは、写真の中からは見えない。
写真を送ってくれた相手へ、模型の入口の人ができたら見たい、と返した。その返事はまだ来ていなかった。
もう一度送ろうとする指を止め、僕は別の連絡先を開いた。
ひよりさん。
土曜、十四時。図書館で、そのあと何か食べる。
そこまでは決まっていて、どの入口で会うのかを、まだ相談していない。
『土曜日、駅側の入口で待ち合わせにしませんか。中で探すより、会いやすそうなので』
送信する前に、文を読み直す。
会いやすい、は本当だ。けれど、図書館の中で待つと、自分だけ先に本を探し始めてしまいそうだとも思った。
僕は続けて、一行足した。
『一緒に入れる所から、にしたいです』
文の方が、顔より先に照れることもある。
送ってから携帯を伏せ、僕は椅子を机の下へ戻した。
*
返事は、店へ着く少し前に来た。
『駅側、分かりました。一緒に入る所から、ですね』
続けて、もう一通。
『今日、お店へ寄ってもいいですか。帰る前に、土曜日のことを少し相談したいです』
僕は歩道の端へ寄ってから、返事をした。携帯を見たまま人の流れの中へ立ち止まらないようにする。
店にいる時間と、話せる時間は同じではない。
今日、自分が任された仕事を確認してから返したい。そう思い、まず、着いてから連絡する、と送った。
急いで会いたいと答える代わりに、店の事情へ隠れるつもりはなかった。
だから、もう一行。
『僕も、話したいです。話せる時間が分かったら、すぐ送ります』
送ったあと、店の扉が見えた。
カウンターの内側は、まだ昼の温かさが残っていた。
僕は鞄を置き、上着を脱いだ。空いた卓の皿を下げ、布で拭く。
四つの椅子を戻すと、入口側の一つだけ、床の目地へ脚が掛かった。少しずらす。
人を待つ場所は、写真の中では、いつもきれいに収まる。
実際には、椅子を引く人がいて、その後ろを通る人がいて、飲み終わった杯を返しに行く手がある。
千夏が模型の入口へ置こうとしていた人の向きを、ふと思い出した。
僕は布を洗い、ひよりさんへ、夕方の仕事が落ち着いたあとに話せる時間を送った。
*
ひよりさんが入って来た時、僕はまだカウンターの中にいた。
彼女は入口で僕を見つけ、挨拶の口を少し開いてから、指先だけを上げた。
今すぐ話し始めなくていい、という合図だった。
肩のそばの髪を耳へ掛け、空いている席へ向かう。椅子を引く前に、鞄を置く所を確かめていた。
僕は顔を上げ、軽く会釈した。
それだけのやり取りで、来てくれた、と、ちゃんと思えた。
自分の手の空く時間になってから、僕は彼女の卓へ行った。
「お待たせしました」
「いえ。待つ場所、今日は分かっていましたから」
ひよりさんが少し笑い、向かいを示す。
僕は腰を下ろした。
「何か、地図を出した方がいいですか」
言ってから、すぐ道順の説明へ逃げたのが分かった。
ひよりさんは、携帯を卓へ置かずに答えた。
「入口の場所は分かります。私、そちらで待ちますね」
「はい」
「湊さんが迷ったら、私の方から探しに行きます」
「それだと、僕が待ち合わせ場所を提案した意味が」
「ありますよ。探しに行ける方が、決まりました」
真面目な顔のまま言われ、僕は笑った。
ひよりさんも笑い、膝の上へ置いた手を少し緩めた。
「土曜日のこと、一つだけ、先にお願いしてもいいですか」
彼女の声が、冗談より少し小さくなった。
「はい」
「図書館へ入ってから、しばらく、写真を撮らない時間にしたいです」
僕は返事をする前に、携帯へ目を落としかけた。
何か、僕が撮った写真で嫌な思いをさせたのだろうか。
そう考えたのが顔に出たらしく、ひよりさんは首を振った。
「写真が嫌になった、ではないです。ただ、私が本を選ぶ所を、撮ってもらうことばかり考えると、何を読みたかったかまで、分からなくなりそうで」
「僕が、先にカメラを向けると思いましたか」
「湊さんが、必ずそうするとは思っていません。でも、私の方が、撮ってほしい顔をするかもしれません」
彼女は自分の杯を見た。
「その前に、ちゃんと本を見たい。今日は、それを言いに来ました」
*
僕は彼女の言葉を、頭の中で一度、順番通りに置いた。
撮りたい人がいて、撮ってほしい人がいる。その二人なら、何も困らないと思いかけていた。
けれど、撮ってほしい気持ちのせいで、自分の選びたい物が後ろへ下がる時もある。
「分かりました。先に、撮らない時間にしましょう」
答えると、ひよりさんは頷いた。
僕の口から、カメラを持って行かない、と出そうになった。
それなら彼女は安心するかもしれない。だが、それは、彼女が今頼んだことより広い。
僕自身が、土曜に何をしたいのかまで、相手へ合わせる形で先に消してしまう。
「そのあとで、僕からも、一つ頼んでいいですか」
ひよりさんが顔を上げた。
「はい」
「帰る前に、どこかで一枚、撮りたいです。ひよりさんを」
言い終わってから、僕は自分の指が膝の布を摘んでいるのに気づいた。
景色を、と言えば、もっと楽だった。
図書館の記録を、と言えば、相手の顔を見ずに済んだ。
「本を選んでいる所でなくても?」
ひよりさんが訊く。
「はい。一緒に歩いたあとで、僕が、撮りたいと思った所で。でも、今、そこで待ってくださいって決めるのではなくて、その時に、もう一度頼みたい」
彼女はすぐには答えなかった。
店の奥から、皿を重ねる小さな音がする。
僕は、いいですよね、と続きを足さずに待った。
「今の、少し、嬉しかったです」
彼女が言った。
僕は返事の代わりに顔を上げ、それから、はい、と言ってしまった。
ひよりさんの口元が緩む。
「はい、なんですね」
「違う返事を、考えていたんですけど」
「では、その時に、もう一回、聞いてください。私も、その日の顔で返事をしたいです」
彼女は、今日のうちに、土曜日の自分の笑顔まで約束しなかった。
僕もそれを、断られた方へ数える必要はなかった。
*
ひよりさんが携帯を取り出した。
開いたのは地図ではなく、図書館の案内だった。
「見たい棚が、二つあるんです。でも、最初から全部、付き合ってもらうつもりではなくて」
「僕の見たい棚も、言っていいですか」
「もちろん。そのために、一緒に入る所から、ですよね」
画面の向きが、二人の間へ変わる。
僕は、自分の探したい写真の本がある辺りを指した。ひよりさんは、その位置から、自分が先に見たい場所へ指を戻す。
同じ棚ではなかった。
だから、ずっと同じ物を手に取って隣へ立つ予定にもならない。
「一度、ここで合流するのはどうでしょう。先に見つけた方が、ずっと相手の通路を覗いて待たずに済むように」
僕が言うと、彼女は画面を見て頷いた。
「その椅子なら、私も分かります。でも、座れなかったら、近くで立って探すより、連絡にしましょう」
「はい。入口とは別に、途中も、一つ」
「途中で迷ったら、また私が探しに行く?」
「そこは、僕にも一回くらい」
彼女が笑った。
計画が決まるほど、失敗できない日のように思っていた。けれど、一緒に迷う時の返事まで話せると、土曜日の道が少し広くなる。
食事の店は、その場で一軒へ決めなかった。
予算と、食べられない物がないかを確かめ、図書館を出る頃の空腹で選ぶことにする。
僕が、詳しく調べてから候補を全部送ります、と言いかけると、ひよりさんが先に手を上げた。
「二つくらいなら、見るのが楽しみです。十個来たら、宿題みたいな顔になるかもしれません」
「二つにします」
「私も、一つ探しておきます。全部、案内してもらう方へ乗らないで」
僕は頷いた。
誘ったのだから、相手が困らないように全部決めたい。その気持ちはある。
同時に、何を選ぶかを彼女と話したくて誘ったのだと、今、分かりやすく戻って来た。
*
卓を離れる前に、ひよりさんは、携帯をしまった。
「今日、もう一つ、聞きかけたんです」
「何を?」
「土曜日のこと、誰かに話しましたか、って」
僕は彼女を見た。
さっきまで、図書館の入口と棚と店の話をしていた。そこから急に、誰がその予定を知っているかへ目が向く。
「千夏に、話しました。土曜は、ひよりさんと二人で図書館へ行く、と」
隠すつもりはなかった。それでも、彼女の目を見る時に、言葉が一つ遅れた。
ひよりさんは、小さく頷いた。
「分かりました」
それだけでよかったのか、僕には、まだ分からない。
「同盟の皆へ、連絡しますか」
訊くと、彼女は少し驚いた顔をした。
「いえ。土曜日の話を、今、皆さんの相談へ持って行きたいわけではないです」
「すみません。僕、順番を、間違えました」
「謝ってほしかった、でもないですよ」
彼女は杯の脇へ指を置き、僕へ向けたまま続けた。
「今、二人で決めていることがある、って、分かっていたかったんだと思います」
僕は頷いた。
土曜日、十四時。二人で図書館へ入る。
その約束だけを言うなら簡単だった。けれど、今、その約束の外へある人たちを、全部、いなかったことへする答えは違う。
「千夏に、話した時、僕も、何もない予定みたいには言いたくなかったです」
「何もない?」
「講義が一緒だから会うとか、頼まれた写真を撮るから会うとか。そういう用事だけではなくて、僕が、ひよりさんと行きたいから誘った、と」
口へ出すと、僕の方が先に熱くなった。
彼女は、しばらく、杯を見たままだった。
それから、僕の顔へ目を戻した。
「では、私も、そのつもりで行きます」
言葉を一つずつ置くような声だった。
僕は、ありがとうございます、を言いかけた。
礼を受け取る場面だけにしてしまうと、自分が今頼んだことから、少し離れる気がした。
「楽しみにしています」
そちらを言うと、彼女は頷き、私も、と答えた。
*
ひよりさんを見送ったあと、僕は使った卓へ戻った。
携帯を忘れていないかだけを見て、椅子を引く。彼女が座っていた場所からは、入口のガラスへ店の灯りが少し映っていた。
撮りたい、と、思った。
人のいない椅子を撮れば、今の会話を思い出せるかもしれない。
僕は鞄の方へ手を伸ばさず、布を取った。
今日、ひよりさんが、撮らない時間を頼んだことを、今すぐ自分の作品の題材へ変えたくはなかった。
卓を拭き、椅子を戻す。
向かい合っていた二つの席が、また、次に来る人のための場所になった。そのことが、さっきの時間を消すようには思えなかった。
土曜日のことを訊かれた時、僕は一度、皆へ話を広げようとした。誰にでも分かる予定へ直せば、自分も安心できると思ったのかもしれない。
けれど、ひよりさんが言いに来てくれたことは、皆の賛成を集めるための提案ではなかった。
僕は卓の端に残った水滴を拭った。
相手の返事を聞く前に、気の利いた答えを用意しなくてよかった。撮りたい、と言うまでの少し長い間も、今日は、二人で座っていた時間へ残っている。
仕事へ戻る自分の手は、さっき話していた時より、少し落ち着いていた。
帰る支度の時、携帯へ短い文が届いた。
『土曜日、十四時。駅側の入口で。先に、手に取りたい本を一冊ずつ見つけましょう』
ひよりさんからだった。
僕は、分かりました、と返し、そのあとへ、自分で一行を足した。
『写真の一枚は、そのあとで、もう一度お願いします』
返事が来る前に、携帯を鞄へ入れた。
まだ撮っていない写真へ、今日のうちから笑顔を用意してもらわなくていい。
同盟が解散したわけでも、誰かと恋人になったわけでもない。
それでも、二人で行く一日を、ただの用事へ戻さない約束が、鞄の中へ一つ、残った。




