その一枚を、撮った人へ
【人物のおさらい】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を撮り、自分の冊子を作っている。
・千夏:湊の幼なじみ。自分の建築課題の模型を作っている。
・ひより:文章と編集が好きな、失恋同盟の仲間。
千夏からの返事は、模型の入口だった。
火曜の夜、家へ戻った僕の携帯に、白い小さな人影が届いた。建物の中へ真っ直ぐ進む人と、扉の横で足を止めた人。前に見せてもらった時には、そこへ人はいなかった。
『一人、入口で迷わせた』
添えられた文を読み、僕は画面を大きくした。
迷った人は、壁を向いているのではない。中の様子を少し見るように、肩を斜めへ向けていた。
僕は、前に千夏が撮って送ってくれた、自分の横顔を開いた。
窓を見る僕と、入口を見る紙の人。
同じではないのに、どちらにも、まだ動き始めていない時間があった。
『その人、入る前から、居場所がある感じがする』
そう返すと、少しして、次の文が来た。
『明日、実物見る? 画面だと、奥の椅子が潰れる』
僕は水曜の講義を確認し、空いている時間を返した。
土曜日の予定の相談とは違う。今日は千夏が、自分の作った物を見せたいと誘ってくれたのだと、先に思った。
鞄へ携帯を入れかけて、一つだけ訊いた。
『撮ってもいい? 人物を置いた所だけでなく、千夏が触っている所も』
送ったあと、少し待つ。
『実物見てから決めて。今は、指が糊』
僕は笑い、明日見る、と返した。
*
水曜の昼過ぎ、大学の建物の間を風が抜けていた。
約束した場所へ行くと、千夏は模型を入れた箱へ片手を添えて立っていた。
顎の辺りで切った栗色の髪が、頬へ掛かる。彼女は首を傾けて払い、僕を見る。
「遅れてないよ。私が、持って出るの早かった」
「何も言ってないのに」
「その、時計を見る手」
僕は手首から目を上げた。
いつものやり取りだ。だからといって、昨日送ってもらった写真まで、いつものことの中へ戻す必要はなかった。
「箱、持つ?」
「こっち、下だけ。蓋を持たないで」
彼女が示した側へ手を入れる。
思ったより軽い。けれど、軽いから片手で振ってよい物ではない。中には、昨日まで千夏が時間を掛けた小さな角と、まだ乾き切っていない面がある。
二人で、風の直接当たらない窓際の机へ運んだ。
蓋を外すと、紙と、切った板の匂いがした。
画面では白く一つに見えた入口に、細い影がある。
千夏は箱から出す前に、僕へ自分の鞄を少し退けるよう頼んだ。
「ここに置く。人の来る側、そっち」
「僕が、来る人?」
「今は。中を知ってる顔で、奥から覗かないで」
僕は模型の入口へ向き直った。
千夏は、それを見てから、机へ模型を載せた。
*
入口の人は、写真より小さかった。
扉の横にある空間へ、肩を斜めに置いている。
奥には、背の低い椅子が一つある。その椅子へ座る人から、入口が全部見えるわけではなかった。
「ここ、顔を上げると、誰か来たって分かる?」
僕が訊くと、千夏はすぐ答えず、模型を少し回した。
「上げれば。でも、見てなきゃいけない椅子にはしたくない」
「入口を見張る人、になるから?」
「うん。休みに来た人が、次の人の受付までやる場所だと、疲れるでしょ」
彼女は椅子の向きを指した。
前に僕が、店の入口の写真へ写した席を思い出す。人がいない時には、椅子がどこを向いていても、きれいな形に見えることがあった。
座る人は、線の続きではない。
僕は、入口に立つ紙の人を見直した。
「この人、まだ入るって決めてなくても、ここへいていいんだね」
千夏が僕を見る。
「そう見えた?」
「うん。邪魔になってないし、ここで見てから、やめてもいい」
彼女は模型へ目を戻し、少しだけ息を吐いた。
「そこ、昨日から動かしてた」
嬉しそうなのを隠すより先に、自分の指で、人影の台を軽く押さえた。
僕はしゃがみ、机へ目の高さを近づけた。
低くすると、窓の影が変わる。入口の向こうの通路が、写真で見たより細くなった。
「ここ、奥へ行く人と、待つ人が、重なる?」
「今の角度だと、そう見える。上から見ると、空いてるんだけど」
千夏も反対側へ屈み、僕の指す所を確かめる。
彼女は、そのまま人影を剥がそうとはしなかった。
「どっちの肩が、先にぶつかりそう?」
僕は、来る人の向きと、椅子に座った人の足元を見た。
「待つ方。鞄を持ってると、こっちへ出る」
千夏は頷き、別の紙へ線を引いた。
見せた物を褒めてもらうためだけの時間ではない。僕も、千夏の作った所に、分からないまま目を置いていい。
そのことが、前より少し、嬉しかった。
*
窓へ雲の影が掛かり、模型の白が暗くなった。
千夏は顔を上げ、携帯の時計を見た。
「あと、二十分くらい。次の講義へ、戻らないと」
「うん。撮るなら、今、頼んでいい?」
僕が訊くと、彼女は自分の指を見る。
爪の脇に、小さい紙の欠片が付いていた。
「昨日の糊は、落ちた。こっちは、今日の紙」
「そっちも、写したい」
「頑張った証拠、みたいなやつ?」
その言い方は、少しだけ尖っていた。
僕はカメラへ手を伸ばす前に、彼女を見る。
「違う。今、人の向きを変えようとしていた、手の方。苦労してる顔にしたいわけじゃなくて」
千夏は黙り、模型へ目を落とした。
僕は続きを急がなかった。
彼女が、撮っていい物を全部、僕へ説明し切らなければならないわけでもない。
「じゃあ、紙の人、今は剥がさない。動かすなら、横の案を持つ方」
千夏が言った。
「そこでも、撮りたい?」
「うん」
「なら、一枚。机のこっち、私の名前の札が裏返ってるから、それ、先に」
彼女は自分の札を表へ向けた。
模型だけが、どこかから現れた物になる写真ではなく、自分が作っている途中として、見せたいらしかった。
僕は頷き、窓の方へ少し寄った。
千夏の指が、人物の別案を持ち上げる。
白い紙の輪郭の後ろへ、彼女の袖と、作業をしていた手が入った。
撮る前に、僕は一度、目だけで見た。
僕は一度、立つ位置を変えた。
千夏の手だけへ近づけば、作っている物の名前が見えなくなる。模型全体を入れようと下がれば、彼女の指が、白い面の端へ小さく潰れる。
両方を全部、きれいに見せる写真ではなくていい。今日は、どちらへ目を置くかを、自分で選びたかった。
「このくらい、近い。袖の所まで入る」
声を掛けると、千夏は画面を覗かず、今の場所で頷いた。
「うん。私、そのまま持ってる」
僕は息を吐いた。相手を動かして画面へ合わせる前に、自分が立つ所で変えられることがあった。
シャッターの音が、一つ鳴った。
千夏はすぐに手を下ろさなかった。
「もう、いい?」
「うん。今の、一枚」
彼女は紙を机へ戻し、僕の側へ回った。
画面を二人の間へ向ける。
千夏は最初に、自分の顔ではなく、模型の奥の椅子を見た。
「ここ、ちゃんと残ってる」
「入口の人だけ、切り取らない方にしたかった」
「うん。これ、私も欲しい」
僕は顔を上げた。
上手に撮れたと言われるより、その言葉の方が、身体へ先に入ってきた。
「送る。今日の、見てもらってから」
「今、見た」
「そうだった」
彼女が笑い、僕も笑った。
撮った一枚を、次の仕事の道具として、彼女が持って帰る。その行き先まで、写真の中へ小さく写った気がした。
*
写真を送ったあと、千夏は別の画面を開いた。
僕が窓を見ている、あの横顔だった。
「こっちも、一つ、訊いていい?」
「うん」
「これ、送ったあと、ずっと見てる?」
僕は返事を一瞬、間違えそうになった。
何度も見た、と言えば、何かを期待させるのではないか。逆に、少しだけ、と小さくしたら、自分が見返した時間まで嘘になる。
「何度か。自分が、あんな顔してたって、知らなかったから」
僕は答えた。
「撮ってる人の方は、分からなかった」
「撮ってる人?」
「その時、千夏が、何を見てたか」
彼女は画面を伏せかけ、机の端で止めた。
模型の人影から、話が急に、僕たち自身の方へ戻ってきた。
僕は、入口の写真が欲しかったのか、と理由を先に付けなかった。
「入口の前にいる人、って見てた」
千夏が言う。
「でも、誰でもよかったわけじゃない」
僕は顔を上げた。
彼女は窓へ目を向けたまま、続ける。
「湊が、私の模型を見てる時、すぐ、いいねって言わないで、あそこ、誰が使うのって考えてたから。あの顔、残したかった」
「僕、返事、遅かった?」
「うん。いつもは、もうちょっと早く、こっちに合う言い方する」
僕は言葉を止めた。
褒められた話だけではない。それでも、責められた方へ先に畳みたくなかった。
千夏が画面へ視線を戻す。
「私、あの時、もう一回、こっちを向いてって言いかけた。でも、向いてない方が、見たかったんだと思う」
彼女の声は、いつもの段取りを決める時より、少し遅かった。
僕は、ありがとう、と言った。
そのあとへ、模型の話を急いで足さずにいられた。
*
片付ける時間になり、僕たちは模型の四隅を見た。
紙の人は、元の場所へ残っている。
今日変えたのは、横の案と、次に直す通路の線だけだった。
千夏は蓋を持つ前に、僕へ顔を向けた。
「土曜は、十四時だっけ」
「うん。ひよりさんと、駅側の入口」
僕は、その名を省かなかった。
千夏は頷き、蓋の角を合わせる。
「じゃあ、今週、見せるなら今日でよかった」
その声が、平気だったかどうかを、僕は決められない。
顔に出ていないことまで、写真みたいに読み取れたつもりにはなりたくなかった。
「別の日にしてって、言われたら、相談したよ」
言うと、彼女は一度、僕を見た。
「それは、今日、言わない。私が、今日見てって言ったから」
「うん」
「でも、写真は、私が渡したかった。それは、ついでじゃない」
僕は箱を持つ手を止め、彼女へ向き直った。
「うん。受け取った」
千夏は少し眉を寄せた。
「荷物の受取みたい」
「じゃあ、見て、嬉しかった。ちょっと、落ち着かなかったけど」
彼女の口元が、ようやく緩んだ。
「そっちの方が、湊の返事だと思う」
*
廊下へ出ると、午後の講義へ向かう人の流れがあった。
僕たちは、箱を持ったまま、その真ん中へ入らず脇を歩いた。
紙の人を置いた小さな入口から、実際の建物の入口へ戻って来る。
千夏は階段の前で止まり、ここからは一人で持つ、と言った。
僕は底を支えていた手を、彼女が持ち直すまで残した。
「次、どうなったか、また見たい」
自分から言うと、彼女は箱へ目を落とした。
「次も、褒めるだけじゃ、駄目だよ」
「今日、そんなに褒めなかった気がする」
「うん。そこが、よかった」
彼女は少し笑って、階段へ向かった。
僕は窓際の机へ戻り、忘れ物がないかを見た。
模型のあった所に、細い紙の欠片が一つ残っている。
それを拾い、捨てる場所へ持って行った。
形にして残すことと、片付けて次の人へ渡すこと。その両方を、今日の写真の外へ置かずにいられたらと思った。
鞄の中には、二枚の写真がある。
千夏が僕を見て撮った一枚と、僕が千夏の作る手を撮った一枚。
どちらか一つを選ばなければ、同じ携帯へ置けないわけではない。
けれど、写真を二枚持っていることが、誰かの気持ちへ二つ返事をしたことにもならない。
土曜にひよりさんと行きたいのは、本当だった。
千夏の写真が嬉しかったことも、今日、模型を見る時間を取りたかったことも、本当だった。
その二つを、どちらも何でもないことへ薄めるのが、誠実さではないのだと思う。
次の講義の前に、千夏から短い文が届いた。
『今日の写真、作業の記録へ入れる。撮影、朝倉湊って付けていい?』
僕は、いいよ、と返した。
続けて、僕の横顔の方も、撮った人の名を忘れずに持っていたい、と書きかけた。
少し考え、文を短くした。
『こっちの一枚も、相原千夏が撮った写真として、持っておく』
送ってから、僕は携帯を伏せた。
窓へ向いていた自分の顔を、もう一度作ってみる必要はない。
今日は、その写真を撮った人へ、こっちを向いて返事ができた。




