レンズの前で、笑わないで待って
【人物のおさらい】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を撮り、自分の冊子を作っている。
・千夏:湊の幼なじみ。自分の建築課題の模型を作っている。
・ひより:文章と編集が好きな、失恋同盟の仲間。
火曜の昼、千夏から届いたのは、入口の写真だった。
人のいない、小さな模型の入口。
日曜に凪待ちへ持って来た時より、庇の影が短くなっていた。添えられた文は、直した、の三文字だけだった。
僕は講義室を出てから画像を拡大し、前に撮った方を開いた。
壁の間が少し広い。
自分が通れそうだ、と感じる前に、画面の端へ千夏の指が写っているのに気づく。模型だと分かっていても、その大きさの差へ少し驚いた。
『こっちからだと、前より奥が見える』
そう返すと、すぐに電話が来た。
「いま、空いてる?」
「昼を食べる前」
「じゃあ、食べたあと、二十分だけ。湊、写真に入って」
「模型の?」
「そのままじゃ無理。入口につける人の形、作りたいの」
彼女は早口で言い、それから少し声を落とした。
「こないだ、帰る時の光って話してたでしょ。立ってる人を置くなら、どういう姿かなって。今の紙の人、みんな、まっすぐすぎる」
僕は廊下の窓を見た。
雨は上がっている。昨日の凪待ちの床にあった濡れた光とは違う、白い昼の光だった。
「いいよ。僕で、できるなら」
「できるかは、撮ってみてから。一時二十分、渡り廊下の手前ね」
通話が切れた。
僕は携帯を下ろし、少し遅れて、自分が撮られる側へ返事をしたことを思い出した。
*
千夏は、約束の場所で、小さな紙袋を机へ置いていた。
中に模型がある。全部を外で運ぶのではなく、人を置きたい部分だけ持って来たという。
栗色の、顎までの髪が、顔を上げる拍子に揺れた。
「遅れてない」
最初にそう言われ、僕は時計を見た。
「まだ二分ある」
「うん。私が早かっただけ」
彼女は携帯を手に取り、僕の鞄を見る。
「そのまま背負ってて。そこ、入口の横に立つ人」
「ここ?」
「もう一歩、外。通る人の邪魔にならない方」
僕は言われた所へ立った。
模型の入口へ自分を入れると聞いた時には、もっと正面で、証明写真みたいな姿を想像していた。千夏の画面は、僕の斜め横へ向いている。
「何を見ればいい?」
「向こう。帰る人が、誰かを待ってる感じ」
「どのくらい待ってる?」
千夏は携帯から顔を上げた。
「そこから決める?」
「少し待ってる人と、結構待ってる人、違いそうだから」
彼女は一度、口を開きかけた。
それから、携帯を下ろす。
「じゃあ、相手は、来るって分かってる」
「うん」
「遅刻してるわけでもない。先に着いた方」
僕は廊下の向こうを見た。
来ると分かっている誰かを待つ。昨日、土曜の入口の場所を決めた時の、自分の携帯の画面を思い出す。
笑って、と言われていないのに、少し口元が動いた。
「笑わなくていい」
千夏が言った。
僕は慌てて口を戻した。
「いま、笑ってた?」
「うん。撮られるって分かった顔」
「たぶん、ちょっと違う」
言ってから、説明する言葉に困る。
千夏は画面を見ていた。僕の続きを待ち切らずに次の指示を出す人なのに、今は少し止まっている。
「じゃあ、一回、何も撮らない。私、立つ場所を見てるから」
彼女は携帯を胸の前へ下ろした。
僕も、鞄の肩紐から指を離す。
その瞬間、肩が楽になった。
撮られているかどうかを確かめるより先に、廊下の先から来る靴音を聞けた。
*
千夏が、僕の一つ向こうへ立った。
普段、僕に場所を教える時より、少しゆっくりした足だった。
「ここだと、帰る人、見えない?」
「角の向こうは、見えない。足音は、聞こえる」
「じゃあ、顔、そっちへ向く?」
「音がしたら」
彼女は頷き、模型の袋へ目をやった。
僕が撮る時には、入口の明るさと、奥へ続く線を探していた。千夏は、そこへ立つ人の、顔の向く理由を探している。
同じ入口を見ていても、欲しい一枚は同じではなかった。
「紙の人、前を向かせすぎた」
千夏は呟いた。
「それが悪いって、分かったわけじゃないけど。みんな揃って、入口の説明を聞いてるみたいになってた」
「自分で、どこへ行きたいかは、分からない?」
「うん。建物を見せるために置いた、って感じ」
彼女は机の上へ紙を出した。
細長い人の形が、幾つも描かれている。写真を切り抜いてそのまま貼るのではなく、姿勢を見て、自分の模型へ合う形に作るつもりだという。
湊をそのまま縮めて置くわけじゃないから、と言われ、僕は少し安心し、少しだけ残念になった。
「僕だって、分からなくなる?」
「模型の人の名前は、湊にしない。でも、元は分かる。私には」
最後の三文字だけ、少し小さい。
僕は紙から顔を上げた。
千夏は携帯の画面を点け、もう一度僕を立たせる方へ戻っていた。
今度は、鞄を片方の肩へ掛けることになった。
長く待つつもりではない人。けれど、すぐに歩き出す人でもない。
姿勢を言葉にすると、急に難しくなる。
僕は肘を曲げ、彼女を見た。
「これ、さっきより、不自然じゃない?」
「うん。いま、すごく、指示通りに立ってる」
「指示、したから」
「そう。私が悪い方」
千夏が笑った。
いつもの応酬が一つ戻ると、僕も笑えた。彼女はその顔を撮りかけ、やめる。
「違う?」
「これは、私に文句言ってる湊。待つ人じゃない」
「それは、よく撮れそう」
「何年見てると思ってるの」
そう返す時の声は、迷っていなかった。
*
僕たちは、撮る場所を少し変えた。
入口の真正面ではなく、横の低い窓が見える所。通行の邪魔にならず、誰かが来ると、影が先に床へ伸びる。
千夏は模型を見てから、窓へ目を上げた。
「模型、そのまま再現して撮りたいわけじゃないの」
「うん。人の方を、見たい?」
「うん。湊、ちょっと、私の方見ないで待ってて」
彼女がカメラを構えた。
僕は窓の方へ顔を向けた。外の木から、水が一滴、落ちる。
その音のあと、別の講義室の扉が閉まった。
まだ来ない人を想像しようとしたが、今は千夏がそこにいる。画面を見て、眉を寄せたり、肩を少し傾けたりしている気配が分かった。
僕は、待たされているとは思わなかった。
彼女が自分の一枚を選べるまで、ここにいたいと思った。
携帯の、小さな撮影音がした。
一度だけではなく、間を空けて、もう一度。
千夏が、いい、と言うまで、僕は振り向かなかった。
「撮れた?」
尋ねると、彼女は頷いた。
「うん。でも、一緒に見て。私だけで、いいって決めない」
僕は窓から離れ、隣へ立った。
画面の中の自分は、思っていたより肩が下がっていた。窓の外を見る顔は、普段、僕が鏡で作る表情ではない。
何かを言う直前でもなく、言い終えた笑顔でもない。
横へ掛けた鞄の紐へ、指が一つだけ触れている。
「これ、僕、こんなふうに立ってる?」
「立ってた。さっきより、肩の力が抜けてる。こっちの方が、湊っぽい」
千夏は答え、次の写真へ動かした。
二枚目では、僕の顔が少し画面の外へ切れていた。
「これは、使わない。姿勢の端、足りなかった」
「一枚目は?」
「使いたい。人の形を作る時の、参照に。提出する所へ、この写真そのものは出さない」
僕は画面をもう一度見た。
「いいよ。一枚目なら」
彼女の親指が止まり、それから、写真へ印を付けた。
*
約束の二十分の終わりに、千夏は模型の入口へ、紙の人を一つ置いた。
まだ切り直していない、真っ直ぐの人だ。
それを正面から少し斜めへ回す。顔が向く先に、入口の外ができた。
「あ。違う」
彼女の声が弾んだ。
僕にも、さっきと違って見える。人が建物へ入るためだけでなく、誰かを迎えたり、待ったりする所が、入口に増えた。
ただの向きの違いだと言えば、その通りだ。
けれど、その向きを選ぶまでに、僕たちは模型の外で、一度、本当に立ってみた。
「次は、ここを少し空ける。荷物の人、壁へ近すぎる」
千夏が紙へ印を付けた。
「今日、直す?」
「うん。午後、作業する時間ある。湊をあと一時間、立たせる方じゃなくて」
「よかった。昼のあとでも、足は疲れる」
「分かった。モデル代、今の所、私のありがとうで」
彼女は笑い、少しだけ頭を下げた。
僕も、どういたしまして、と返した。
仕事の依頼や正式な撮影契約へ急に変わった時間ではない。それでも、頼まれたから立っていた、とだけ片付けるには、僕も嬉しかった。
写真を撮る側へ戻らなくても、千夏の作りたい物に、今日は自分の居る場所ができた。
紙袋を畳む時、彼女の肘が机の角へ当たった。
軽い音がして、模型の紙が少し浮く。
僕は手を出しかけたが、千夏が自分で底を押さえた。
「大丈夫。そこ、持てる」
「うん」
僕が手を引くと、彼女は一度こちらを見た。
前なら、もう全部抱えてもらって、文句を言っていたかもしれない。僕も、手伝える場所が見えたら、先に全部持とうとしていた。
今日は、彼女が何を持ちたいかを、一拍だけ待てた。
*
渡り廊下を戻る途中で、千夏が訊いた。
「土曜、空いてる?」
僕の足が、少し遅くなった。
彼女は自分の紙袋を見たまま続ける。
「直したの、もう一回撮ってほしいかも。まだ時間、決めてないけど」
「土曜の午後は、予定がある」
「そっか。じゃ、別の日」
返事は、いつもの速さだった。
僕はそのまま、用事のある人として歩けた。
けれど、ひよりさんと話した、隠すことにはしたくない、という言葉が、足元へ残った。
「ひよりさんと、図書館へ行く」
自分から言うと、千夏が顔を上げた。
「二人?」
「うん。そのあと、何か食べる」
彼女は、そう、と答えた。
さっきまで紙袋へ添えていた指が、一度、持ち手へ移る。目が、廊下の向こうへ向いた。
怒った、と決めるほどの表情ではない。
何も思っていない、と都合よく決めていい顔でもなかった。
「じゃあ、模型の用事、そこに入れない方がいいね」
千夏が言った。
「別の日に、撮るのは、できる」
「うん。それは、模型ができてから頼む。今日、直るって先に言わないでおく」
彼女は紙袋を少し持ち上げ、笑った。
その笑顔を、いつもの調子に戻った証拠として受け取ってしまうのが、今の僕にはいちばん楽だった。
僕は、楽な方へ全部を置かず、でも、何を思ったのかをその場で問い詰めもしなかった。
「今日の写真、見せてくれて、嬉しかった」
「撮られた方の感想?」
「うん。僕、自分の横顔、あまり知らなかったから」
千夏は少し黙り、頷いた。
「私も、今日、撮ってから分かった」
それが何を指すのか、彼女は言葉を足さなかった。
*
分かれる前、千夏は模型の底をもう一度見た。
紙の人が、運ぶ間に倒れている。
「こいつ、待つのやめた」
「先に帰っちゃった?」
「今から、戻す。接着は、向こうで」
彼女は人の形を別の小袋へ入れた。今日撮れたからといって、模型の全部まで完成したふりをしない。その手の遅さを、僕はもう、迷っているだけとは思わなかった。
分かれ道で、僕は講義のある棟へ向いた。
千夏は紙袋を持ったまま、反対側へ行く。
「写真、一枚、送る」
呼ばれ、僕は振り向いた。
「さっきの?」
「うん。人に見せるのは、私に一回聞いて。模型の方も、私の課題だから」
「分かった。僕の冊子へも、勝手に入れない」
「そこまで言ってない。でも、先に聞いて」
少しだけ、いつもの応酬になった。
僕は頷き、彼女も今度は自分の進む方へ顔を戻した。
教室へ着く頃、携帯へ写真が一枚届いた。
窓の外を見ている僕。
千夏からの文は、これ、だった。
模型を直したという朝の三文字より、もっと短い。
僕は、ありがとう、と返したあと、少し考えた。
『入口の人、できたら見たい』
頼まれている次の撮影のためだけでなく、今日一緒に立って考えた場所が、彼女の手でどう変わるか知りたかった。
返事は、すぐには来なかった。
僕は携帯を鞄へしまい、机の上へ講義のノートを出した。
相手の返事を待つ時間を、自分の不安で全部埋めなくても、一日は続く。
土曜日には、ひよりさんと図書館で会う。
今日撮られた写真には、千夏の見た自分がいる。
どちらかを、まだ何も起きていないことへ戻して、安心する気にはなれなかった。




