店員じゃない君と、次の土曜日に
【人物のおさらい】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を撮り、自分の冊子を作っている。
・ひより:文章と編集が好きな、失恋同盟の仲間。
・由紀:湊の母。「凪待ち」の店主。
雨が降り出したのは、僕が凪待ちの入口へ傘袋を出した直後だった。
さっきまで中庭で見ていた乾いた葉が、今は靴の底へ一枚、濡れて付いている。僕はそれを取ってから、店の床を見た。
写真へ撮りたい光より先に、拭かなければ滑る所が見えた。
「湊、入口、終わったら二番へお水」
カウンターの中から母が言った。
「うん。先に、こっちだけ」
布を持ったまま立ち上がり、傘の水を受ける位置を少し変えた。
月曜の講義と、ひよりさんに冊子を見てもらった二十分。そのあとの店の時間は、別の顔で始まっていた。
青い冊子は鞄の中だ。右の写真の下へ足したい一行は、仕事を終えてから書くつもりでいた。
ベルが鳴った。
僕は水のグラスを盆へ載せながら、入口へ顔を上げた。
ひよりさんが、傘を閉じている。
中庭で別れた時と同じ紙袋を、今は胸へ抱えていた。濡れないように腕の内側へ寄せたらしい。
「いらっしゃいませ」
僕の声が、いつもの店の声で出た。
彼女は少し笑う。
「こんにちは。お客さん、一人です」
「はい。……あ、こちらへ」
言い直す必要のない所で言い直してしまい、僕は盆を持った手を少しだけ上げ直した。
彼女が入って来たから、仕事がなくなるのではない。二番へ水を置き、空いている席を確かめてから、入口へ戻った。
ひよりさんが座ったのは、窓際ではなく、その一つ内側の席だった。
窓のそばは、傘立てへ近い。濡れた傘から、紙を離したかったのだという。
「雨宿り、半分です」
彼女が言った。
「もう半分は?」
「ちゃんと注文したい方。あとで聞いてください」
僕は笑い、メニューを置いた。
店員としては、あとで、の前に注文を聞かなければならない。
「何にしますか」
「温かい紅茶と、今日のケーキ。紅茶は、ミルクで」
「はい」
紙袋へ目をやりかけ、注文の方を自分へ戻す。
彼女は大切な続きを持って来てくれたのかもしれない。単に雨から紙を守っているだけかもしれない。その意味を仕事中に急いで聞き出したら、彼女が自分で席を選んだ時間まで、僕の期待へ使ってしまう。
僕は注文を書き、カウンターへ戻った。
*
母がケーキの皿を出し、僕は紅茶の盆を整えた。
レモンを小皿へ置きかけたところで、手が止まる。
違う。
ミルクと言われた。
注文票を見返し、僕は小皿を戻した。カウンターの向こうで母が、僕の手と票を見た。
「温める方?」
「うん。ミルク。僕が、いつもの順で置きかけた」
「じゃあ、冷めないうちに。そっちは今、合ってる」
母は次の皿へ向いた。
恋をしているからだとか、知っている子だからだとか、余計な説明はしなかった。
僕も、自分の失敗を、彼女のせいにする軽口へ変えずに済んだ。
盆を持って席へ行くと、ひよりさんは窓の雨を見ていた。
写真の感想を待っていた時とは違い、僕が見ていない方を見ている。その横顔へ、少しだけ近づきたくなった。
「お待たせしました」
紅茶とミルク、ケーキを置く。
彼女は紙袋を膝から隣へ移した。
「ありがとうございます。忙しそうですね」
「この時間だけ、少し。雨が降ると、帰る前に入る人が増えるので」
「私も、増えた一人です」
ひよりさんが笑った時、奥の席から呼ばれた。
僕は彼女へ、すみません、と言いかけて止めた。
「また、来ます」
「はい。紅茶、先に飲んでます」
当たり前の返事が、ありがたかった。
ここにいる間ずっと僕を待つ人にしてしまわなくても、彼女は自分の紅茶を楽しめる。
奥の皿を下げ、入口をもう一度拭いた。
椅子の脚が濡れた床を鳴らす。グラスを洗う音と、母が会計をする声が重なる。
ひよりさんの席を通るたび、何か一言、私的な話を足したくなった。
けれど、その一言へ返事をもらう前に、僕はまた仕事へ呼ばれる。
会えているのに、話ができない。
中庭で黙っていた時間には、同じ隣へ座っていた。今は、僕だけが立って、いつ去るかを自分で決めている。
同じ無言でも、ずいぶん違った。
*
雨脚が弱まり、席が少しずつ空き始めた。
ひよりさんの紅茶のポットも、ケーキの皿も、半分ほどになっている。
僕は空いた皿を持ってカウンターへ戻った。
「母さん、六時で替わるんだよね」
「そう。あと十分」
「そのあと、少し、座ってもいい?」
母は時計を見た。
「仕事の続きが残ってなければ。エプロン、外してからね」
「うん」
「湊、その布はこっち。濡れた方を棚へ戻さない」
僕は手元を見て、布を分けた。
席へ座る許可をもらった途端、仕事が終わったつもりになっていた。ひよりさんに会いたい気持ちは、棚の布を乾かしてくれる力ではなかった。
残りの十分を、僕はいつもより丁寧に使った。
エプロンを外した時、入口のベルが鳴った。
ひよりさんが席を立つ音もした。
間に合わなかった、と思った。
彼女は会計へ歩き、母へ代金を渡している。僕が私服の袖を戻しながら顔を出すと、彼女は気づいた。
「お仕事、終わりですか」
「うん。今」
「そう。私、雨が弱くなったので」
ひよりさんは傘を持ち直した。
引き止める理由なら、幾つも言えた。まだ書いた一行を見せていない。紙袋の中身を聞いていない。さっきの続きがある。
でも、僕が今言いたいのは、どれとも少し違った。
「もう少し、話したかったです」
声にすると、母の前だということを遅れて思い出した。
母は釣銭の皿を片付け、奥へ行った。聞かなかったふりを大げさにすることもなく、いつもの仕事を続けている。
ひよりさんが、傘の柄から指を少し離した。
「私も。……半分、そっちで来ました」
「さっきの、もう半分?」
「はい。でも、お店に入ってから、店員さんを一人で独り占めしようとしてたなって、ちょっと思いました」
「僕も、何度も席へ寄ろうとしてました」
「それだと、湊くんの方が困る」
彼女は笑いかけ、途中で口元を緩め直した。
「私、店員じゃない湊くんと、会いたかったんです」
胸の奥が、ひとつ、速く鳴った。
写真を見せる僕でも、紅茶を運ぶ僕でもなく、と勝手に意味を広げたくなる。
けれど、言われた言葉だけで、十分に嬉しかった。
「今、座ってもいいですか。少しだけ」
「そのあと、一緒に入口まで」
彼女の返事へ頷き、僕たちはさっきの席へ戻った。
*
僕の側には、紅茶もケーキもなかった。
自分の飲み物を新しく注文する時間を、今から長く作るつもりはない。ひよりさんも、もう飲み終えたポットを自分のために残さなかった。
皿のなくなった卓へ、二人の手が別々に置かれる。
さっきまで客席を見下ろしていた視線が、同じ高さになった。
「変な感じ」
僕が言うと、彼女は頷いた。
「私も。さっきまで、顔を上げて話してたので」
「もう、おかわりは聞きません」
「それ、ちょっと残念です。ケーキ、おいしかったので」
僕は笑った。
彼女はお店に用事がなかったわけではない。ここへ来た理由を、僕一人へ全部置き直さなくてもよかった。
ひよりさんは紙袋へ目を落とした。
「今日は、これを見せに来た方ではないです」
「僕、ちょっと、期待してました」
「知ってました。注文より紙袋を見たので」
僕は顔を覆いそうになり、やめた。
「ばれてた」
「はい。でも、嫌だった話ではなくて。私も、持ってると、見せたいのかなって自分で迷ったから」
彼女は袋の口を指で閉じた。
「今日は、一緒にケーキを食べたかった。湊くん、お仕事だったので、私だけ先に」
「それ、先に言ってくれたら……いや、言っても、仕事はあった」
自分で止まると、彼女も小さく笑った。
気づいていれば何でもできた、という顔をしない方が、次の話をしやすかった。
「じゃあ、次は、店の外で会いませんか」
僕が言った。
ひよりさんの指が、袋から離れる。
「はい」
「写真を見せる用事ができた時、じゃなくても」
「それなら、私、図書館へ行きたいです。こないだ見た展示の本、探したくて。でも、ずっと別々に棚を見てるかも」
「僕も、本を見たい。あと、帰りに、一緒に何か食べたいです」
その言葉は、写真の説明より、ずっと口へ出しにくかった。
ひよりさんは一度、視線を卓へ下ろした。
「今度は、私が先に食べ終わってる方じゃない」
「うん。一緒に」
彼女が顔を上げた時、冗談を返すまでに、少し間があった。
その間を、僕は、うまく話せなかった失敗とは思わなかった。
*
互いの予定を出すと、今週の土曜の午後が空いていた。
僕は店の手伝いが午前までだと確かめ、ひよりさんは自分の用事が午前に終わると答えた。それ以上の予定表を、交換する話にはしない。
「二時、図書館の入口で」
「雨なら?」
「入口の屋根の下。今日、傘の所で話を始め損ねたので」
「では、今度は座る所まで行ってから」
彼女は携帯へ時刻を入れた。
僕も土曜日の欄へ、ひよりさん、と書く。
五人の予定を合わせた時と違って、名前が一つしか増えない。その少なさが、今は少し怖く、嬉しかった。
立つ時、彼女は紙袋を胸へ抱え直した。
「同盟の皆に、言う?」
訊かれて、僕は彼女を見た。
恋をしたら解散。
あの時、自分たちで置いた言葉が、今日は冗談みたいにすぐには出てこなかった。
図書館へ行く。それだけなら、誰と行ったっていい。
けれど、その言い方だけで今の嬉しさを小さくしておくのも、少し違う気がした。
「隠すことには、したくないです。でも、今ここで、皆の反応を先に考えて話を変えたくもない」
僕が言うと、ひよりさんはゆっくり頷いた。
「私も。誰かに聞かれたら、一緒に行くって言います」
「うん」
「今、解散の連絡を回す話にはしないでくださいね」
最後だけ冗談にした声が、少しだけ揺れた。
僕は笑った。でも、笑ったから、何も考えていないことにはならなかった。
入口へ並んで歩く。
外では、雨が細い粒になっていた。彼女が傘を開く前に、僕は扉を押さえた。
「土曜日までに、もう一頁、できるかな」
口へ出てから、僕は少し困った。
彼女が目を細める。
「宿題にしない方の約束でした」
「覚えてます。できたら、僕が持っていきたいだけ」
「なら、私も、読みたくなったら読みます」
傘の縁へ雨粒が二つ、滑った。
「今日は、来てくれて、嬉しかったです」
僕は、帰る前に言った。
「私も、最後までお客さんのまま帰らなくて、嬉しかった」
ひよりさんが手を上げ、雨の道へ出た。
*
店へ戻ると、母はカウンターを拭いていた。
「傘、忘れてなかった?」
「持って帰った」
「なら、よかった。湊の鞄は、奥。今から椅子を寄せるから」
僕は、さっきひよりさんが座った椅子を卓へ戻した。床に水は残っていない。窓の外には、彼女の傘も、もう見えなかった。
誰かが帰ったあとも、その人が座っていた場所へ、次の客が来る。そこを自分だけの特別な席にしておくことはできない。
だからこそ、店の外で、二人で会う時刻を決めたことが、少しずつ、本当の予定になってきた。
僕は椅子をもう一つ寄せ、母へ、ここは終わった、と声を掛けた。
僕は鞄を取った。母に土曜の午前までの手伝いを確認し直し、午後の用事を入れたと伝える。
「分かった。変更があったら早めにね」
母の返事は、それだけだった。
僕の頬がまだ熱いことまで、店の話題へしなくて済んだ。
部屋で青い冊子を開き、右の写真の下へ、一行を足した。
この朝、床の光を撮りたかった。
ひよりさんからもらった上手な言葉ではなく、今日、自分で言えた方の文だ。
その下に、土曜日、と書きそうになり、やめた。
まだ撮っていない写真まで、今の頁へ先に貼る必要はない。
携帯を開くと、二時、図書館の入口、と彼女から確認が届いていた。
僕は、楽しみにしています、と打った。
店の接客で何度も使ってきた言葉なのに、今は送る前に、少しだけ指が止まる。
それでも、消さずに送った。
写真を見せる理由がなくても、会いたいと思った。
今度の土曜日には、それを用件の陰へ置き忘れずに、彼女のいる入口まで歩いて行きたかった。




