説明より先に、あなたが読んだ一頁
【前回までの人物】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を選び、自分の青い冊子を作っている。
・ひより:文章と編集が好きな失恋同盟の仲間。湊の一頁を、先に一人で読んでみたいと伝えた。
写真を印刷すると、画面の中では気にならなかった影が、紙の上で急に濃くなった。
日曜の夜、僕は店の手伝いを終えてから、近くの店で小さな写真を二枚だけ出した。一枚四十円。財布から八十円を払い、袋へ入れて持ち帰る。
凪待ちの写真を選ぶ仕事の経費ではない。自分の青い冊子へ貼りたい写真だから、自分で払った。
机へ置くと、昨日の展示の窓と、今日の凪待ちの入口が、同じ大きさになっていた。
同じ大きさの写真だからといって、見た時の時間まで揃うわけではない。
僕は糊を塗る前に、二枚の位置を何度も入れ替えた。
ひよりさんは、先に一人で読むと言っていた。
昼にもらったメッセージを開き直して、僕は少し笑った。読む前から説明を始める僕の顔が、もう見えていたのかもしれない。
けれど彼女が見たいのは、説明を全部取り除いて上手にできたものだけではないはずだった。
そう思っても、余白へ書く文章は、つい、写真の中で何が起きたかを埋めようとする。
ここは入口。朝の光。店を開ける前。
間違ってはいない。でも、僕がこの写真を選んだ理由からは、少しずつ離れていく。
ペンを置き、窓の写真を見た。
展示でひよりさんと見た紙の向こうへ、細い影が透けていた。僕の写真には、実物の厚みはあまり写っていない。
それでも、一緒に立って見ていた時間まで失敗にしたくはなかった。
僕は二枚を貼った。
左に、外で見てきた窓。右に、いつも帰る店の入口。
その下へ短く書く。
帰ってきたら、見慣れた入口にも、違う光があった。
昨日と今日を、一つの意味へ無理につなげた気もした。けれど今の僕には、この順番で並べたい理由があった。
迷った所まで、見てもらうことにする。
糊が乾くのを待つ間、僕はひよりさんへ連絡した。
『一頁目、できました。明日、講義のあとに二十分くらい、見てもらえますか』
送ってから、曜日を見た。月曜の彼女の予定を、僕は全部知らない。
少しして届いた返事には、空いている時刻と、中庭の屋根のあるベンチはどうか、と書いてあった。
僕も店へ入るまでの時間を確かめ、そこなら大丈夫です、と返した。
会える約束が決まっただけで、まだ読まれていない一頁が、鞄の中で少し重く感じられた。
*
月曜の中庭には、乾いた葉が集まっていた。
風が吹くたび、掃き寄せられた端から二、三枚だけ戻ってくる。
ひよりさんは、屋根の内側のベンチへ座っていた。持っていた紙袋を膝の横へ寄せ、僕に気づくと片手を上げる。
「本、逃げませんでした?」
「僕が追いかけてました。説明を、どこまで足すかで」
「では、捕まえた所を見せてください」
軽い返事に笑い、僕は青い冊子を取り出した。
表紙へ指を掛けたまま、入口の写真のことを話し始めそうになる。
ひよりさんの目が、僕の指を見た。
「先に、一人で」
「はい。覚えてます」
「覚えてる顔と、説明したい顔、両方してます」
僕は冊子を彼女へ渡し、隣へ座った。
鞄を持つ手が余った。落ち着かなくて携帯を出しそうになり、やめる。目の前で読んでいる人から逃げるために、別の画面を開くことはしたくなかった。
頁をめくる音がした。
一頁しか作っていないから、次へ送れば何もない。それを知っているのに、僕は次へ進まれるのが少し怖かった。
ひよりさんは、左の写真から右へ目を移し、文章を読んだ。
もう一度、右の写真へ戻る。
僕の選んだ順番と、同じではなかった。
彼女はしばらく、そこを見ていた。
感想を探して困っているのか、何かに気づいたのか、僕には分からない。分からない時間を、すぐに説明で埋めないよう、靴の先を床へ置き直した。
「帰りたい場所の本だと思いました」
彼女が顔を上げた。
僕は、ちょっと驚いた。
「展示から、帰って来た話のつもりで」
「はい。そう書いてあります。でも、右を先に、長く見ちゃった」
ひよりさんは、入口の床の光を指した。
「ここ、奥に誰かがいるみたい。写っていないけど」
母は、写っていない。千夏も、僕もいない。
その瞬間を撮る前には、入口の横へ千夏が立っていた。開店の札を出した母のペンは、棚の布の上にあった。
僕がきれいに消さず、そのまま撮った物が、彼女には人の気配に見えている。
「人がいると、思ってもらいたかったのかな」
自分で言ってから、曖昧な答えだと思った。
ひよりさんは、正解ですね、とは言わなかった。
「湊くんが撮った理由は、あとで聞く約束なので。今のは、私が先に見た方です」
「うん」
「違いました?」
「違う。でも、嫌な違いじゃないです。僕が知らなかった所を、見てもらった感じ」
声へ出すと、胸の緊張が少しほどけた。
*
僕は、二枚を並べた夜のことを話した。
展示の写真が思ったより薄く見えたこと。家へ帰ると、いつも通る入口にも撮りたい光があったこと。
ひよりさんは途中で、一度だけ左の写真を見た。
「こっちを小さくしたくは、なかったんですね」
「はい。写ってないから、残念な方って」
「展示の時に、私が言ったことですね」
「覚えてます。だから、説明を増やすより、同じ大きさにしようと思いました」
彼女は二枚の縁を見た。
「それ、好きです」
短い言葉が、思っていたより近い所へ来た。
僕は、写真のことだと分かっているのに、一度、返事に困った。
ひよりさんが僕の顔を見て、小さく笑う。
「今のは、写真の並べ方です」
「分かってます」
「分かってる人の返事、ちょっと速かった」
僕も笑った。全部を見透かされたのではなく、分かりやすい一つを見られたくらいが、今はちょうどよかった。
「でも、この文は、少しだけ気になりました」
ひよりさんが、僕の書いた一行へ視線を戻した。
僕の肩が、また小さく固まる。
「帰ってきたら、の所ですか」
「違う光、の方。何が違ったんだろうって、読みたくなった。次の文がないので、考えたままになってます」
僕は言葉を探した。
評価が欲しいと思っていた時には、気になったと言われたら、すぐ直せる箇所を教えてほしかっただろう。
今も、上手い文章ではないと思っている。
けれど彼女は、採点した点数を渡しているのではなかった。
「そこ、僕も、まだうまく言えないんです」
「なら、今、全部書き直さなくても」
「でも、今、少し話したい。聞いてもらって、変わった所があるので」
彼女は冊子を閉じず、膝の上へ置き直した。
「はい。あと、何分でしたっけ」
僕が時刻を確かめると、約束の終わりまで、まだ半分ほどあった。
僕は千夏と入口を撮った朝のことを、写真に関わる範囲で話した。
同じ入口でも、彼女は通れる場所を見ていて、僕は床の光を見ていたこと。
誰かの全部に合う写真を、一枚だけで撮ろうとしなくてよかったこと。
ひよりさんは、千夏が何を考えていたかを訊かなかった。僕にも、彼女の模型の出来より、自分がどう選んだかを聞いてくれた。
「違う光、じゃなくて、違って見えたのは、僕の方かもしれない」
そこまで言って、僕は照れくさくなった。
ひよりさんの前でなら、少し格好のつく言葉にできる気がしたのが、自分でも分かったからだ。
「今の、書くとちょっと大げさですね」
「話す時に大きくなる言葉もあります」
彼女は笑い、入口の写真を見る。
「ここ、床の光を撮りたかった。まず、それだけでも、湊くんの文になると思います」
僕は頷いた。
上手な一行をもらって貼れば、今日の頁はもっと整うかもしれない。でも、次の一頁を書ける僕には、その短さの方が必要だった。
*
ひよりさんは、膝の横の紙袋へ手を掛けた。
僕は反射で、彼女の私的な文章だろうかと思った。
前に、全部を見せてもらう約束はしていない。僕が冊子を渡したから、同じだけ何かを返してもらえるわけでもない。
彼女は中の紙を一枚だけ出し、折ったまま持った。
「これは、私が今日、見せたい方です」
「いいんですか」
「だから、一枚だけ。読んでほしいのは、この一文」
彼女が開いた紙には、幾つかの線と、書き直した跡があった。
題名はまだない。
指で示された一行を、僕は読んだ。
何も言わなくていい席を、自分で選んで座った。
ひよりさんの字だった。
きれいに揃った印刷文字とは違い、座った、の最後だけ、少し右へ流れている。
「どこかの店の話?」
訊いてから、僕は少しだけ息を止めた。
誰といたのか、何があったのか。次の問いは、簡単に増やせた。
ひよりさんは紙を見たまま答えた。
「場所を、今、決めて書くか迷っています。私が前に座った所と、今度座りたい所が、混じってるので」
「じゃあ、どこかは、まだ聞かない」
「はい。……でも、読んで、何を思ったかは聞きたいです」
僕はもう一度、同じ一行を読んだ。
何も言わなくていい席。
失恋同盟の誰かが、黙った人を取り残さないように、次の話を探していた夜を思い出した。
それでも、その一行を、僕たちの店の説明だけへ閉じたくはなかった。
「寂しい席じゃないって、思いました。自分で選んで、ってあるから」
ひよりさんの指が、紙の縁で止まった。
「私、その席に座っても、まだ少し寂しいんです」
僕は顔を上げた。
彼女は笑っていなかった。
「静かな所を選べても、一人で大丈夫って、すぐ決まるわけじゃないから」
僕の感想は、彼女が書いた時の全部へは届いていなかった。
でも、間違えたから次の話をやめる必要はないと、さっき自分の写真で教わったばかりだった。
「じゃあ、寂しくないって言い切ったのは、僕の方でした」
「消さなくていいです。そのふうにも見えたって、知れたので」
彼女は紙を一度畳み直した。
僕は、今なら何か気の利いたことを言うべきかと考えた。
一人じゃないです、とか、いつでも店へ来てください、とか。
けれど彼女が書いたのは、自分で選んだ席だった。
僕が席を全部用意して、それで寂しくなくなると決めるのは、少し違う。
「今度、何も話さずに、同じ所へ座ってもいいですか」
僕が言うと、ひよりさんは、ゆっくり顔を上げた。
「今、もう、少しそうしてます」
「あ、そうか」
「でも、次も、いいです」
彼女は小さく笑った。
その返事を聞いて、僕は、誰かを安心させたからではない嬉しさを、また知った。
*
中庭の時計が、約束の終わりへ近づいた。
ひよりさんは自分の紙を袋へ戻し、僕へ青い冊子を返す。
「この頁、持って帰って直します?」
「全部は直さない。右の写真の下に、床の光を撮りたかった、って、一行だけ」
「見たいです」
「ひよりさんの一文も、続きができて、見せたい時に」
彼女は頷いた。
「交換のノルマにしないでくださいね」
「僕が二頁作ったら、二頁分もらえるとか」
「そうなると、私、まず湊くんの糊を隠します」
笑い声が、屋根の下へ少し残った。
冊子を鞄へ入れる時、紙の角が指に触れる。
同じ大きさの写真が二枚。一枚ずつなら、別の日の記録だった。並べて人へ見せると、僕の知らなかった読み方が増えた。
それを全部、自分の意味へ戻しておかなくてもいいのだと思った。
二人でベンチを立ち、道が分かれる所まで歩いた。
彼女にはこのあと彼女の用事があり、僕には店へ入る時刻がある。
ひよりさんが手を上げた。
「次、説明の前に読む約束、続けます」
「じゃあ、次は、待つ顔もちょっと練習します」
「練習してるのが分かったら、笑うかもしれません」
「それも、感想のうちで」
彼女が笑い、僕も笑った。
別れてから、僕はすぐ携帯へ次の約束を書き込まなかった。
会えた時間を、次へつなぐ用件にしてしまう前に、少しだけそのまま歩きたかった。
凪待ちへ向かう道の光は、昨日の入口より高い所から落ちている。
僕は鞄の中の青い表紙を思い浮かべた。
写真を撮った理由と、人が読んだ理由は、同じでなくてよかった。
違うまま、もう一度見せたいと思える人がいる。
次の一頁には、その嬉しさを、今度は僕の言葉で置いてみたかった。




