僕の写真にも、僕の予定がある
【前回までの人物】
・湊:母の喫茶店「凪待ち」を手伝う大学生。写真を撮ることが好き。
・千夏:湊の幼なじみ。建築を学び、自分の課題や設計に取り組んでいる。
・ひより:文章と編集が好きな、失恋同盟の仲間。
・由紀:湊の母で凪待ちの店主。家族の時間と店の仕事を大切にしている。
青い冊子の一頁目には、ひよりさんは橙を選んだ、と書いてある。
駅の前で書いた時より、家の机で見る方が、その一行は少し照れくさかった。
僕は携帯の写真を開いた。
紙を透かした木の影。窓の端。作り終えた二冊を並べた時の、青と橙。
同じ物を選ばなかったことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
どの写真を貼るか決めようとして、画面を指で送る。ひよりさんの顔が写ったものはない。撮らなかったというだけで、あの近さまでなくなってしまったわけではなかった。
肩の辺りへ残っていた温度を思い出し、僕は冊子を一度閉じた。
階下で食器の触れる音がした。
土曜の夕方の凪待ちは、まだ片付けの途中だった。僕は鞄を部屋へ置き、袖をまくって階段を下りる。
母は青いエプロンのポケットからペンを出し、冷蔵庫へ貼った紙を見ていた。
「帰ってたの。今日は、ここまででいいよ」
「カップだけ戻す。洗ってある方」
「じゃあ、お願い。乾いてないのは下の棚へ入れないで」
いつもの頼まれ方に、少し安心した。
僕が外で何をしてきたかを、店中へ説明しなければ戻れないわけではない。
カップの取っ手を揃えていると、母が小さな封筒を一つ、カウンターへ置いた。
「商店街から。今度、地域の催しの相談に使う写真を集めたいんだって。店先の写真を出していいか、聞かれてる」
「前に撮ったの、使えるかな」
「それを見てから決めたい。明日、開店前に少し時間ある?」
僕はすぐ、ある、と答えかけた。
青い冊子が、二階の机にある。
「九時半からなら。九時までは、今日の写真を選びたい」
口にすると、たった三十分の違いだった。
母はペンを止めずに頷いた。
「じゃあ、九時半。今日の片付けの代わりに、今すぐ選ばなくていいから」
僕は、戻す最後のカップを棚の奥へ入れた。
自分の時間を言うたび、相手が困るのを待ってしまう癖は、まだ抜けない。
けれど母の紙には、九時半、と普通の文字で増えただけだった。
*
日曜の朝、冊子の一頁は、昨日とほとんど同じままだった。
写真を印刷する前に、どの大きさで貼るか紙を切っていると、時間が過ぎる。
目で見た光をそのまま戻したいと思うほど、画面の中の紙が、別の物へ見えた。
九時前、僕は小さな白い紙を一枚、頁へ載せた。
ここに写真。
その下へ、写真にはあまり写らなかった、と書き足す。
書いた途端、昨日のひよりさんの声が戻ってきた。
それだけだと、残念な展示みたい。
僕は笑って、もう一行を置いた。
見に来てよかった。紙の厚さと、見る順番が違っても、一緒にいられたこと。
全部をきれいな文章へ直す前に、九時のアラームが鳴った。
僕は保存した写真の名前だけ控え、冊子を閉じた。
未完成だから、あとから自分で続きをできる。頼まれたことへ移る時、全部を捨てた顔をする必要はなかった。
九時半、母の向かいに座ると、入口のベルが鳴った。
千夏だった。
顎の所で切り揃えた栗色の髪が、扉を閉じる風で頬へ寄る。片手には模型の箱、もう片方には細い図面筒を持っていた。
「おはよ。開店前、まだ大丈夫?」
「母さんに、資料を見せる約束?」
「そう。先に聞いた。今日は湊の予定を、勝手に私のにしてません」
彼女は少し得意そうに言い、箱を台へ置いた。
僕は笑いかけ、母の顔を見た。
「昨日、言い忘れた。千夏ちゃんの課題、店の入口の見え方も少し参考にしたいって」
母が答える。
「ただ、店の仕事と大学の課題は別ね。どこかへ出す写真なら、お客さんが写る物はそのまま使わない」
「はい。人がいる時に、勝手に撮らないです」
千夏は箱の蓋を外した。
中に入っていたのは、まだ色を塗っていない小さな建物だった。紙で作った壁の端に、鉛筆の線が残っている。
「完成?」
僕が訊くと、彼女は眉を寄せた。
「だったら、こんな顔して持ってこない。入口を広く見せたいのに、どこから見ても、奥が詰まって見える」
「私の店で、本物の壁を動かすのは困るよ」
「模型の話です、由紀さん」
母が笑い、千夏も口の端を緩めた。
店の写真は、携帯の中に何枚もあった。
カップ、窓、椅子、雨の日の入口。人の顔が写っている物を分け、母が使いたい範囲を聞く。
千夏は横から、前に撮った入口の一枚へ目を留めた。
「これ。奥まで、ちゃんと場所がある感じする」
「席が空いていた時の。夕方だったと思う」
「なら、今日もその時に撮る? 入口、こっちの角度で。私、椅子の置き方だけ見たい」
「うん、何時でも」
返事が出てから、自分で止まった。
千夏も、僕を見た。
「何時でも、じゃなかった?」
「夕方は、まだ決めてない。昼の明るいうちに、写真を選ぶ時間を残したい。それと、入口は、開店前の今も一枚撮ってみたい」
自分でも、用件が二つに分かれていると分かった。
頼まれたから撮る写真と、自分が今撮ってみたい写真。
「じゃあ、今。私、模型を窓へ持っていくから、そのあとでもいい?」
千夏が言った。
断られた顔ではなかった。自分の順番を、普通に返してくる顔だった。
「うん。僕も、先にこの写真を母さんへ渡す」
*
母は必要な写真を選び、使う先を紙へ書いた。
地域の催しの最終案が決まったわけではない。予算も、手伝う人も、これからだという。
「新しく撮る仕事を頼む時は、何枚、いつまで、どこへ使うか、先に決めようね」
「僕が息子でも?」
「息子だから、ずっと手が空いてると思わない方がいいでしょ。店の仕事まで全部、好きでやることに混ぜると、お互い困る」
母は封筒へ選んだ写真の番号を入れた。
僕の写真が何かの役に立つのは嬉しい。
だからこそ、嬉しいまま全部を引き受けると、僕自身の作りたかった一頁が、また後ろへ行く。
昨日ひよりさんに見たいと言われたのは、頼まれた仕事を上手に片付けた報告ではなかった。
千夏は窓際へ模型を置き、椅子を一つ引いた。
光を遮っていたのは、模型の壁だけではない。彼女の身体の影が、入口へ落ちている。
「私、邪魔?」
僕がカメラを構えると、彼女は素早く横へずれた。
「まだ、撮ってない。どこに立ったらどう見えるか、先に」
「あ、うん。写真の邪魔にならないように、先に動く癖が出た」
「僕も、いつも、物だけ撮る時のつもりで頼みかけた」
千夏は椅子へ腰を下ろし、自分の目の高さを下げた。
「ここだと、奥が見える。でも、立ってる人には入口の上が先に来る。全部を同じ見え方にしたかったのかな」
僕はレンズを模型へ向けた。
低い位置では細い隙間の向こうへ光が入る。少し上げれば、屋根の線がそれを隠す。
正しい一枚を見つければ全部解決すると思っていたのは、昨日の展示で撮った僕にも似ていた。
「二枚にしない?」
「比べる用?」
「うん。見える所が違うって、そのまま残す。千夏が直したい所を決めるために」
彼女は模型の端を押さえ、こちらを見た。
「それ、やりたい」
返事が早かった。相手の好みへ合わせた言葉ではない、彼女自身が使いたい道具を見つけた声だった。
僕は同じ模型を、二つの高さから撮った。
携帯へ並べると、千夏は自分の紙へ、入口と、奥、と書いた。
「これなら、どっちも捨てなくていいんだ」
「いきなり全部、直さない?」
「今日の午後にする。午前中は、別の提出物を先に片付ける予定だった」
千夏は言いながら、僕をちらりと見た。
「今度は、私が。湊の写真が面白いからって、自分の午前をなくさない」
「なくさないで。あとで、どこを変えたか見たい」
「うん。できたら言う」
昨日ひよりさんへ僕が言ったのと、似た返事だった。
同じ言葉を使うから、同じ関係になるわけではない。千夏の紙には千夏の課題があり、僕はそれを昔から知っているつもりで、知らない所がまだ沢山ある。
*
入口の写真を撮る時、千夏は模型を片付け、店の中から僕を見た。
扉を半分開ける。曇ったガラスを通す光と、開いた所から来る光が、床で違う色になっていた。
僕は普段なら椅子を寄せて、通り道を広く見せただろう。
今日は、そのまま一度見た。
カップを並べた棚の端、母のペンが転がらないように置かれた布、雨の日に傘を寄せる場所。
きれいに見せるために消せる物が、誰かの仕事の跡でもある。
「千夏、そこから、どう見える?」
僕が訊くと、彼女は入口へ歩いて来た。
「あ、こっち。机の脚が重なってない。奥へ行けそう」
「僕は、こっちの床の光を撮りたい」
「じゃあ、ちょっとずつ違う」
千夏は僕の隣で足を止めた。
いつもの癖なら、彼女の見たい場所へ僕が移って、それでよかったと言ったと思う。
僕は今の位置から一枚を撮り、それから彼女の方へ移った。
二枚で、違う入口が残った。
千夏は画面を覗き、少し唇を尖らせた。
「床、こっちの方が好きかも」
「本当に?」
「うん。私なら、通れるかどうかを先に見る。湊は、帰って来た時に明るい所を見てる」
そこまで考えていなかった。
けれど彼女に言われると、家へ帰る時に僕が見ていたのは、その細い光だった気もした。
「写真の説明、千夏に書いてもらいたくなる」
「自分で書くんでしょ」
「そうだった」
「書いたら、見たい。私が違うと思う所は、違うって言うから」
千夏は画面から顔を上げた。
顎の横の髪へ、扉の隙間から風が入る。目が合ってから、彼女が先に視線を外すまで、ほんの少し間があった。
僕はその顔を撮らなかった。
撮ればよかったのかとも思ったが、それは、あとから何でも写真にできなかった自分を責める話ではなかった。
母が入口の札へ手を伸ばした。
「開けるよ。二人の展示会は、いったん終わり」
「お店の写真の話だったのに」
千夏が笑う。
「だから、時間を決めておいて良かったでしょ」
僕は扉を開け、外の空気を入れた。
コーヒーを挽く音がして、模型を見ていた窓際が、客を迎える席へ戻った。
*
千夏が帰る前に、二枚の写真を送った。
見える高さを比べるための模型の写真だ。店の宣伝用に選んだ物とも、僕の冊子へ入れる入口の写真とも、送り先と使う目的が違う。
「午後、模型の壁を一つだけ動かしてみる。全部壊すと、提出に間に合わなくなるから」
彼女は箱を抱え直した。
「できたら、また見せて」
「うん。湊も、写真を選んだら」
「言う」
千夏が一度頷き、扉を閉めた。
毎日顔を合わせていた頃から知っている足音が、今日は、別の作業へ向かう足音に聞こえた。
僕は昼前の短い休憩に、二階の机へ戻った。
今日の入口を、昨日の青い冊子の横へ置く。まだ印刷していないから、画面の中だ。
思いついて、ひよりさんへメッセージを書いた。
『一頁目、少し進みました。写真はまだ仮です。できたら、見てもらいたい』
送る前に、今、読める、と付け足しかけた。
僕の空いている時間だけで、相手の返事まで決める所だった。
その一文を入れずに送った。
返事が来るまで冊子を閉じられない気がしたが、僕は一度、机から立った。
階下で皿を運ぶと、コーヒーの温かい匂いが手の辺りへ残った。
返信は、昼の仕事が一段落してから届いた。
『読みたいです。今日は夕方まで用事があるので、完成しても逃げないで置いておいてください』
僕は画面を見て笑った。
『本は逃げないけど、僕が説明を足しすぎるかも』
『では、先に一人で読みます。そのあと、説明したい所を聞きます』
ひよりさんの言葉を読んで、僕は青い表紙を思い出した。
昨日は、彼女の見たい本を一緒に見に行った。
今日は、僕が作っている物を、彼女が自分の時間で読みたいと言っている。
返事をもらった嬉しさが、頼まれたことを片付けた時の安心と違う場所へ残った。
まだ、何でも話せる関係ではない。
僕の一頁も、彼女の私的な紙束も、無理に交換する約束にはなっていない。
それでも、次に見せたい物が、自分の手元で少しずつ形になっている。
僕は冊子を開き、入口の写真を置くための余白を一つ作った。
写真に写っていない人の声と、撮る前に自分で選んだ時間も、その余白へ一緒に残したかった。




