↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/30

一緒に見る色は、僕の好きな色と違う

【前回までの人物】

・湊:実家の喫茶店を手伝う大学生。失恋した仲間との同盟で過ごしている。

・ひより:文章を書く同盟の仲間。自分の書いた物を誰に見せるかは、自分で決めている。

 二時になると、展示室の扉が内側へ開いた。

 白い糸の付いた紺の前掛けをした人が、看板を返す。小さな製本店が、週末だけ奥の部屋を展示に使っているらしい。

 僕とひよりさんは、入口の紙を先に読んだ。

 見るだけは無料。触れてよい見本には、青い札がある。

「今日は、分かりやすいね」

 僕が言うと、彼女は灰色の封筒を鞄へしまった。

「青くない人には、触っちゃ駄目です」

「人に札は付いてない」

「じゃあ、聞いてください」

 入口を通る彼女が、少しだけ振り返った。冗談の続きなのに、その顔へうまく返事ができなかった。


 部屋には、紙と木の匂いがした。

 展示台の上で、閉じた本、開いた本、まだ糸で綴じる前の紙が、同じくらいの場所を取っている。

 僕は窓辺の薄い紙へ目を奪われた。向こうの木の影が透けているのに、近くで見ると、繊維の重なりが影とは別の模様を作っていた。

 隣で、ひよりさんが足を止める。

 彼女が見ていたのは、窓ではなかった。

 小さな本の背が、開くたびに丸く動く。その仕組みを、青い札の前で追っている。

「先、こっち?」

 僕が訊く。

「うん。湊くんの、光の方はあとでも見える?」

 僕は窓を見た。雲が来れば、今とは変わるかもしれない。

 あとで、と言えば楽だった。今日くらい相手の見たい物へ全部合わせよう、とも思った。

「影が、今ちょうど綺麗で。二分だけ、見てきてもいい?」

 ひよりさんは僕の顔から窓へ目を移した。

「いいですよ。私はこの本、二分で終わらないから」

 笑って、見本へ手を伸ばす。

 同じ場所にいて、同じ順番で見なくてもよかった。


 薄い紙の影は、近づくと青みを帯びた。

 僕は携帯を出しかけて、台の小さな表示へ戻った。展示物の撮影は可。人が写る時は、先に声を掛ける。

 木の影だけを一枚撮る。

 画面では、目で見た繊維の厚みがあまり出なかった。倍率を変え、やめて、もう一度そのまま見る。

 撮れた物だけを持ち帰ろうとすると、見ている物まで写真の大きさになってしまいそうだった。

「写真、撮らないんですか」

 近くを通った展示担当が訊いた。

「撮ったんですけど、見た感じにならなくて」

「光、よく動くので。この窓、曇った日も綺麗ですよ」

「晴れた日が一番じゃないんですね」

「紙に穴を開けて見る方は、曇りの方が線を追いやすいです。よければ、あちらに見本があります」

 担当は次の台を指して、そのまま別の客の方へ行った。

 僕は窓をもう一度見る。一番よく見える天気、というものまで、勝手に一つへ決めていた。


 ひよりさんの所へ戻ると、彼女は同じ本をまだ開いていた。

 頁に文章はない。何も書かれていない本の背を見ている姿が、ひどく真剣だった。

「二分過ぎた?」

「過ぎたと思う。数えてない」

「ごめん」

「待っていたわけじゃないので、大丈夫です」

 彼女は本を閉じ、また開いた。

「この真ん中、平らになるんです。私のノート、押さえないと戻っちゃうから」

「片手で書きにくい?」

「書きにくい。あと、見せる時」

 言ってから、ひよりさんは自分で少し黙った。

 僕も、彼女が持っていた私的な紙束のことを思い出した。でも、どれを見せるつもりなのかとは聞かなかった。

 見せる時、という言葉が彼女から出たことだけを、そのまま受け取る。


「湊くんなら、こういうのに写真を貼ります?」

「貼ってみたい。写真だけじゃなくて、撮れなかった時のことも」

「失敗した写真?」

「撮ったけど駄目だったのも。撮らずに見てたのも」

 ひよりさんは、本の真ん中へ視線を戻した。

「それ、ちょっと見たいです」

 胸の奥が動いた。

 何か書いてくれないかと、本のしおりを待っていた午前とは違う。今、目の前の人が、僕の作る物を見たいと言っている。

「まだ、一頁もないよ」

「じゃあ、あるふりして渡さないでくださいね」

「しない。作ったら、言う」

「はい。見る日は、その時に決めます」

 予定を遠くまで固めずに交わした返事が、今の僕にはちょうどよかった。


     *


 奥の卓では、小さな冊子を綴じる体験ができた。

 一人三百円。入場料とは別で、表紙二枚と本文用紙、糸、道具を使う代金が含まれる。完成品は持ち帰れる。

 僕が財布を出すと、ひよりさんも自分の小銭入れを出した。

「私が誘ったからって、湊くんの分までじゃないですよ」

「僕も、それ言おうと思った」

「先に言った方が、三百円安くなる?」

「ならない」

 二人で払って、向かい合わせではなく、隣の椅子へ座った。

 糸の色を選ぶ皿が、二人の間に置かれる。


 僕は青い表紙を取り、ひよりさんは鈍い橙色を選んだ。

 落ち着いた灰色を選ぶと思っていた、と言いかける。

「意外?」

 彼女の方が先に気づいた。

「うん。封筒が灰色だったから」

「灰色も好き。でも、これも」

 彼女は表紙を窓の光へ向けた。茶色にも赤にも見える、厚い紙だ。

「私、好きな色、一個じゃないです」

「僕も。なのに、ひよりさんのは一個だと思ってた」

「見分けやすいから?」

「たぶん」

 彼女は少し考え、青い表紙の僕の冊子を指した。

「じゃあ、それ以外を選ぶ湊くんも、そのうち見たいです」

 僕は橙を選び直さなかった。似せて揃えるのが、今の返事ではない気がした。

 僕の青と、彼女の橙。二冊を並べた方が、選んだ二人がよく見えた。


 展示担当が穴を開ける位置を示した。

 紙を重ね、ずれないよう挟み、印に沿って糸を通す。僕は二つ目の穴から糸を戻す所で、同じ面へ針を出してしまった。

 ひよりさんの指が動きかけ、止まる。

「取って、直してもいい?」

「やり方だけ、教えて」

「ここから一つ前へ戻って、反対側です」

 僕は糸を引いた。強く引きすぎて、余分な輪まで紙へ張り付く。

「……焦った」

「大丈夫。まだ、ほどけます」

 彼女の冊子も、端の一枚が少し出ていた。

 上手に作る人と、教わるだけの人にはならず、二人でそれぞれの紙を戻す。糸のこすれる音が、思っていたより近く聞こえた。


 結び終わると、担当が背を確かめてくれた。

 僕の冊子は表紙の角が僅かにずれていたが、開くとちゃんと平らになった。

 ひよりさんの橙色は、余った糸を少し長く残している。

「切らないの?」

「しおりにしようかなって。でも、短いかな」

「この厚さなら、ちょうど」

 僕はそこで指を止めた。

「触ってもいい?」

 ひよりさんは一瞬目を丸くして、それから冊子をこちらへ寄せた。

「はい。これは、見せる方の本です」

 僕は糸を引かず、頁の上へそっと置いた。最後の一枚まで、ちゃんと届く。

 彼女が覗くために肩を寄せた。

 紙の匂いに、さっきまで分からなかった柔らかな匂いが混じる。僕は、糸の長さだけを見続けるのが急に難しくなった。

「どう?」

「足りる。最後まで」

「よかった」

 彼女が笑って離れたあとも、肩の近くに温度が残っていた。


     *


 展示室を出たのは、三時を少し過ぎた頃だった。

 入口の光は、入る前より低くなっている。僕は買ったのではなく、自分で綴じた冊子を鞄からもう一度出した。

「最初、何を書く?」

 僕が訊くと、ひよりさんは橙色の表紙を撫でた。

「今日は、書かないかもしれません」

「使わない?」

「使いたいから、最初を迷うんです」

 僕は笑いかけ、先に頷いた。空白の本を見ている時間も、彼女の楽しみなのだろう。

「湊くんは?」

「今日見た紙のこと。写真では、あまり写らなかったって」

「それだけだと、残念な展示みたい」

「じゃあ、見に来て良かった、も書く」

 彼女が冊子から目を上げた。

「何が、一番?」

 僕は窓の紙と、丸く動く本の背と、肩の近さを順に思い出した。

 全部を言うには、まだ少し勇気が足りない。

「ひよりさんの好きな色、一個じゃないって分かったこと」

 彼女はすぐ冗談へ返さなかった。

 橙色の冊子を鞄へ入れる手が、一度ゆっくりになる。

「……じゃあ、また違うのを選びます」


 駅へ向かう途中、携帯が震えた。

 同盟の連絡欄には、誰かが昼に送った写真があった。今すぐ今日の二人をそこへ並べたくなり、画面を閉じる。

「今日のこと、皆に話してもいい?」

「展示へ来たこと?」

「うん。冊子も。写真に載せるなら、ひよりさんが持つ方は聞いてからにする」

「冊子はいいですよ。でも、私が変な顔で糸を見てる写真は、なしです」

「撮ってないよ」

「そこ、ちょっと残念」

 彼女が笑った。

 僕は携帯をしまい、歩く速さを戻した。


 午前の痛みは、消えていない。

 駅へ近づくと、本を返された重さをまた思い出した。けれど今日の青い冊子へ、同じ意味を足そうとは思わなかった。

 何かを失った所へ、別の人を置いた一日ではない。

 ひよりさんは自分の見たい本を見て、自分の好きな橙色を選んだ。僕は青を選び、その違いを嬉しいと思った。

 駅の手前で、彼女が立ち止まる。

「湊くん。曇りの日も綺麗って、さっき言ってましたよね」

「うん。展示の人が」

「次、曇った日に。紙店の窓だけでも、見ませんか」

 予定表を見る前に、僕は答えかけた。空いていると決めつけず、でも、行きたい気持ちは先に言えた。

「行きたい。日が決まったら、時間を合わせよう」

「はい」

 彼女は小さく頷いた。

 僕は改札の前で別れ、青い冊子の一頁目へ今日の日付を書いた。

 その下へ、ひよりさんは橙を選んだ、と続ける。

 まだ恋と呼ばない気持ちにも、自分で書ける一行があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。