一緒に見る色は、僕の好きな色と違う
【前回までの人物】
・湊:実家の喫茶店を手伝う大学生。失恋した仲間との同盟で過ごしている。
・ひより:文章を書く同盟の仲間。自分の書いた物を誰に見せるかは、自分で決めている。
二時になると、展示室の扉が内側へ開いた。
白い糸の付いた紺の前掛けをした人が、看板を返す。小さな製本店が、週末だけ奥の部屋を展示に使っているらしい。
僕とひよりさんは、入口の紙を先に読んだ。
見るだけは無料。触れてよい見本には、青い札がある。
「今日は、分かりやすいね」
僕が言うと、彼女は灰色の封筒を鞄へしまった。
「青くない人には、触っちゃ駄目です」
「人に札は付いてない」
「じゃあ、聞いてください」
入口を通る彼女が、少しだけ振り返った。冗談の続きなのに、その顔へうまく返事ができなかった。
部屋には、紙と木の匂いがした。
展示台の上で、閉じた本、開いた本、まだ糸で綴じる前の紙が、同じくらいの場所を取っている。
僕は窓辺の薄い紙へ目を奪われた。向こうの木の影が透けているのに、近くで見ると、繊維の重なりが影とは別の模様を作っていた。
隣で、ひよりさんが足を止める。
彼女が見ていたのは、窓ではなかった。
小さな本の背が、開くたびに丸く動く。その仕組みを、青い札の前で追っている。
「先、こっち?」
僕が訊く。
「うん。湊くんの、光の方はあとでも見える?」
僕は窓を見た。雲が来れば、今とは変わるかもしれない。
あとで、と言えば楽だった。今日くらい相手の見たい物へ全部合わせよう、とも思った。
「影が、今ちょうど綺麗で。二分だけ、見てきてもいい?」
ひよりさんは僕の顔から窓へ目を移した。
「いいですよ。私はこの本、二分で終わらないから」
笑って、見本へ手を伸ばす。
同じ場所にいて、同じ順番で見なくてもよかった。
薄い紙の影は、近づくと青みを帯びた。
僕は携帯を出しかけて、台の小さな表示へ戻った。展示物の撮影は可。人が写る時は、先に声を掛ける。
木の影だけを一枚撮る。
画面では、目で見た繊維の厚みがあまり出なかった。倍率を変え、やめて、もう一度そのまま見る。
撮れた物だけを持ち帰ろうとすると、見ている物まで写真の大きさになってしまいそうだった。
「写真、撮らないんですか」
近くを通った展示担当が訊いた。
「撮ったんですけど、見た感じにならなくて」
「光、よく動くので。この窓、曇った日も綺麗ですよ」
「晴れた日が一番じゃないんですね」
「紙に穴を開けて見る方は、曇りの方が線を追いやすいです。よければ、あちらに見本があります」
担当は次の台を指して、そのまま別の客の方へ行った。
僕は窓をもう一度見る。一番よく見える天気、というものまで、勝手に一つへ決めていた。
ひよりさんの所へ戻ると、彼女は同じ本をまだ開いていた。
頁に文章はない。何も書かれていない本の背を見ている姿が、ひどく真剣だった。
「二分過ぎた?」
「過ぎたと思う。数えてない」
「ごめん」
「待っていたわけじゃないので、大丈夫です」
彼女は本を閉じ、また開いた。
「この真ん中、平らになるんです。私のノート、押さえないと戻っちゃうから」
「片手で書きにくい?」
「書きにくい。あと、見せる時」
言ってから、ひよりさんは自分で少し黙った。
僕も、彼女が持っていた私的な紙束のことを思い出した。でも、どれを見せるつもりなのかとは聞かなかった。
見せる時、という言葉が彼女から出たことだけを、そのまま受け取る。
「湊くんなら、こういうのに写真を貼ります?」
「貼ってみたい。写真だけじゃなくて、撮れなかった時のことも」
「失敗した写真?」
「撮ったけど駄目だったのも。撮らずに見てたのも」
ひよりさんは、本の真ん中へ視線を戻した。
「それ、ちょっと見たいです」
胸の奥が動いた。
何か書いてくれないかと、本のしおりを待っていた午前とは違う。今、目の前の人が、僕の作る物を見たいと言っている。
「まだ、一頁もないよ」
「じゃあ、あるふりして渡さないでくださいね」
「しない。作ったら、言う」
「はい。見る日は、その時に決めます」
予定を遠くまで固めずに交わした返事が、今の僕にはちょうどよかった。
*
奥の卓では、小さな冊子を綴じる体験ができた。
一人三百円。入場料とは別で、表紙二枚と本文用紙、糸、道具を使う代金が含まれる。完成品は持ち帰れる。
僕が財布を出すと、ひよりさんも自分の小銭入れを出した。
「私が誘ったからって、湊くんの分までじゃないですよ」
「僕も、それ言おうと思った」
「先に言った方が、三百円安くなる?」
「ならない」
二人で払って、向かい合わせではなく、隣の椅子へ座った。
糸の色を選ぶ皿が、二人の間に置かれる。
僕は青い表紙を取り、ひよりさんは鈍い橙色を選んだ。
落ち着いた灰色を選ぶと思っていた、と言いかける。
「意外?」
彼女の方が先に気づいた。
「うん。封筒が灰色だったから」
「灰色も好き。でも、これも」
彼女は表紙を窓の光へ向けた。茶色にも赤にも見える、厚い紙だ。
「私、好きな色、一個じゃないです」
「僕も。なのに、ひよりさんのは一個だと思ってた」
「見分けやすいから?」
「たぶん」
彼女は少し考え、青い表紙の僕の冊子を指した。
「じゃあ、それ以外を選ぶ湊くんも、そのうち見たいです」
僕は橙を選び直さなかった。似せて揃えるのが、今の返事ではない気がした。
僕の青と、彼女の橙。二冊を並べた方が、選んだ二人がよく見えた。
展示担当が穴を開ける位置を示した。
紙を重ね、ずれないよう挟み、印に沿って糸を通す。僕は二つ目の穴から糸を戻す所で、同じ面へ針を出してしまった。
ひよりさんの指が動きかけ、止まる。
「取って、直してもいい?」
「やり方だけ、教えて」
「ここから一つ前へ戻って、反対側です」
僕は糸を引いた。強く引きすぎて、余分な輪まで紙へ張り付く。
「……焦った」
「大丈夫。まだ、ほどけます」
彼女の冊子も、端の一枚が少し出ていた。
上手に作る人と、教わるだけの人にはならず、二人でそれぞれの紙を戻す。糸のこすれる音が、思っていたより近く聞こえた。
結び終わると、担当が背を確かめてくれた。
僕の冊子は表紙の角が僅かにずれていたが、開くとちゃんと平らになった。
ひよりさんの橙色は、余った糸を少し長く残している。
「切らないの?」
「しおりにしようかなって。でも、短いかな」
「この厚さなら、ちょうど」
僕はそこで指を止めた。
「触ってもいい?」
ひよりさんは一瞬目を丸くして、それから冊子をこちらへ寄せた。
「はい。これは、見せる方の本です」
僕は糸を引かず、頁の上へそっと置いた。最後の一枚まで、ちゃんと届く。
彼女が覗くために肩を寄せた。
紙の匂いに、さっきまで分からなかった柔らかな匂いが混じる。僕は、糸の長さだけを見続けるのが急に難しくなった。
「どう?」
「足りる。最後まで」
「よかった」
彼女が笑って離れたあとも、肩の近くに温度が残っていた。
*
展示室を出たのは、三時を少し過ぎた頃だった。
入口の光は、入る前より低くなっている。僕は買ったのではなく、自分で綴じた冊子を鞄からもう一度出した。
「最初、何を書く?」
僕が訊くと、ひよりさんは橙色の表紙を撫でた。
「今日は、書かないかもしれません」
「使わない?」
「使いたいから、最初を迷うんです」
僕は笑いかけ、先に頷いた。空白の本を見ている時間も、彼女の楽しみなのだろう。
「湊くんは?」
「今日見た紙のこと。写真では、あまり写らなかったって」
「それだけだと、残念な展示みたい」
「じゃあ、見に来て良かった、も書く」
彼女が冊子から目を上げた。
「何が、一番?」
僕は窓の紙と、丸く動く本の背と、肩の近さを順に思い出した。
全部を言うには、まだ少し勇気が足りない。
「ひよりさんの好きな色、一個じゃないって分かったこと」
彼女はすぐ冗談へ返さなかった。
橙色の冊子を鞄へ入れる手が、一度ゆっくりになる。
「……じゃあ、また違うのを選びます」
駅へ向かう途中、携帯が震えた。
同盟の連絡欄には、誰かが昼に送った写真があった。今すぐ今日の二人をそこへ並べたくなり、画面を閉じる。
「今日のこと、皆に話してもいい?」
「展示へ来たこと?」
「うん。冊子も。写真に載せるなら、ひよりさんが持つ方は聞いてからにする」
「冊子はいいですよ。でも、私が変な顔で糸を見てる写真は、なしです」
「撮ってないよ」
「そこ、ちょっと残念」
彼女が笑った。
僕は携帯をしまい、歩く速さを戻した。
午前の痛みは、消えていない。
駅へ近づくと、本を返された重さをまた思い出した。けれど今日の青い冊子へ、同じ意味を足そうとは思わなかった。
何かを失った所へ、別の人を置いた一日ではない。
ひよりさんは自分の見たい本を見て、自分の好きな橙色を選んだ。僕は青を選び、その違いを嬉しいと思った。
駅の手前で、彼女が立ち止まる。
「湊くん。曇りの日も綺麗って、さっき言ってましたよね」
「うん。展示の人が」
「次、曇った日に。紙店の窓だけでも、見ませんか」
予定表を見る前に、僕は答えかけた。空いていると決めつけず、でも、行きたい気持ちは先に言えた。
「行きたい。日が決まったら、時間を合わせよう」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
僕は改札の前で別れ、青い冊子の一頁目へ今日の日付を書いた。
その下へ、ひよりさんは橙を選んだ、と続ける。
まだ恋と呼ばない気持ちにも、自分で書ける一行があった。




