返事を待つ恋は、ここで終わり
【前回までの人物】
・湊:失恋同盟の仲間と過ごす大学生。ひよりと土曜の紙の小展示へ行く約束をした。
・ひより:文章を書く同盟の仲間。私的な紙束は自分で持ち、湊には別の展示案内を渡した。
・透子:湊と同じ演習の班の同級生。湊の告白には応じなかったが、課題の相談には普段どおり接している。
土曜の朝、鞄の内ポケットを二度確かめた。
紙の小展示。午後二時から。待ち合わせは一時四十分、紙店の前。
昨日受け取った案内は、角を折らずにノートへ挟んである。
その上へ、携帯の通知が一つ落ちた。
『借りていた本、今日返せる? 午前中なら駅へ寄れます』
立花透子からだった。
湊くん、ではなく、朝倉くん。同じ演習の班になってから何度も見た名前なのに、画面を開く指が一度止まった。
貸したのは、写真の構図の薄い本だ。演習で撮る時に参考になると言われ、鞄から出した。返す日を、二人で出掛ける日にならないかと思ったことがある。
今日、戻ってくるのは本だけだ。
僕は十一時なら駅の東口へ行けると返した。
鏡の前でシャツの襟を直し、直した手を下ろした。
会えば何か変わる、とはもう思わない。それでも、昔からこういう時に着ている一枚を選んでいた。
ひよりさんとの待ち合わせを理由に断ることもできた。先に決まっているのだから、別の日へ変えてもらってもいい。
けれど、その予定を自分が逃げるための理由にしたくなかった。
僕が透子を好きだった。その話は、僕が一人で終わりまで受け取りたかった。
駅前には、焼いたパンの甘い匂いが流れていた。
時計台の下で立ち止まると、ガラスの向こうから透子が手を上げた。低い位置で結んだ髪、白いシャツの上の薄いカーディガン。演習の時と同じ帆布鞄を持っていた。
「朝倉くん、早いね」
「今来たところ」
嘘ではなかった。ただ、次の言葉を間違えないように、少し前から改札を見ていた。
透子は鞄から本を出した。透明の袋に入れ、薄い紙を一枚挟んでいる。
「借りた時に入ってたしおり、そのまま戻した。折り目は付けてないと思う」
「そこまで気にしなくていいのに」
「借りた物だから」
彼女は本を両手で渡した。僕も受け取る。
重さは、貸した時と変わらない。
「役に立った?」
「うん。影のところ。人が入ってない写真でも、時間が見えるって説明が分かりやすかった」
「僕もあそこ、好き」
好き、という言葉が普通の場所へ戻る。僕は本の表紙を一度撫でた。
透子が携帯を見た。
「このあと家の用事があるから、長くはいられない。返すだけでごめんね」
「ううん。来てくれてありがとう」
言えたのに、まだ彼女の足を止めたかった。
珈琲でも。五分だけ。せっかくだから。
頭の中で並んだ言葉は、どれも前に断られたことを小さくするための物だった。
「透子」
彼女は一歩出しかけた足を戻した。
「うん」
「少しだけ、話していい? 長くしない」
「いいよ」
僕は人が行き交う改札の前から、柱の脇へ移った。二人きりになれる所を探すのではなく、誰かの道を塞がない所へ。
近くで切符が床へ落ち、小さな子が拾い上げた。電車の案内が、声の上を一度通り過ぎる。
「この前の返事、まだ待ってる人みたいになってたと思う」
透子はすぐ否定しなかった。
「私、曖昧に聞こえること言った?」
「言ってない。僕が、演習で普通に話せるたびに、もしかしたらって付け足してた」
言ってしまうと、ひどく格好が悪かった。
彼女は鞄の持ち手を握り直した。
「課題は一緒にやりたい。でも、付き合う返事は、変わらない」
「うん」
「普通に話すのをやめた方がいいのか、私には分からなかった」
「やめなくていい。いや、やめてほしくない。でも、それを返事の続きだと思うのは、僕がやめる」
透子の目が少し細くなった。笑ったのではなく、眩しい物を見るような顔だった。
「朝倉くんに、すぐ平気になってとは言えない」
「平気ではない。今も」
僕は本の背を持ち直した。角が手の中へ食い込む。
「でも、平気になるまで待っててとも、もう言わない」
「うん」
彼女がうなずく。その返事に、新しい約束を探さなかった。
告白した日は、断られた言葉の前後ばかり覚えていた。
今は駅の匂いも、柱のひんやりした影も、彼女の鞄の擦れた角も見える。
僕の知らない用事へ、これから彼女が行くことも。
「好きになったの、迷惑だった?」
口から出てしまい、すぐ続きを言った。
「答えにくかったら、答えなくていい。今のは――」
「迷惑、って決めて終わらせないで」
透子の声は、さっきよりはっきりしていた。
「返事をするのは難しかった。でも、好きだって言ってくれたことまで、なかったことにしなくていい」
僕は口を閉じた。
自分を駄目な方へ置けば、彼女を困らせず終われると思っていた。それも結局、彼女に別の返事をさせようとしていたのかもしれない。
「分かった。言ってよかった、とはまだ上手く思えないけど、言ったことは僕のままにする」
「……うん。その本も、ありがとう」
十一時八分の表示が、時計台へ出た。
「家の用事、間に合う?」
「大丈夫。ここからバスだから」
「じゃあ、また演習で」
「またね」
透子は今度こそ歩き出した。
僕は背中を撮ろうとは思わなかった。名前を呼ぶ理由も、もう探さなかった。
*
駅の隣の小さな広場へ出ると、急に膝が頼りなくなった。
腰掛けの端へ座り、本を膝へ置く。表紙越しに太陽の熱が伝わってきた。
ちゃんと話せた、と誰かに言ってほしかった。
真っ先に思い浮かんだのは、同盟の連絡欄だった。失恋の話をしてもいい場所。無理に笑わなくてもいい人たち。
けれど今、その場へ透子の言葉を全部運ぶ必要はない。
僕は自分のノートを開いた。
『返事は変わらない。僕は、続きを待たないと伝えた』
たった一行を、自分の手で書いた。
相手の気持ちを推測する文は続けなかった。
本には、確かにしおりが戻っていた。
貸した時、偶然挟んでいた喫茶店の古いカード。透子が気づいて何か書いてくれないかと、貸したあとで考えたことを思い出す。
裏は白いままだった。
僕はがっかりし、それから少し笑った。何も書かれていないことへ、もう何かを隠した返事を探さなくていい。
昼まで、広場で本を読み直した。
人が写っていなくても時間が見える頁。窓から机へ落ちる光。湯気の消えたカップ。残された椅子。
誰かがいない写真を、いつも失った人の写真にしなくてもいい。
僕は顔を上げた。噴水の向こうを、知らない二人が笑って通り過ぎる。
それが寂しくて、でも、いつまでも目を伏せなくてよい風景だった。
一時になる前、ひよりさんから連絡が来た。
『予定通り行けます。灰色の封筒、全部成功しました』
僕はすぐ返した。
『在庫が二枚増えたね』
『封筒が二つです。紙には戻せません』
『一時四十分、紙店の前で』
『はい。お昼は済ませてきてね』
僕はそこで初めて、朝からパンの匂いだけ嗅いでいたことに気づいた。
今日の昼をどう済ませるかは、このあとの用事だ。午前の話を終えた勢いで、食べたことにしない。
持ってきていた小さな包みを鞄から出し、ベンチで食べた。店の手伝い前によく作る、卵を挟んだパン。冷めた卵の味が、思ったよりしっかり分かった。
*
一時三十七分、紙店の前へ着いた。
ひよりさんはまだいない。約束より三分早いだけなのに、さっき駅で待った時間と違う落ち着かなさがあった。
店先の展示台に、薄い色の封筒が扇のように並ぶ。僕は手を伸ばさず、値札の下の見本を目で追った。
「ちゃんと、見て待ってる」
背後から声がした。
振り返ると、ひよりさんが灰色の封筒を二つ振っていた。鞄は自分で持ち、その上に細いカーディガンを掛けている。
「触っていいか、分からなかったから」
「今日は優等生ですね」
「練習した」
「昨日の今日で?」
彼女が笑う。僕は一度だけ、その顔を真っ直ぐ見た。
封筒を一つ差し出され、受け取った。
「案内を入れる方。私が折ったの、見てもいいですよ」
線が少しだけ斜めだった。重なる端が、上と下で爪一枚ぶん違う。
「上手」
「そういう褒め方、困る」
「じゃあ、折る所が分かる。ここ、ちょっと斜め」
「急に正直」
ひよりさんは自分の封筒と見比べ、頬を膨らませるほどではない、微妙な顔をした。
「同じ方で、二回間違えました。三つ目は、最初から向きを変えました」
「三つ目はどこへ?」
「家。在庫です」
僕は笑った。午前から胸の中で固まっていた所が、初めて息の形へ戻った。
ひよりさんはその笑いを見たあと、少しだけ首を傾げた。
「今日、何かありました?」
僕は反射で、何も、と言いかけた。
聞かない約束は、聞かれたことへ必ず黙る約束ではなかった。
「午前に、前に好きだった人と会った。本を返してもらって、少し話した」
名前も、彼女の言葉も出さなかった。
「ここへ来る前に、済ませたかった?」
「自分で話したかった。今日会えたから、話した。ひよりさんとの予定のために終わらせた、とは言いたくない」
「はい」
ひよりさんは封筒の端を押さえた。
「じゃあ、今日は二つ用事があったんですね」
「うん」
「一つ目を、私に説明し終わらなくても大丈夫です。でも、展示を見る元気がないなら言って」
僕は店のガラスへ映った、自分とひよりさんを見た。
「見たい。一緒に」
「分かりました」
慰めの言葉を探させずに済んだことへ、ありがとうと言いたくなった。
でも、それまで彼女の仕事にしてしまう気がして、代わりに鞄から案内を出した。
受け取った封筒へ、印刷された一枚を入れる。
「折れてない?」
ひよりさんが覗く。
「大丈夫。ぴったり」
「そこは自信があります。案内で測ったので」
彼女が歩き出した。僕も並ぶ。
角を曲がると、展示会場の白い看板が見えた。
午後二時からの扉は、まだ閉まっている。二人で待つには少し早い。
ひよりさんが案内の小さな写真を指した。
「この製本の見本、見たいんです。開いた時、背がどう動くか」
「僕はこっち。光を通す紙」
「一緒に回れそう?」
「どっちも、見たい」
今度の返事は、相手に合わせるためではなかった。
ひよりさんの見たい物を、僕も知りたかった。自分の見たい物も、ここで引っ込めずにいられた。
胸はまだ少し痛い。
駅で聞いた返事は、きっと夜にも思い出す。
それでも、閉まった扉の向こうに、もう一つ返事があるとは思わなかった。
ここで待っているのは、誰かの気持ちが変わる時ではない。
僕が見たいと言い、隣の人も見たいと言った展示が、始まる時間だった。




