聞かない紙とは別に、誘いを一枚渡す
【前回までの人物】
・湊:大学二年生。誰かの恋を気にしても聞かない選択はできると知り、ひよりの紙の中身を決めずに覚えている。
・ひより:小さな紙束を持つ学生。中身は聞かせず、持ってきたことだけ覚えていてほしいと湊へ伝えた。
・怜:失恋同盟の先輩。恋を話してもその場で結論を求めず、参加理由を報告させない確認をまとめた。
・千夏と澪:模型の空いた枠と譜面の消した線を、同盟の意味へ勝手に揃えず自分の制作として扱う。
次の日、ひよりさんは紙束を持っていなかった。
僕は気づいたが、なくしたのかとは聞かなかった。
「今日は軽そう」
鞄の話だけをする。
「紙を入れてないから」
「うん」
「覚えてた?」
「持ってきたことは」
「中身は?」
「決めてない」
彼女は満足とも不満とも言わず、駅前の信号を見た。
昼休みに怜さんから連絡が来ていた。
『次回は集まりではなく、千夏の模型展示を見に行く案。参加自由、理由不要』
千夏本人からすぐ訂正が入る。
『展示じゃない。途中確認。壁一枚と窓だけ。作品完成扱いしないで』
澪さんは、『私は午後の練習があるので二十分だけ』と送っている。
「行く?」
僕が訊く。
「同盟の参加確認?」
「違う。僕が、一緒に行くか聞いた」
「行く。でも、途中で紙店へ寄りたい」
「昨日の紙?」
口にしてから、問いの幅が広すぎたと思った。
「買う紙の話。書いた中身は聞いてない」
「そこまで言い直すんだ」
「必要かなって」
「今は必要だった」
模型室には、千夏の机だけが窓際へ移されていた。
白い壁に五枚の紙窓。端に、何も入っていない枠が一つ。
「空席みたい、は禁止」
千夏は入ってきた僕らへ先に言った。
「言いません」
「同盟が解散しなかったから空けた、も違う」
「用途は?」
怜さんが訊く。
「まだ決めてない。光の抜け方を見てる」
先輩は意味を尋ねず、窓から入る午後の光だけを見る。
澪さんは譜面冊子を持って来た。
「二十分で帰ります。練習の前なので」
「途中で帰る理由、言わなくていいのに」
千夏が言う。
「これは予定の共有です。参加理由の報告とは別です」
「なるほど」
「私が帰ったあと、作品の感想を私の分までまとめないでください」
「それはしない」
ひよりさんは五枚の紙窓を順に見た。白い紙、薄い灰、角が白くひびいた紙、半透明、繊維の粗い紙。
「触っていい?」
「右から二枚だけ。左三枚はまだ固定してない」
「じゃあ、見るだけ」
ひよりさんは手を背中へ回した。
触らないことを、興味がないふりにしない。
僕は空いた枠の向こうへ回った。枠の中には、模型室の白い壁と、千夏の左肩が見える。
「そこに立つと人が入る」
「どきます」
「待って」
千夏が小型カメラを持ち上げる。
「一枚だけ。顔は入れない。肩と枠」
「僕を撮る?」
「枠から誰かがどく途中を見たい」
「失恋同盟の意味では」
「湊」
千夏の声が少し低くなった。
「今、私が撮りたいから。解説を先に付けないで」
「分かった」
シャッターは一度だけだった。
千夏は画面を確認し、僕へ見せるか迷ったあと、カメラを下ろす。
「まだ見せない」
「うん」
「気になる?」
「気になる。でも、撮った人が決める」
「昨日の会、効いてる」
「練習中です」
怜さんは、同盟の連絡欄へ写真を上げるか尋ねなかった。
代わりに、模型室の使用時刻を確認する。
「あと十五分。片付けを手伝える物は?」
「紙箱を閉じて。窓は触らない」
「了解」
幹事だから全部へ意味を付けず、頼まれた箱を閉じる。
澪さんが帰る五分前、ひよりさんは鞄から一枚の厚い紙を出した。
昨日の小さな紙束ではない。紙店の店名と、週末の小展示の日時が印刷されている。
「それ、昨日書いた紙?」
僕が訊く前に、彼女が首を振る。
「別の紙。これは見せる方」
「展示の案内?」
「紙を使った短い文章と製本の見本。私のはまだ出ない」
「見に行くの?」
「行く。湊くんも来る?」
同盟全体へではなく、僕へ向けられた問いだった。
胸が速くなる。
だからすぐ「行く」と言えば、何かを急いで決めた返事に聞こえる気がした。
「何曜日?」
「土曜。午後二時から。用事があるなら断っていい」
「用事はない。行きたい」
「同盟の見学?」
「僕が、ひよりさんと紙を見たい」
言ったあと、模型室の音が一度だけ遠くなった。
千夏はカメラをいじったまま、こちらを見ない。
怜さんも箱の留め具を確かめている。
澪さんは時計を見て立ち上がった。
「私は練習へ行きます。お二人の予定を、全体予定へ入れる必要はありません」
「ありがとうございます」
僕が答えると、ひよりさんが小さく笑う。
「そこ、湊くんがお礼を言う所?」
「違った?」
「少し」
模型室を出たあと、紙店へ寄った。
ひよりさんは昨日と同じ紙を買わず、少し厚い灰色の紙を三枚選ぶ。
「何に使うか聞かない」
「これは聞いていい」
「どっち?」
「案内を挟む封筒。土曜に折る」
「僕の分?」
「一枚は。残り二枚は失敗した時」
「全部成功したら?」
「余る」
「余った意味を聞いても?」
「紙の在庫」
ひよりさんは笑った。
店主は、ひよりさんが三枚を重ねる前に紙の目を指した。
「この灰紙、縦に折るならこちら。横へ折ると毛羽が立ちます」
「封筒にするので、二回折ります」
「中へ何を入れる?」
ひよりさんが一瞬だけ僕を見る。
「展示の案内。厚さは一枚」
書いた紙束のことは言わない。店主もそれ以上聞かず、折り見本を一枚出した。
僕は同じ紙を買おうとして、棚へ手を伸ばした。
「何に使うの?」
ひよりさんが訊く。
「土曜のメモ」
「案内があるのに?」
「見た物を書くかも」
「私と同じ紙にする必要ある?」
言われて、手が止まる。
同じ予定へ行くからといって、同じ紙を持つ必要はない。
「ない。僕はいつものノートにする」
「買うのを止めろって意味じゃないよ」
「分かってる。使い道を先に作って、同じにしたくなった」
「正直すぎる」
ひよりさんは困った顔をしたあと、三枚だけ会計へ出した。
店を出ると、怜さんから個別に連絡が来た。
『模型室で、私が二人の話を聞かないふりをしたように見えたらごめん。全体へ入れない方がいい予定だと思って、箱を閉じていた』
僕は返事を急がず、ひよりさんへ画面を見せるか迷った。
「先輩から?」
「うん。見せてもいい内容か、先に本人へ聞く」
『ひよりさんにも関係するので、転送していいですか』
送ると、すぐ『本人がよければ』と返った。
「見たい?」
「読む」
ひよりさんは僕の手から端末を取らず、横に立って読んだ。
「聞かないふり、ではなかった」
「うん」
「でも、全体へ入れない予定って決めたのは、先輩」
「嫌だった?」
「決めた理由を聞きたい」
ひよりさんは自分の端末から送る。
『気を遣ってくれたのは分かります。土曜の予定を全体へ入れないかは、私たちで決めます』
怜さんの返事は少し間が空いた。
『その通り。先回りしました。二人から共有したい時だけ教えてください』
「謝らせた?」
僕が訊く。
「直してもらった。先輩が悪い人って話にはしない」
僕たちは土曜の予定を全体へ知らせないことを、そこで自分たちで決めた。
「秘密にする?」
「聞かれたら嘘はつかない。でも報告しない」
「同盟の集まりじゃないから」
「それと、まだ展示を見に行くだけだから」
ひよりさんの『まだ』が何に掛かったか、僕は尋ねなかった。
駅へ向かう途中、彼女は灰紙の袋を何度も持ち直した。
「持つ?」
「これは持っていい」
昨日とは違う答えだった。
僕は紙袋の底を両手で支えた。中身は灰紙三枚と折り見本。書いた紙束ではない。
「軽い」
「紙だから」
「昨日も紙だった」
「昨日は、持たせたくなかった」
「今日は?」
「展示の案内を渡したから、同じ用事の紙」
言い方は具体的で、恋の返事にはならない。それでも、僕が持っていい範囲は昨日より一つ増えた。
分かれ道で紙袋を返すと、ひよりさんは受け取る前に底を確かめた。
「折れてない」
「良かった」
「土曜も、紙を勝手に触らないで」
「展示で触っていい物は?」
「表示を読む。分からなければ私に聞く」
「中身を聞いていい紙?」
「展示の紙はね」
二人とも、昨日の紙とは別の話だと分かっていた。
店の外で、彼女は展示案内を僕へ渡した。
「これは預かって」
「昨日の紙とは別」
「うん。昨日の紙は私が持ってる。中身はまだ聞かないで」
「今日の案内は、土曜二時」
「忘れないで」
「覚える」
聞かない紙と、受け取る紙が同じ鞄へ入ったわけではない。
僕の鞄にあるのは、日時と場所が印刷された一枚だけだ。
彼女の紙束の中身は知らないまま。
それでも、一緒に行く約束は、知らない中身を当てなくても作れた。
駅で別れたあと、僕は案内の時刻を予定表へ入れた。件名を『ひよりさんと展示』にしかけて、『紙の小展示』へ直す。
誰かに見せる予定表ではない。それでも、相手の名前を予定の意味に使うより、行く場所を先に残したかった。
ひよりさんから、すぐ追加の連絡が来る。
『当日、私が行けなくなったら展示だけ見に行っていいよ』
『ひよりさんが行けないなら、別の日にする』
送ってから、重い返事かもしれないと思う。
『展示はその日だけ』
『じゃあ、行くかはその時決める。でも、今は一緒に行く予定として覚える』
少し間があり、丸い印が返った。
『私も。行けない理由を全部説明しなくても、予定変更は伝える』
『僕も同じにする』
参加理由を報告させない同盟の約束が、二人の予定にもそのまま使えるわけではない。待ち合わせには、来るか来ないかを知らせる必要がある。
けれど、なぜ来られないかを全部差し出さなくてもいい。
僕たちは秘密を増やす相談ではなく、約束を壊さない連絡の範囲を決めた。
夜、同盟の連絡欄へ怜さんが模型室の確認だけを載せた。
『紙箱片付け済み。作品の意味・完成時期は未確定。次回の集まりは別途』
千夏は親指の印を付ける。
澪さんは練習後に、『二十分で帰りました。窓の感想は本人へ個別に送ります』と書いた。
僕は土曜の予定を全体欄へ書かなかった。
隠すためではない。ひよりさんが僕へ渡した予定を、同盟の行事へ変えないためだ。
個別の連絡へ、ひよりさんから届く。
『案内、なくしてない?』
『鞄の内ポケット』
『写真送って』
僕は案内の表だけを撮った。机の上には、彼女の知らないノートを置かない。
『確認した』
『土曜、駅で待つ?』
『紙店の前がいい』
『分かった。二時の二十分前』
恋かどうかは、まだ誰も報告していない。
同盟も解散していない。
けれど、参加自由の集まりとは別に、僕とひよりさんの予定が一つできた。
聞かない約束は、近づかない約束ではなかった。
知らない紙を開かなくても、見せるために渡された一枚を受け取れる。
僕は案内をノートへ挟み、そこに意味を書き足さなかった。
日時だけが、もう十分に具体的だった。




