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書けない一行は、交換しない

【前回までの人物】

・湊:大学二年生。紙店で、先輩の間違いをすぐ励まさず、一緒に戻る道を選んだ。

・ひより:言葉を扱う大学生。喋らない時間を守りながら、自分で小さな紙束を選んだ。

・怜:湊たちの先輩。道と紙を選び間違え、買わずに条件だけ持ち帰った。

・千夏と澪:模型と譜面へ使う紙を、それぞれの目的で選んだ。

 改札を抜けたところで、千夏が紙袋を落とした。

 中身は床へ散らばらなかった。白い小見本が二枚、透明な袋の中で少しずれただけだった。

「拾う」

 僕が手を伸ばすより先に、千夏は自分でしゃがんだ。

「大丈夫。落としたの私」

「袋、破れてない?」

「角が曲がった」

 彼女は立ち上がり、二枚を駅の照明へ透かした。

「模型に使う前に、もう試験されてる」

「落下試験?」

「床一メートル。条件は雑」

 澪さんが真面目に言い、千夏は笑った。

 怜さんも笑いかけて、少し遅れて手帳を見た。

「次の電車まで十二分。曲がりを直すなら、ベンチで」

「先輩、すぐ予定にする」

「今のも?」

「悪くない。でも、私は家で重しを置く」

「了解。手伝う予定には入れない」

 怜さんは手帳を閉じた。

 紙店で何も買わなかった手に、皆の帰りまで抱え込ませない。


 駅の待合には、空いた長椅子が一つあった。

 ひよりさんは小さな紙束を膝へ置き、封を開けなかった。澪さんは買った冊子を一枚だけ開き、鉛筆で短い線を引く。僕と怜さんは何も買っていない。

「せっかく同じ店へ行ったのに、することが違う」

 僕が言うと、ひよりさんが紙束へ手を置いた。

「同じにするために買ったんじゃないから」

「うん」

「今の、納得が早い」

「反対する所がなかった」

「それならいい」

 会話はそこで止まった。

 止まったから、気まずさを埋めるために次の質問を探さない。


 千夏が透明袋の上から曲がった角を押さえた。

「紙って、何か書くと戻せない感じある」

「消せる物もある」

 澪さんは自分の線を消した。薄い跡が残る。

「戻ってない」

「だから、同じ回数だけ試す。跡も含めて選ぶ」

「私、模型の窓に使うから、文字は書かない」

「用途が違う」

 二人は同じ紙の話をしながら、同じ答えへ寄せなかった。


 怜さんが手帳を開いた。

「次の集まりで使う紙を決めたいんだけど」

「何を書くんですか」

 僕が尋ねる。

「失恋同盟の、次にやりたいこと」

 名前が出ると、待合の空気が少し変わった。

 恋をしたら解散する。失恋した人が集まる。そう決めたのは、痛みを話せる場所を作りたかったからだ。

 けれど、誰かが恋をしたかを確かめる集まりにはしたくない。

「一人一枚?」

 千夏が聞く。

「候補。書かなくてもいい。名前もなし」

「書かない人の紙は?」

 ひよりさんが初めて手帳の方を見た。

「空白で出す」

「出さない、は?」

 怜さんの口が止まる。

「考えてなかった」

「空白を出したら、書かなかったことは分かる」

「そうだね。書かない人へ提出を頼むのは、書けないって言わせるのと同じかも」

 先輩は答えを用意していなかった。


 僕は自分の端末を開きかけ、閉じた。

 いい方法を検索する前に、ここにいる人の用事を聞く。

「読むのは誰ですか」

「皆で、と思ってた」

「交換する?」

 千夏が眉を寄せた。

「自分のを誰かが読んで、誰かのを自分が読む」

「模型の講評みたい」

「失恋の講評は嫌だな」

 澪さんの声は小さいが、はっきりしていた。

「書いたことを、次の予定に使うなら、誰が読んだか分からないと困る。でも、気持ちを出すだけなら、読ませる必要がない」

「じゃあ、二種類?」

 怜さんが手帳へ線を引く。

「共有する予定。共有しない気持ち」

「共有しない方、紙に書く意味ある?」

 ひよりさんが聞いた。

「自分で持ち帰るなら」

 僕が答える。

「書いて、見せずに持って帰る。破ってもいい」

「それなら、同盟へ出したことにならない」

「出さなくていいんじゃない?」

 言ったあとで、僕は皆を見た。

 決めたつもりになっていないか、確認する。


 怜さんは手帳の線を消した。

「予定だけ、共有する。気持ちは、書くかどうかも、誰に見せるかも各自」

「それを決める紙は、いらない」

 ひよりさんが言う。

「口で言える人は言う。言えない人は、言わない」

「うん」

「また納得が早い」

「今度も、反対がない」

「朝倉くん、さっきから安全な返事を選んでない?」

 怜さんが僕を見る。

「選んでるかもしれません」

「何か言いにくい?」

「皆が自分のことを書くなら、僕も何か深いことを書かないといけない気がしました」

 口にすると、自分で驚いた。

 誰もそんなルールを言っていない。

「深いことって?」

 千夏が聞く。

「失恋した時の、一番つらかったこととか」

「それ、いま書きたい?」

「書きたくないです」

「じゃあ、やめよう」

 彼女の返事は早かった。

 励ましも理由もなく、やめるだけだった。


 ひよりさんは膝の紙束を指で押した。

「私、この紙に何を書くか、まだ決めてない」

「文章用じゃなかった?」

 僕が聞く。

「長文で読むのはあと、って言った。書くとは言ってない」

「そうだった」

「勝手に続き、作った?」

「作りました」

「謝らなくていい。でも、違う」

「うん」

 彼女が選んだ紙は、言葉を載せるためだけの物ではない。

 触って確かめるためかもしれない。何も書かないまま持っているためかもしれない。

 僕は、選んだ物から次の気持ちを推測する癖を、一つ見つけた。


 電光板に、次の電車の到着が表示された。

 あと七分。

 怜さんは手帳へ、集まりの予定だけ、と書く。

「次回、何をするか。誰が来るか。時間。持ってくる物。共有するのはここまで」

「来る理由は?」

 澪さんが聞く。

「書かなくていい」

「来ない理由も?」

「いらない。連絡が必要なら、欠席だけ」

「恋をしたから来ない、は?」

 千夏が半分冗談の声で言った。

 笑う人はいなかった。

 同盟の名前にある条件は、誰かを問い詰める口実にもなる。


 怜さんは答える前に、僕たちを見た。

「本人が言うまで、理由を決めない。恋をしたって報告があったら、その人と、同盟をどうするか話す」

「自動で解散じゃないの?」

「名前は、そう。でも、全員の場所を一人の恋で消すのは違う気がしてきた」

「規約変更?」

「まだ提案。今日ここで決めない」

 先輩は、自分の迷いを決定に見せなかった。

「次に話す?」

「話したい人がいるか、先に聞く。恋をしてるか、じゃなくて」

「それなら」

 ひよりさんが言う。

「私は、聞く」

 賛成とも反対とも言わない。話題を聞く、と自分の範囲を選んだ。


 ホームへ移動すると、風が紙袋を鳴らした。

 千夏は透明袋を鞄へ入れる。澪さんは冊子を両手で抱えず、片手で持ち、もう一方を手すりへ空けた。ひよりさんは紙束をまだ開けない。

 怜さんは一人ずつの切符を確認しようとして、途中で止まった。

「皆、自分で見られるね」

「先輩、今日たくさん止まりますね」

 千夏が言う。

「止まる練習中」

「案内は?」

「電光板を見る。出口番号も見る」

「合格」

 紙店で怜さんがエルナみたいに言われたわけではない。千夏はただ、今日の言い方を借りて笑った。


 電車へ乗ると、席は三つしか空いていなかった。

 五人で固まる必要はない。千夏と澪さんが向かいの席へ、怜さんが端へ座る。僕とひよりさんは扉の横に立った。

「座る?」

 僕が聞く。

「次、近いから立つ」

「分かった」

 ひよりさんは窓の外を見た。

 僕も同じ方を見たが、彼女が何を考えているかを当てようとしなかった。


 しばらくして、彼女が小さく言う。

「さっきの紙」

「うん」

「書かないって決めたわけでもない」

「うん」

「何を書くか聞かないで」

「聞かない」

「それだけ」

 返事のあと、電車の音だけが残った。

 僕は嬉しいとも寂しいとも言わなかった。頼まれたのは、気持ちの感想ではなく、聞かないことだった。


 次の駅で、ひよりさんが先に降りる。

「じゃあ」

「また」

 手を振るか迷っている間に、扉が閉まった。

 怜さんが向かいの席から僕を見る。

「朝倉くん、今の顔、何か言いたそう」

「言わない約束をしたので」

「私にも?」

「誰にも」

「分かった」

 先輩は聞き出そうとしなかった。


 千夏が曲がった紙の角を鞄からもう一度出した。

「これ、直す前の写真だけ撮っていい?」

「自分の紙だから、いいんじゃない」

 澪さんが答える。

「今日の失敗を作品に使うの?」

「まだ分かんない。直らなかったら、窓のひびにするかも」

「失敗を全部、意味ある形にしなくてもいい」

 怜さんが言う。

「先輩、それ自分にも言ってます?」

「半分」

 残り半分は、僕たちへだった。


 僕は端末の予定表を開いた。

 次の集まりの欄には、時間だけがある。何を書くか、何を話すか、誰が恋をしているかは空白だ。

 空白を見ると埋めたくなる。

 けれど、今日選んだ紙は、埋めるために交換する物ではなかった。


 書けない一行は、書ける人へ渡さない。

 書いた一行も、本人が見せるまで読まない。

 同じ場所へ集まっても、同じ深さまで話す必要はない。


 電車が次の駅へ滑り込む。

 怜さんは出口を確認し、今度は番号まで声にした。

 僕たちはそれぞれの紙と、それぞれの言わないことを持ったまま、同じ扉から降りた。


 家へ着いて一時間後、同盟の連絡欄に怜さんからメッセージが届いた。

『次回候補:木曜の放課後。話す候補:同盟の名前と、集まりで共有する範囲。参加理由・欠席理由は不要です』

 その下に、投票用の三つの時刻が並んでいる。

 僕は一番遅い時刻へ印を付けた。理由を書く欄はない。

 千夏は早い時刻。澪さんは真ん中。ひよりさんの印は、まだない。


 すぐに決められない人へ、回答を催促する文章を書きかける。

『今日中に入れてね』

 僕は消した。

 締切は怜さんが明日の正午と書いている。僕が今日中へ縮める理由はない。

 代わりに、何も送らなかった。


 千夏から個別に写真が来た。

 曲がった紙の角へ、小さな板を載せている。

『重し。模型の壁より先に、紙を直してる』

『落下試験の結果は?』

『角が少し白くなった。窓のひびに使うか、失敗として捨てるか、明日決める』

『意味ある形にしなくてもいい、って怜さん言ってた』

『だから選べる』

 千夏は、失敗を作品に変えると決めたわけではない。捨ててもいいと分かったから、使う可能性を楽しんでいる。


 澪さんは全体の欄へ、消した線の写真を一枚だけ載せた。

『同じ回数で比較。濃い方が鉛筆、薄い方がシャープペン。紙の感想だけです』

 誰も、線に失恋の意味を付けなかった。

 怜さんが『次の案内印刷の候補にもなる』と書きかけたのか、入力中の表示が一度出て消えた。

 少しして、『比較ありがとう。用途は澪さんの譜面用として受け取ります』と届く。

 先輩も、皆の成果を次の仕事へ集める前に止まったのだと思う。


 ひよりさんからは、時刻の印も写真も来ない。

 僕は紙束を開けたかどうかを想像した。

 書いたかもしれない。触っただけかもしれない。鞄に入れたままかもしれない。

 どれも、聞かないと約束した範囲だ。

 想像することまで止められなくても、それを事実として扱わない。


 夜九時を少し過ぎた頃、ひよりさんから全体欄へ一行だけ届いた。

『木曜、真ん中なら行けます』

 紙の話はない。

 僕は『了解』と打ち、送る前に止まった。

 幹事は怜さんだ。全員へ一人ずつ返事をする役を、僕が勝手に引き受ける必要はない。

 けれど、友達として返事をしたい気持ちもある。

『僕も、真ん中へ変更できます』

 それだけ送った。

 行ける時間を合わせる。何を書いたかは聞かない。


 怜さんから、『では真ん中を第一候補。千夏さんの確認待ち』と届いた。

 多数決で千夏を置いていかず、変更できるか本人へ聞く。

 千夏は少しして、『模型室を一時間早く出れば行ける。無理なら早い時刻のまま』と返した。

 怜さんは木曜の真ん中へ確定し、模型室から駅までの移動時間を勝手に短くしなかった。


 次の集まりは決まった。

 話す候補もある。

 でも、恋をした人がいるかを確認する会ではない。紙へ書いた気持ちを提出する会でもない。

 同盟の名前を、この先も自分たちの場所として使えるか、話したい人の範囲で話す。


 僕は予定表の備考へ、一行だけ書いた。

『聞かない約束を、忘れない』

 これは共有欄へ出さない。自分のための記録だ。

 書けない一行を交換しないように、書いた一行も全部は交換しない。


 端末を伏せると、紙店で買わなかった僕の机には、古いノートしかなかった。

 新しい紙がなくても、次の予定は作れる。

 深い言葉を書かなくても、同じ時間に集まる約束はできる。

 僕は古いノートを開かず、明日の授業の鞄だけを整えた。

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