先輩も、紙を選び間違える
【前回までの人物】
・湊:大学二年生。海辺で、沈黙をつまらない返事にしない時間を過ごした。
・ひより:言葉を扱う大学生。喋らずいたい時も、皆と同じ道を歩くと選んだ。
・怜:湊たちの先輩。駅近くの紙店へ皆を案内する。
・千夏と澪:模型と譜面に使う紙を、それぞれ自分の目的で見たいと思っている。
三時五十二分、怜さんは紙店と反対の階段を上りかけた。
駅の屋根が見えたところで、彼女は案内紙を開き、二歩ぶん止まった。僕たちも後ろで止まる。
「こちらじゃないですね」
怜さんが、落ち着いた声で言った。
千夏が階段の上と、案内紙を見比べる。
「反対?」
「反対です。私、海側から来た時の矢印を、駅側からも同じ向きに見ました」
「ぐるっと回れば同じ?」
「回ったら、閉店までの時間が減るだけ」
怜さんは紙を畳み、来た二歩を戻った。
誰かの予定を案内する時の彼女は、いつも先に時刻と道を確かめる。今日はその人が、一番最初の角で間違えた。
「まだ四十分あります」
僕が端末を見せると、怜さんは一度頷いた。
「朝倉くん。今のは励まし?」
「事実です」
「よかった。先輩が地図を読めない日もある、という感想だったら、店まで引きずります」
「どっちへですか」
「まず正しい方を探します」
その返事に千夏が笑った。澪さんも小さく笑う。ひよりさんは笑わなかったが、怜さんの隣へ並び、案内紙の店名を指で確かめた。
「出口の番号は、こっちです」
「ありがとう。矢印だけ見て、番号を見てなかった」
怜さんは言い訳を足さなかった。
僕たちは駅の反対側へ回った。
紙店の扉を開けると、乾いた木と、少し甘い糊の匂いがした。
棚には白だけでも何段もある。触っていい見本は小さな束に分けられ、売り物の大きな紙は奥の引き出しへ収まっていた。
閉店は四時半。壁の時計は三時五十八分だった。
「全部見る時間はないので、目的を分けましょう」
怜さんが言い、すぐに僕たちの顔を見る。
「……と、私が決めていい?」
いつもなら、そのまま段取りを置いていた。さっき道を間違えたから、急に弱くなった声ではない。皆の時間を、皆へ返す聞き方だった。
千夏が最初に答える。
「私は模型の壁に使う薄いの。色が違う白を二枚くらい見たい」
澪さんは譜面鞄を胸の前へ寄せた。
「私は、鉛筆で書いて消しても、毛羽立ちにくい物です。大きいのは持てないので、冊子か小さい束で」
「私は、文章を印刷した時に、目が疲れない色を見たいです」
ひよりさんが言った。声は海辺より戻っているが、皆へ説明を広げようとはしない。
「僕は写真の台紙です。黒か、濃い灰色」
「分かった。私は催しの案内に使える厚さを見る」
怜さんは手帳へ五つの目的を書いた。
同じ紙を全員へ勧めない。僕たちは店の中で二手に分かれた。
僕と怜さんは、台紙と案内用の棚へ向かった。
濃い灰色の見本へ写真を載せると、海の白い波だけが少し浮いた。黒へ載せると、空まで暗く見える。
「こっち、写真展で見た台紙に近いです」
「似てるね。でも、同じ銘柄かは分からない。店の人に聞こう」
怜さんは知っているふりをしなかった。
そのすぐあと、厚手の紙を一枚取り、指でしならせる。
「これなら、案内を立てても折れにくそう」
店員が近くを通り、紙の札を見た。
「そちらは水彩用です。印刷機によっては、表面が擦れることがあります」
「あ」
怜さんの指が止まった。
「案内の印刷に向いていると思っていました」
「少部数で手書きなら使えます。印刷でしたら、こちらの同じ厚さで、表面の平らな方が扱いやすいです」
店員は隣の見本を出した。
色はよく似ている。触ると、最初の紙にはわずかな凹凸があった。
「前に見た催しの案内が、この感じだったので」
怜さんが言う。
「同じ紙だったとしても、印刷方法は別かもしれません」
「そうですね。見たものから、作り方まで決めてました」
彼女は最初の見本を戻した。
道だけでなく、紙も外した。
僕は何か軽く言おうとして、やめた。失敗を笑いに変えれば、怜さんが恥ずかしくないとは限らない。
「二つ並べて、写真を載せてもいいですか」
「もちろんです。案内と写真では、必要なものも違いますから」
店員が台へ見本を置いた。
僕たちはそれぞれの目的で比べた。
そこへ千夏が、白い見本を二枚持ってきた。
「湊、これ、同じ白に見える?」
「片方、少し青い」
「そう。模型の照明だと、青い方が壁の影が冷たくなる」
怜さんが見本へ顔を寄せる。
「私は、離れると同じに見える」
「離れて見る人には、それも答えかも」
千夏は、年上だから正解を求めなかった。
澪さんは小さな紙束を二つ持ち、消しゴムを使ってよい見本台へ行く。
「一回書いて、一回消してみます。何度も同じ所だけ試すと、使う時と違うので」
「慎重ですね」と僕が言うと、澪さんは首を振った。
「前に、店で触った時は大丈夫だったのに、家で何度も直して、毛羽立たせたことがあります」
自分の失敗を、小さくても本人の経験として出した。
怜さんはその話を、すぐ一般的な教訓へ変えなかった。
「私は、見ただけで作り方まで当てました」
「今日は、失敗を一人一つ出す日ですか」
澪さんが本気で尋ねる。
「競争にはしないでおこう」
僕が答えると、怜さんが笑った。
ひよりさんは、薄いクリーム色の紙を持っていた。
「印刷した見本、読ませてもらいました。白より、こっちの方が私は楽です。でも、長い文章で同じかは、まだ分かりません」
「一枚だけ買う?」
怜さんが聞く。
「今日は見本用の小さい束にします。書く文章まで、紙に合わせて急いで決めたくないので」
「うん」
短い返事だった。
海辺で、僕がひよりさんの沈黙を埋めようとした時とは違う。怜さんは、自分が分かる説明を足さなかった。
棚を移る時、怜さんの手帳から小さな紙片が落ちた。
床へ裏返しになったのは、今日の予定を書いた付箋だった。写真展、海、紙店。その横に、皆の名前と希望が小さく並んでいる。
僕は拾おうとして、怜さんと同時に屈んだ。額がぶつかりそうになり、二人とも止まる。
「どうぞ」
「朝倉くんこそ」
「年上から」
「こういう時だけ使うんだ」
怜さんが拾い、すぐに手帳へ戻した。
僕は見えた名前の意味を、勝手に説明しなかった。けれど、彼女が全員の希望を忘れないよう書いていたことは分かった。
「予定、全部持ってたんですね」
「持ってた。だから、道を間違えた時に、みんなの時間まで落とした気がした」
怜さんは見本棚の端を見た。
「私が行きたいって言った店だから。間に合わなかったら、皆が海から早く戻った意味までなくなると思って」
「海を出たのは、四時までに駅へ戻るためでもあります。紙店だけのためじゃないです」
「分かってる。分かってるのに、失敗した瞬間は、全部を一つにした」
落ち着いた先輩の声の中に、急いだ息がまだ少し残っていた。
ひよりさんが近くの棚から顔を上げる。
「海の時間、なくなってません」
それだけ言い、手にしたクリーム色の見本へ目を戻した。
慰めを長く続けない。自分の時間が消えていないことだけを本人が言う。
千夏も二枚の白を持ったまま口を挟む。
「私は、駅の反対側を見られた。建物の入口、あっちの方が面白かったし」
「課題へ使う気だ」
「使える失敗は使う」
「強いな」
澪さんは消しゴムの粉を小さな刷毛で集めていた。
「私は、閉店までに選べなかったら、買わないつもりでした。急いで違うのを買うより、また来ます」
「皆、先に言ってくれたら、私も急がなかったかも」
「聞かれていなかったので」
澪さんの返事は責める口調ではなく、事実そのものだった。
怜さんは一度目を閉じ、笑う。
「それもそうだ。私が予定を聞いたから、買う所まで希望だと思った」
「僕は見るだけでも面白いって、駅前で言いました」
「朝倉くんは言ってた」
「少し勝ちました」
「何の勝負?」
「失敗を一人一つ出す競争です」
「さっき競争にしないって言ったよね」
今度の笑いは、怜さん自身から出た。
笑えたから失敗が消えたわけではない。間違えた出口も、向かない紙を勧めかけたことも残る。
ただ、そのあとに皆の希望を聞き直す時間があった。
怜さんは手帳の五つの目的を見直した。
「買う、じゃなくて、見る。必要なら持ち帰る。ここ、書き直すね」
「僕のは、番号を控える、です」
「千夏さんは?」
「白二枚の小見本。家の照明で比べる」
「雨宮さん」
「小さい束。長文で読むのは、あとです」
「澪さん」
「冊子を一つ。消した所は、家でも同じ回数だけ試します」
最後に怜さんは自分の欄へ、条件を聞く、と書いた。
皆の分を一人で完了させる段取りではなく、それぞれが持ち帰る途中を並べる表になった。
四時十二分、怜さんは店員へ印刷向けの紙をもう一度尋ねた。
催しの案内に使うなら、屋内か屋外か、折るか立てるか、印刷をどこへ頼むかで選び方が変わる。彼女は質問へ一つずつ答えたが、まだ決まっていない項目もあった。
「屋外に置く可能性があります。でも、濡れる場所へ紙だけでは置きません。印刷先は、候補が二つです」
「でしたら、今日は紙を決めず、仕様を持ち帰るのもいいと思います」
店員は売るために急がせなかった。
怜さんは、財布を出しかけた手を止めた。
「買わずに帰ってもいいんですね」
「使い方が決まってからの方が、無駄が少ないです」
「閉店前に来たから、何か一つ選ばないと、と思ってました」
その言葉が、今日の失敗の真ん中だった。
道を間違えた時間を取り戻すため、紙まで急いで選ぼうとしていた。
「僕たち、見られましたよ」
僕は濃い灰色の見本番号を端末へ控えた。
「写真も載せたし。買うのは、印刷する大きさを決めてからにします」
千夏も二つの白の番号を控える。
「私は小さい見本だけ買う。模型の照明で見る」
澪さんは消した跡を指で確かめ、一冊を選んだ。
ひよりさんも小さい束を持つ。
怜さんだけが何も買わないことになった。
「案内した人が手ぶらです」
「案内、途中で逆でしたけど」
千夏が言う。
「そこは、忘れてくれないんだ」
「今日の建物の向き、課題に使えるから」
「使い道が強い」
怜さんは笑い、それから手帳へ店員に聞いた条件を書いた。
手ぶらでも、見たことまで空にはならない。
四時二十二分、会計を終えて店を出た。
紙の包みは、千夏、澪さん、ひよりさんがそれぞれ自分で持つ。僕は買っていない。怜さんも手帳だけだった。
駅へ戻る道で、彼女は僕の横へ来た。
「朝倉くん。さっき、笑わせようとしなかったね」
「笑わない方がいいと思ったわけではないです。何て言えばいいか、分からなかっただけで」
「それも、言っていいんだ」
「怜さんも、分からないって店員さんに言ってました」
「今日は多かったな。道と、紙と、買うかどうか」
彼女の声に、恥ずかしさはまだ少し残っていた。
「年上の分、先に全部分かっておきたかったのかも」
「僕、二年生ですけど、一年生の澪さんより紙に詳しくないです」
「学年で紙は選べないね」
駅の時計は四時二十六分だった。
四時までに駅へ戻る予定は、商店街の入口へ来た時点で果たしている。紙店の閉店にも間に合った。予定を守ったから、全員が正しい物を買う必要はなかった。
ひよりさんは少し前を、千夏と歩いている。返事をしない時間もある。それでも列から外れてはいない。
怜さんも、失敗したから案内役から外れるわけではない。
「次に来る時は、出口番号から見ます」
「僕も確認します」
「先輩の仕事を取る?」
「一緒に間違える確率を下げます」
「それなら、採用」
怜さんは手帳を閉じた。
何も買わなかった手で、次の予定を抱え込まないように。
改札の手前で、怜さんは一度だけ後ろを見た。紙店の看板はもう通りの角へ隠れている。
「次は、私一人で下見してから、とは言わないでおく」
「一緒に迷った方がいいですか」
「迷わないように一緒に見る。違うね」
「はい」
言い直した声は、先輩らしさを捨てた声ではなかった。分からない所も含めて、次の予定を皆と持つ声だった。
僕たちはそれぞれの紙と、それぞれの間違いを持って、駅の改札へ向かった。




