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18/30

笑わないまま、隣にいる

【前回までの人物】

・湊:大学二年生。海辺で撮りたい写真を言葉にし、千夏へ袋を持ってほしいと頼んだ。

・千夏:湊の幼なじみ。皆の席を先に決めたことを話し、自分も見たい場所を選んでいる。

・ひより・怜・澪:湊と私的な失恋同盟を作った仲間。五人は写真展を出て、海辺でパンを食べたところ。

 ひよりさんが黙っていたことに気づいたのは、三度目に海から顔を戻した時だった。

 端末の時計は、三時八分を少し過ぎていた。千夏は遊歩道の端へ回り、段差を横から見ている。怜さんは包みを畳み、澪さんは鞄の紐へ付いた砂を指で払っていた。

 ひよりさんは欄干の内側に立っていた。端末を出さず、波の来る所を見ている。

 さっきまで、ベンチの植込みの背が高いと笑っていた。その声を、僕はまだ耳の中に持っていた。

「ひよりさん、これ、靴が入っちゃったんです」

 撮ったばかりの写真を見せると、彼女は僕の画面へ顔を寄せた。

「あ、本当だ」

 口元が少し上がる。それで、返事が終わった。

 僕は、何かもう一つ付け足しかけた。写真の失敗を面白く言い直せば、続きを笑ってもらえる。そうしたら、この沈黙に自分が何かしたのではないと、安心できる気がした。

 画面の上で、指を止める。

 写真を見たかったかどうかも、まだ聞いていなかった。

「いま、画面、眩しかったですか」

「少し。でも、写真は見えました」

「明るさ、下げます」

「あ、待って。それ、写真が見づらい話だけじゃなくて」

 彼女は欄干から一歩離れた。

 靴底の下で、乾いた砂が短く鳴る。口を開き、いったん閉じる。その間が、さっきの笑いより長かった。

「ちょっと、喋る方が、お休みです」

 言い方は冗談に寄りかけていた。けれど、僕が笑う前に、彼女は小さく首を振った。

「疲れました。楽しくなかった、じゃなくて。何を見ても、すぐ何か言おうとしてたから」

 僕は画面を暗くし、端末をポケットへ戻した。

 そこで、何も返せない自分まで、急に不親切になった気がした。

「少し、座りますか」

「うん。風が、ずっと顔に来てたみたい」

 彼女は頬へ手を当てた。髪の端が、指と顎の間で揺れていた。


 千夏が戻ってきたのは、僕たちがベンチの方を見た時だった。

「向こう、階段の形が横から見えた。あ、また座る?」

 彼女の手が、紙袋へ伸びかける。僕が持っていることに気づき、先にひよりさんを見た。

「風がない方にする? それとも、海が見える端?」

「風の少ない方。今日は、海、立って見ましたから」

「分かった。こっち、さっき荷物があった所、空いてる」

 千夏は座面の乾いた所を示した。そのまま全員を移そうとはせず、自分の鞄を先に持ち上げる。

 ひよりさんはベンチへ腰を下ろし、両足を地面へ揃えた。肩が下がるのが見えた。

 僕は立ったまま、次の言葉を探した。

 楽しかったですか。何かありましたか。僕がさっき見せた写真、変でしたか。

 どれも、答えてもらうための問いだった。

 ひよりさんは、座っても海の方へ顔を向けていた。

「僕も、ここへ座っていいですか」

 彼女が少し横へ寄った。

「どうぞ。写真、続きは?」

「帰ってから、大きくして見ます。いまは、ちょっと目を休めたいです」

 口にしてから、僕も本当にそうだと気づいた。

 展示室で近くの物と遠くの物を見て、端末でも海でも、何かを見つけようとしていた。撮らずに眺めるだけの時間は、意外と少なかった。

 紙袋を膝へ置き、口を折る。

「私が疲れたから、合わせてません?」

 その問いへ、すぐに、大丈夫です、と返しかけた。

 僕はベンチの前の葉へ目を落としてから、もう一度彼女を見た。

「ひよりさんが言ってくれたから、気づきました。でも、僕も、もう一枚撮るより座りたいです」

「じゃあ、座りたい人、二人ですね」

「はい」

 ひよりさんは頷き、その先の言葉を足さなかった。

 僕も、何かを足さなくてよかった。


 向こうで澪さんが、怜さんへパンの包みを見せていた。

「これ、鞄へ入れると潰れそうで。朝倉先輩の袋へ、戻してもいいでしょうか」

「本人に聞こう。私のは、あとで食べる分も、もう自分で持つから」

 澪さんがこちらへ来る。ひよりさんを見ると声を小さくしたが、歩みまで止めなかった。

「朝倉先輩、上の包み、ここへ置かせてもらっていいですか」

「はい。いま、袋ごと、ここに置いています」

 僕が口を開け、澪さんは残りの包みを置いた。

 誰か一人が静かになったからといって、周りの用事まで全部なくなるわけではなかった。紙が擦れる音も、鞄を持つ音も、そのまま続く。

 ひよりさんは、澪さんの手元を見ていた。目が合うと、小さく会釈した。それだけの挨拶を、澪さんも、笑わせる声へ変えなかった。

 ベンチの足元へ影が伸びてくる。

 潮の匂いの間に、包みの中の焼いた粉の匂いが、時々戻った。僕は端末を出さず、紙袋の折り目を指で押さえていた。

 ひよりさんが息を吐く。

 何か言う前の息かと思って顔を向けかけ、そのまま前へ戻した。

 ひよりさんは、何も言わなかった。

 波が欄干へ届く音を、一つ、二つと聞いた。

 聞こえる物を数えるのをやめても、音はちゃんと続いた。


「湊くん」

 しばらくして、名前を呼ばれた。

 僕が振り向くと、ひよりさんはベンチの背へ肩を預けたまま、こちらを見ている。

「黙ってると、何かあったって、聞かれることが多くて」

「僕も、聞こうとしました」

「分かりました。口が、質問の形だった」

 少しだけ笑った。さっきのように、次の話題を引っ張るための笑いではなかった。

 僕は自分の口へ、思わず指をやった。

「そんなに、分かるんですね」

「私も、するから。相手の返事が短いと、つまらなくしちゃったかなって」

 彼女は、自分の指を膝の上で組み直す。

「今日は、返事を少し、遅くしたいです。何も嫌じゃなくても」

「分かりました。僕も、ずっと、面白い物を探さないでいます」

「それ、やめた途端に、すごく面白い物が来たら?」

 僕は海の向こうを見た。

 ちょうど、船が防波堤の端へ隠れる。特別なことは起こらなかった。

「その時は、見てから、あとで話します」

「うん。それ、聞くの楽しみにしてます」

 言い終わると、彼女は前へ顔を戻した。

 沈黙が、会話の失敗へ戻らなかった。

 僕は隣へ座ったまま、少しだけ、膝の力を抜いた。

 千夏がベンチの前へ来て、時計を見た。

「三時二十分に、ここ出るのでいい? 駅まで、途中でちょっと止まっても、四時には戻れるように」

 怜さんが案内紙を出しかけ、やめて頷いた。

「うん。お店は四時半までだから、そのあとで。海は、そろそろ見納めかな」

「ひよりさん、帰り、段の少ない方にする?」

「歩くのは、平気です。さっきの坂、上からはまだ見てないから、そっちへ行きたい」

 ひよりさんは、すぐに立たなかった。自分の鞄を膝へ置き、紐がねじれていないか確かめる。

 疲れている、と聞くと、僕は、すべてを休ませる方へ進みそうになる。歩きたくないとは、彼女は言っていなかった。

「僕も、上から一回見たいです。帰る途中で、少しだけ」

「分かった。袋、帰りは私が持とうか」

「お願いしていい? 途中、両手を空けたい時があるかもしれない」

「いいよ。いま渡す?」

「立ってからで」

 ひよりさんが、横で少し笑う。

 僕と千夏を何かへ名付ける言葉は、つかなかった。

 そろそろ出よう、と声が掛かるまで、五人は別々の方向を見ていた。


 三時二十分、僕たちはベンチを離れた。

 千夏が袋を持ち、澪さんは譜面の鞄を肩へ掛けた。怜さんは先の分かれ道を確かめてから、皆の歩き始めを待つ。

 僕とひよりさんは、その少し後ろを歩いた。

 海を背にすると、風の向きが変わる。さっき顔へ来ていたものが、上着の背を押した。

 舗道の継ぎ目を越えるたび、靴底から小さな振動が上がる。ひよりさんは、僕の方を向いていなくても、同じ道を歩いていた。

 何度か、口が勝手に開きかけた。

 看板の絵。通り過ぎる犬。さっき食べたパンの名前。

 全部、喋ってはいけない物になったわけではない。見つけた物をすぐ相手へ投げて、その返事で距離を確かめるのを、一度やめてみたかった。

 坂の途中で、ひよりさんが足を止めた。

 僕も止まり、彼女の見ている方へ顔を向ける。

 建物の間に、海が細く入っていた。さっきあれほど広かった水面が、道の先では、窓より小さくなる。

 ひよりさんは何も言わなかった。

 僕も、何も尋ねなかった。

 彼女がもう一度歩き出した時、ちゃんと、二人で見た場所になっていた。


 坂の上で、千夏が振り返った。

「湊、ここから、さっきの段、見えるよ」

 僕はひよりさんを見た。彼女は僕へ、顎を小さく動かす。

「行ってきて。私は、ここの手すりで待ってます」

「僕、そこを見てから戻ります」

 置いていくような気持ちを、急いで消す必要はなかった。

 戻ると伝え、少し離れる。

 千夏が指した所では、海側へ下りる段が、ずれた線のように重なっていた。座れる幅と、立ち止まる幅の違い。彼女がさっき、横から見たかった物が少し分かる。

「下からだと、あの幅、同じに見えなかった」

「うん。いまは、座った人の頭が見える」

「それも、全部同じ高さじゃないね」

 彼女は自分の端末を構え、写真を一枚撮った。僕も、撮る場所を空けてから見た。

 同じ海へ来たのに、持ち帰る物は、皆少しずつ違う。

 ひよりさんの所へ戻ると、彼女は鞄から細い水筒を出していた。蓋を閉め、また鞄へ収める。

「撮らなかったんですね」

「見たかった方が、先でした」

「それも、ありますよね」

 僕は頷いた。端末を出さないまま、見えた段の形を覚えておこうとした。

 彼女へ、撮って見せなくても、見てきたと言えた。


 通りへ出ると、店先の小さな風鈴が鳴った。

 澪さんが音の方を見上げる。次の一つが鳴るまで、誰もその店へ近づかなかった。

「一つだけじゃないですね。二つ、ぶつかった音がします」

 怜さんが、澪さんと同じ所へ耳を向けた。

「よく聞こえるね。私は、最初の一つしか分からなかった」

「あ。違ったら、恥ずかしいです。少しだけ、待ってもらってもいいですか」

 千夏が時計を見て頷く。

「この信号、赤だし。こっち側で待とう」

 風が来る。高い音の後ろに、少し低い音が重なった。

 ひよりさんが、僕の横で顔を上げた。

「あ、本当だ。あとから、もう一ついる」

 その言い方が少し可笑しくて、僕は笑った。

 ひよりさんも笑ったが、そこから皆へ話を広げようとはしなかった。

「二つ、ありましたね」

 澪さんの声が、さっきより明るくなる。

 笑いが戻ったから、もう元どおりだと数えなくてよかった。一つ言って、また黙る。次の信号が青になれば、同じ方へ歩く。

 ひよりさんの返事の速さを、僕が決める必要はなかった。


 三時四十四分、駅へ続く商店街の入口まで戻ってきた。

 海の匂いは薄れ、焼いた豆の匂いが、通りの奥から流れてくる。凪待ちの厨房とは少し違う香りだった。

 怜さんは、鞄から案内紙を出した。

「駅に戻ったら、私は紙を見に行くね。皆は、そのあとも一緒?」

 千夏が、自分の端末をしまいながら答えた。

「私は、見たい。色の違う紙、模型でも使うから」

 澪さんも、自分の譜面鞄を見てから頷く。

「私も、少しなら。大きい物は、今日は持って帰れませんけど」

 僕は自分の返事の前に、ひよりさんを見なかった。

「僕も行きます。写真を置く台紙、見るだけでも面白そうなので」

 そのあとで、ひよりさんが口を開く。

「私も、紙は見たいです。でも、店で喋ってない時間があっても、そのままでいてください」

「うん。私も、選んでると返事しなくなるよ。大きい紙があったら、そこだけ聞くかも」

「そこは、私の手も使ってください」

 返事をしてから、彼女は鞄の紐を持ち直した。

 僕たちはまた、駅の方へ歩き出す。

 ひよりさんは、僕の隣に戻ってきた。空いた所へ、いつものように次の話題を置かなかった。

 僕も、写真を見せ直さなかった。

 胸の中には、ほんの少しの落ち着かなさが残っている。静かな相手といることに慣れたから、何でも分かったわけではない。

 それでも、隣を歩く靴音を、つまらないという返事に取り違えなくて済んだ。

 ひよりさんが僕の方へ目を向ける。

「さっき、座っててくれて、よかったです」

「僕も、座りたかったです」

 同じ返事なのに、海辺で言った時より、言葉が短くなった。

 ひよりさんは頷き、前を向く。

 もう一つ面白いことを言わなくても、その時間が消えなかった。

 駅の屋根が、通りの先へ見えてきた。

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