笑わないまま、隣にいる
【前回までの人物】
・湊:大学二年生。海辺で撮りたい写真を言葉にし、千夏へ袋を持ってほしいと頼んだ。
・千夏:湊の幼なじみ。皆の席を先に決めたことを話し、自分も見たい場所を選んでいる。
・ひより・怜・澪:湊と私的な失恋同盟を作った仲間。五人は写真展を出て、海辺でパンを食べたところ。
ひよりさんが黙っていたことに気づいたのは、三度目に海から顔を戻した時だった。
端末の時計は、三時八分を少し過ぎていた。千夏は遊歩道の端へ回り、段差を横から見ている。怜さんは包みを畳み、澪さんは鞄の紐へ付いた砂を指で払っていた。
ひよりさんは欄干の内側に立っていた。端末を出さず、波の来る所を見ている。
さっきまで、ベンチの植込みの背が高いと笑っていた。その声を、僕はまだ耳の中に持っていた。
「ひよりさん、これ、靴が入っちゃったんです」
撮ったばかりの写真を見せると、彼女は僕の画面へ顔を寄せた。
「あ、本当だ」
口元が少し上がる。それで、返事が終わった。
僕は、何かもう一つ付け足しかけた。写真の失敗を面白く言い直せば、続きを笑ってもらえる。そうしたら、この沈黙に自分が何かしたのではないと、安心できる気がした。
画面の上で、指を止める。
写真を見たかったかどうかも、まだ聞いていなかった。
「いま、画面、眩しかったですか」
「少し。でも、写真は見えました」
「明るさ、下げます」
「あ、待って。それ、写真が見づらい話だけじゃなくて」
彼女は欄干から一歩離れた。
靴底の下で、乾いた砂が短く鳴る。口を開き、いったん閉じる。その間が、さっきの笑いより長かった。
「ちょっと、喋る方が、お休みです」
言い方は冗談に寄りかけていた。けれど、僕が笑う前に、彼女は小さく首を振った。
「疲れました。楽しくなかった、じゃなくて。何を見ても、すぐ何か言おうとしてたから」
僕は画面を暗くし、端末をポケットへ戻した。
そこで、何も返せない自分まで、急に不親切になった気がした。
「少し、座りますか」
「うん。風が、ずっと顔に来てたみたい」
彼女は頬へ手を当てた。髪の端が、指と顎の間で揺れていた。
千夏が戻ってきたのは、僕たちがベンチの方を見た時だった。
「向こう、階段の形が横から見えた。あ、また座る?」
彼女の手が、紙袋へ伸びかける。僕が持っていることに気づき、先にひよりさんを見た。
「風がない方にする? それとも、海が見える端?」
「風の少ない方。今日は、海、立って見ましたから」
「分かった。こっち、さっき荷物があった所、空いてる」
千夏は座面の乾いた所を示した。そのまま全員を移そうとはせず、自分の鞄を先に持ち上げる。
ひよりさんはベンチへ腰を下ろし、両足を地面へ揃えた。肩が下がるのが見えた。
僕は立ったまま、次の言葉を探した。
楽しかったですか。何かありましたか。僕がさっき見せた写真、変でしたか。
どれも、答えてもらうための問いだった。
ひよりさんは、座っても海の方へ顔を向けていた。
「僕も、ここへ座っていいですか」
彼女が少し横へ寄った。
「どうぞ。写真、続きは?」
「帰ってから、大きくして見ます。いまは、ちょっと目を休めたいです」
口にしてから、僕も本当にそうだと気づいた。
展示室で近くの物と遠くの物を見て、端末でも海でも、何かを見つけようとしていた。撮らずに眺めるだけの時間は、意外と少なかった。
紙袋を膝へ置き、口を折る。
「私が疲れたから、合わせてません?」
その問いへ、すぐに、大丈夫です、と返しかけた。
僕はベンチの前の葉へ目を落としてから、もう一度彼女を見た。
「ひよりさんが言ってくれたから、気づきました。でも、僕も、もう一枚撮るより座りたいです」
「じゃあ、座りたい人、二人ですね」
「はい」
ひよりさんは頷き、その先の言葉を足さなかった。
僕も、何かを足さなくてよかった。
向こうで澪さんが、怜さんへパンの包みを見せていた。
「これ、鞄へ入れると潰れそうで。朝倉先輩の袋へ、戻してもいいでしょうか」
「本人に聞こう。私のは、あとで食べる分も、もう自分で持つから」
澪さんがこちらへ来る。ひよりさんを見ると声を小さくしたが、歩みまで止めなかった。
「朝倉先輩、上の包み、ここへ置かせてもらっていいですか」
「はい。いま、袋ごと、ここに置いています」
僕が口を開け、澪さんは残りの包みを置いた。
誰か一人が静かになったからといって、周りの用事まで全部なくなるわけではなかった。紙が擦れる音も、鞄を持つ音も、そのまま続く。
ひよりさんは、澪さんの手元を見ていた。目が合うと、小さく会釈した。それだけの挨拶を、澪さんも、笑わせる声へ変えなかった。
ベンチの足元へ影が伸びてくる。
潮の匂いの間に、包みの中の焼いた粉の匂いが、時々戻った。僕は端末を出さず、紙袋の折り目を指で押さえていた。
ひよりさんが息を吐く。
何か言う前の息かと思って顔を向けかけ、そのまま前へ戻した。
ひよりさんは、何も言わなかった。
波が欄干へ届く音を、一つ、二つと聞いた。
聞こえる物を数えるのをやめても、音はちゃんと続いた。
「湊くん」
しばらくして、名前を呼ばれた。
僕が振り向くと、ひよりさんはベンチの背へ肩を預けたまま、こちらを見ている。
「黙ってると、何かあったって、聞かれることが多くて」
「僕も、聞こうとしました」
「分かりました。口が、質問の形だった」
少しだけ笑った。さっきのように、次の話題を引っ張るための笑いではなかった。
僕は自分の口へ、思わず指をやった。
「そんなに、分かるんですね」
「私も、するから。相手の返事が短いと、つまらなくしちゃったかなって」
彼女は、自分の指を膝の上で組み直す。
「今日は、返事を少し、遅くしたいです。何も嫌じゃなくても」
「分かりました。僕も、ずっと、面白い物を探さないでいます」
「それ、やめた途端に、すごく面白い物が来たら?」
僕は海の向こうを見た。
ちょうど、船が防波堤の端へ隠れる。特別なことは起こらなかった。
「その時は、見てから、あとで話します」
「うん。それ、聞くの楽しみにしてます」
言い終わると、彼女は前へ顔を戻した。
沈黙が、会話の失敗へ戻らなかった。
僕は隣へ座ったまま、少しだけ、膝の力を抜いた。
千夏がベンチの前へ来て、時計を見た。
「三時二十分に、ここ出るのでいい? 駅まで、途中でちょっと止まっても、四時には戻れるように」
怜さんが案内紙を出しかけ、やめて頷いた。
「うん。お店は四時半までだから、そのあとで。海は、そろそろ見納めかな」
「ひよりさん、帰り、段の少ない方にする?」
「歩くのは、平気です。さっきの坂、上からはまだ見てないから、そっちへ行きたい」
ひよりさんは、すぐに立たなかった。自分の鞄を膝へ置き、紐がねじれていないか確かめる。
疲れている、と聞くと、僕は、すべてを休ませる方へ進みそうになる。歩きたくないとは、彼女は言っていなかった。
「僕も、上から一回見たいです。帰る途中で、少しだけ」
「分かった。袋、帰りは私が持とうか」
「お願いしていい? 途中、両手を空けたい時があるかもしれない」
「いいよ。いま渡す?」
「立ってからで」
ひよりさんが、横で少し笑う。
僕と千夏を何かへ名付ける言葉は、つかなかった。
そろそろ出よう、と声が掛かるまで、五人は別々の方向を見ていた。
三時二十分、僕たちはベンチを離れた。
千夏が袋を持ち、澪さんは譜面の鞄を肩へ掛けた。怜さんは先の分かれ道を確かめてから、皆の歩き始めを待つ。
僕とひよりさんは、その少し後ろを歩いた。
海を背にすると、風の向きが変わる。さっき顔へ来ていたものが、上着の背を押した。
舗道の継ぎ目を越えるたび、靴底から小さな振動が上がる。ひよりさんは、僕の方を向いていなくても、同じ道を歩いていた。
何度か、口が勝手に開きかけた。
看板の絵。通り過ぎる犬。さっき食べたパンの名前。
全部、喋ってはいけない物になったわけではない。見つけた物をすぐ相手へ投げて、その返事で距離を確かめるのを、一度やめてみたかった。
坂の途中で、ひよりさんが足を止めた。
僕も止まり、彼女の見ている方へ顔を向ける。
建物の間に、海が細く入っていた。さっきあれほど広かった水面が、道の先では、窓より小さくなる。
ひよりさんは何も言わなかった。
僕も、何も尋ねなかった。
彼女がもう一度歩き出した時、ちゃんと、二人で見た場所になっていた。
坂の上で、千夏が振り返った。
「湊、ここから、さっきの段、見えるよ」
僕はひよりさんを見た。彼女は僕へ、顎を小さく動かす。
「行ってきて。私は、ここの手すりで待ってます」
「僕、そこを見てから戻ります」
置いていくような気持ちを、急いで消す必要はなかった。
戻ると伝え、少し離れる。
千夏が指した所では、海側へ下りる段が、ずれた線のように重なっていた。座れる幅と、立ち止まる幅の違い。彼女がさっき、横から見たかった物が少し分かる。
「下からだと、あの幅、同じに見えなかった」
「うん。いまは、座った人の頭が見える」
「それも、全部同じ高さじゃないね」
彼女は自分の端末を構え、写真を一枚撮った。僕も、撮る場所を空けてから見た。
同じ海へ来たのに、持ち帰る物は、皆少しずつ違う。
ひよりさんの所へ戻ると、彼女は鞄から細い水筒を出していた。蓋を閉め、また鞄へ収める。
「撮らなかったんですね」
「見たかった方が、先でした」
「それも、ありますよね」
僕は頷いた。端末を出さないまま、見えた段の形を覚えておこうとした。
彼女へ、撮って見せなくても、見てきたと言えた。
通りへ出ると、店先の小さな風鈴が鳴った。
澪さんが音の方を見上げる。次の一つが鳴るまで、誰もその店へ近づかなかった。
「一つだけじゃないですね。二つ、ぶつかった音がします」
怜さんが、澪さんと同じ所へ耳を向けた。
「よく聞こえるね。私は、最初の一つしか分からなかった」
「あ。違ったら、恥ずかしいです。少しだけ、待ってもらってもいいですか」
千夏が時計を見て頷く。
「この信号、赤だし。こっち側で待とう」
風が来る。高い音の後ろに、少し低い音が重なった。
ひよりさんが、僕の横で顔を上げた。
「あ、本当だ。あとから、もう一ついる」
その言い方が少し可笑しくて、僕は笑った。
ひよりさんも笑ったが、そこから皆へ話を広げようとはしなかった。
「二つ、ありましたね」
澪さんの声が、さっきより明るくなる。
笑いが戻ったから、もう元どおりだと数えなくてよかった。一つ言って、また黙る。次の信号が青になれば、同じ方へ歩く。
ひよりさんの返事の速さを、僕が決める必要はなかった。
三時四十四分、駅へ続く商店街の入口まで戻ってきた。
海の匂いは薄れ、焼いた豆の匂いが、通りの奥から流れてくる。凪待ちの厨房とは少し違う香りだった。
怜さんは、鞄から案内紙を出した。
「駅に戻ったら、私は紙を見に行くね。皆は、そのあとも一緒?」
千夏が、自分の端末をしまいながら答えた。
「私は、見たい。色の違う紙、模型でも使うから」
澪さんも、自分の譜面鞄を見てから頷く。
「私も、少しなら。大きい物は、今日は持って帰れませんけど」
僕は自分の返事の前に、ひよりさんを見なかった。
「僕も行きます。写真を置く台紙、見るだけでも面白そうなので」
そのあとで、ひよりさんが口を開く。
「私も、紙は見たいです。でも、店で喋ってない時間があっても、そのままでいてください」
「うん。私も、選んでると返事しなくなるよ。大きい紙があったら、そこだけ聞くかも」
「そこは、私の手も使ってください」
返事をしてから、彼女は鞄の紐を持ち直した。
僕たちはまた、駅の方へ歩き出す。
ひよりさんは、僕の隣に戻ってきた。空いた所へ、いつものように次の話題を置かなかった。
僕も、写真を見せ直さなかった。
胸の中には、ほんの少しの落ち着かなさが残っている。静かな相手といることに慣れたから、何でも分かったわけではない。
それでも、隣を歩く靴音を、つまらないという返事に取り違えなくて済んだ。
ひよりさんが僕の方へ目を向ける。
「さっき、座っててくれて、よかったです」
「僕も、座りたかったです」
同じ返事なのに、海辺で言った時より、言葉が短くなった。
ひよりさんは頷き、前を向く。
もう一つ面白いことを言わなくても、その時間が消えなかった。
駅の屋根が、通りの先へ見えてきた。




