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先に決めた、海の見える席

【前回までの人物】

・湊:大学二年生。外出の希望を伝え直し、写真展で過ごす時間と五人の写真を自分でも選んだ。

・千夏:湊の幼なじみで、建築を学んでいる。展示室の外壁を見たあと、海へ向かうパンの袋を持っている。

・ひより・怜・澪:湊と私的な失恋同盟を作った仲間。五人で展示を見てパンを選び、海へ着いたところ。

 海の見える席を見つけたのは、千夏だった。

「あそこ、空いてる」

 潮風に鳴る紙袋を胸へ寄せ、彼女は遊歩道の一段高い所を指した。背もたれのある長いベンチが、低い植込みを挟んで並んでいる。煉瓦の壁が風を受け止め、足元にも日が残っていた。

 海へ来たのは、二時五十分頃だった。

 予定では、ここで三十分。僕は端末で時刻を確かめてから、欄干の向こうを見た。

 細い縦の影が、下の水面で折れている。波が来ると、真っ直ぐだった線がほどけ、一つ戻るたび、別の形になる。

「袋、開けるよ。湊は、こっちでいい?」

 千夏がベンチの端を空けた。

「うん」

 僕は頷き、海から目を戻す。

 ここからでも海は見えた。立っているうちは。


 怜さんが自分の鞄を膝へ移し、ひよりさんが植込みの向こうへ顔を出した。澪さんは譜面の鞄を足の間へ置きかけて、石畳の濡れた筋に気づき、ベンチの端へ載せる。

「ここは、乾いてますね」

 澪さんの指が、鞄の底を確かめた。

「海を見ながら食べる、に、だいたい入ってる?」

 千夏が袋を開けながら訊く。

 ひよりさんは座ってみてから、少し背筋を伸ばした。

「植込みが、なかなか背が高いです」

 千夏が彼女の座った方へ身を屈めた。

「あ。ひよりさん、そっちだと」

「波は見えます。大きいのが来ると、上だけ」

 彼女の言い方に、僕も少し腰を浮かせた。

 葉の間から覗く海は、長い青ではなく、いくつもの小さな欠片だった。

 千夏が袋を持ったまま立つ。

「じゃ、下の方にしようか。あの段なら、前、何もないし」

「私は、ここで食べてから下へ行くよ」

 怜さんが、小さなパンの包みを解いた。

「風に持っていかれたら、今日いちばん高いおやつになる」

「私も、まず一口、ここで食べたいです」

 澪さんはそう言って、袋の中のパンへ目を戻した。

 千夏の手が、そこでようやく止まる。

「そっか。動かす前に聞けばよかった」

「私は、海が見える所へ一回、行ってみたいです」

 ひよりさんは立ち、端末を鞄へ収めた。

 同じ三十分に、五人が同じ席へ座らなくてもよかった。さっき写真展で、分かったつもりでいたことだった。

 千夏は四人で分けるパンを袋の上へ出し、四つにちぎったうちの一つを澪さんへ渡した。僕も自分の分を取り、残りは各自が包み直す。

 ひよりさんも立ったまま自分の包みを開き、一口食べてから畳んだ。

 焼けた表面を噛むと、まだ少し温かかった。塩味が舌に残り、その先へ海の匂いが来た。


 ひよりさんが欄干の方へ歩き出すのを見て、僕は膝の上の包みを畳んだ。

 下の水面には、さっきより長い影が揺れている。

 千夏が僕の目線を追った。

「行く? あっちの方が見えるよ」

「うん。少し、見てくる」

「なら、これ持ってて。私、下りる所見たい」

 紙袋が僕の腕へ渡る。展示室の壁を見る時に持つ、と言った約束を思い出し、僕は受け取った。

 袋の底へ、掌に残っていた温かさが重なった。

 ベンチから欄干までは、歩いてすぐだった。ひよりさんは少し先で海へ向き、こちらへ手を上げてから、また景色を見ている。

 僕は片手で袋を支え、もう片方で端末を出した。

 画面を横にしようとした時、風が袋の口を叩いた。慌てて端末を胸へ戻し、両手で紙の折り目を押さえる。

「湊、そっちの手、空ける?」

 千夏は階段の脇から顔を上げた。

「いや、大丈夫。あとで撮る」

「さっきから見てたやつ?」

 返事をする前に、水面の影が細かく砕けた。

 通り過ぎる小さな船の引き波だった。僕は端末を持つ指を緩める。

 千夏の栗色の髪が、顎の所で風に押された。耳へ掛け直した手が、今度は袋へ伸びる。

「貸して。写真撮るなら、持つ」

「いいよ。千夏が見終わってからで」

「それだと、同じじゃない?」

 声が少し硬くなった。

 僕は彼女を見た。

「何が?」

「私が終わるの、待ってる」

 千夏は袋を引っ張らず、伸ばした手を自分の鞄の紐へ戻した。

 階段へ下りる人が来たので、二人で道の端へ寄る。靴底に、細かい砂が鳴った。


「いま、撮りたかった?」

 千夏が訊いた。

 僕は、水面と彼女の間で一度目を迷わせた。

「撮れたら、よかったかな」

「その答え、分かんない」

 早い返事だった。けれど、その続きはすぐに来なかった。

 少し離れたベンチでは、怜さんが澪さんの包みを指して何か話し、二人で笑っていた。ひよりさんは海の方にいる。僕たちを見て、揃って返事を待っているわけではなかった。

 僕は袋を抱え直した。

「撮りたかった。欄干の影が、水で折れる所」

「だったら、先に言ってよ」

 千夏の声が、また速くなる。

「撮るって言ってくれたら、私だって袋、渡さないし。皆でパン食べられると思って、あそこにしただけで」

 そこで、彼女は口を閉じた。

 僕が何か言うより先に、海へ顔を向ける。

「……いや、私も先に決めた。そこ、座るって」

 潮風が彼女のシャツの袖を膨らませた。

 僕は、千夏が手際よく袋を開けた時の顔を思い出していた。せっかく皆が座れる場所を見つけたのに、僕だけ立っていたら悪い。そう思った。

 でも、その悪い、は、誰にも言われていなかった。

「席、探してくれたのは、嬉しかったよ」

「それと、そこで食べたいのは違う?」

「うん。僕、最初は、あっちで少し待ちたかった」

 影が揺れる所を指す。

 千夏は僕の指の先を見てから、唇を一度、内側へ引いた。

「外したなあ」

 今度の声は小さかった。

「ここなら、皆で海見ながら食べられると思った。植込みは風よけになるし、鞄も置けるし。便利だなって」

「立って見るのと、座って見るの、違ったね」

「うん。立ったまま、見えるって決めた」

 彼女はベンチの方へ目をやった。

 ひよりさんは背を伸ばし、澪さんは鞄の底を触っていた。僕が見ていたのとは違う場所を、千夏も今、思い返しているのかもしれなかった。

 僕は紙袋の縁を、強く潰さないよう持ち替えた。

「僕も、うんって言った。聞かれてない所まで、全部いいみたいに」

「嫌なのに、合わせた?」

「嫌、までは違う。皆で食べるのも、よかった。でも、写真のことを言うの、後にした」

 言葉にすると、少し恥ずかしかった。

 口にしなかった希望を、千夏が見つけてくれるまで持っていた。自分で隠したまま、分かってもらえないのを彼女のせいにはできなかった。

「何も言わない方が、気楽だと思ったんだ。席を探してくれた人に、僕は別の所へ行く、って言うより」

 千夏が、僕へ目を戻した。

「私、それで傷つくかな」

「分かんない。分かんないのに、先に、言わない方へ決めた」

 彼女は短く息を吐いた。

 海の方から、小さな子のはしゃぐ声が聞こえる。声の主は見えず、僕たちはそちらへ顔を向けなかった。

「私も、湊ならこれでいいって、思ってた」

 千夏は言った。

「昔から、段取り出すと、いいよって返ってくるから。頼まれる前にやる方が、早いし」

「早いよ。僕が、頼む文を考えてる間に終わる」

「そこ、いま笑う所?」

「ちょっとだけ」

 僕が答えると、千夏の口元がわずかに動いた。すぐ、真面目な顔へ戻る。

「ちゃんと訊くの、抜かした。ごめん」

「僕も、ごめん。あとでいいって言ったのに、本当は、いま撮りたかった」

 言い終わると、肩の辺りへ風が入ってきた。

 千夏は袋へもう一度手を伸ばしたが、今度は途中で止めた。

「持っててほしい?」

「うん。いま、両手、空けたい」

「はい」

 短い返事の後、袋の重みが僕の腕から離れた。


 僕は欄干の内側へ立ち、端末を両手で構えた。

 さっきの影は、もう同じ形ではなかった。けれど、細い波が来るたび、今の影が水の上へほどけている。

「あれ、待ったら戻る?」

 千夏は画面を覗き込まず、僕の横で海を見る。

「同じには、戻らないと思う」

「そっか。逃したやつ、惜しかったね」

「うん」

 大丈夫だったことにしない返事が、ありがたかった。

 僕はしばらく画面を見たあと、端末を少し下げる。実際の水面を見てから、もう一度、同じ高さへ戻した。

 千夏の袋が鳴っても、風が袖を引いても、いまは両手を画面へ置いていられた。

 波が一つ、欄干の下へ入った。

 縦の線が曲がり、光を挟んで、二つになる。

 そこで一枚、撮った。

 撮れた物は、待っていた物と少し違った。

 画面の隅へ入った靴の先が、僕の立っていた高さも残していた。切り取るかどうかは、帰って、大きくして見てから決めようと思った。

「撮れた?」

「一枚。もう少し、ここで見てる」

「じゃ、私、あの段の所まで行きたい。袋、持てる?」

「持てる。上から見るの?」

「うん。水の高さが変わる所。座る幅だけじゃなくて、人がどこで止まるか見たい」

 さっきより遅い説明だった。

 僕は端末をポケットへしまい、袋を受け取った。

「僕の分も、何か見てきて、って頼まない方がいい?」

「見たかったら、来れば」

「そうだね」

「来なくても、怒らない。見たふりは、あとで分かるけど」

 千夏が笑い、階段の脇へ歩いていった。

 僕も笑ったが、すぐには付いていかなかった。

 立ち止まって、海を見た。

 撮った一枚を送る前に、自分だけで、もう一度見たかった。


 澪さんがベンチから立ち、紙の包みを閉じてこちらへ来た。

「朝倉先輩、その袋、私の残りも入れていいですか」

「どうぞ。上、潰れない方へ」

 僕が口を開けると、彼女は自分の包みを置いた。

 いま食べる分を終えたら、まだ食べている人を急がせずに立ってもよかった。

 怜さんはベンチの端に残り、案内紙を鞄へしまっている。

「私は、あと一口。先へ行ってて」

 その声へ、千夏が段の所から手を上げた。

「遠くには行きません。あ、そこ、荷物なくなったら見てください。座面の端だけ、少し海が見えます」

「いま発見した席ね」

「はい。さっきのおすすめ、訂正です」

 怜さんが少し横へ寄り、海へ顔を向けた。

 ひよりさんは欄干に近い所で、僕たちの方を見た。

「パン、風をよけて食べると美味しいですね。でも、海はこっちで見たかったです」

「別々にしたら、両方できましたね」

 僕が答えると、彼女は頷いた。誰かの顔を直すための笑いではなく、自分で選んだ場所に立っていた。


 千夏が段の所から戻った時、僕は撮った一枚を大きくしていた。

「見ていい?」

 彼女が訊く。僕は画面を彼女の方へ傾けた。

 海を撮ったつもりなのに、拡大すると、色の違う小さな面ばかりになった。風に押されて動く物を、ここへ一つ置いてみただけだった。

「あ、靴」

「僕の。ちょっと入っちゃった」

「消すの?」

「端を切るか、考えてる」

 千夏は画面へ指を出しかけ、自分の手の方を引いた。さっきと同じように、僕の端末は僕の手にあった。

「私は、あってもいい気がする。誰か、ここに立ってるって分かる」

「人、写ってないのに?」

「片足、いる」

 彼女の言い方に、僕は笑った。

 展示室で見た、写真の端の手を思い出す。あの写真を自分で真似したつもりはなかった。でも、写っていない方へも続きがあると、今日は気づきやすかった。

「帰ってから、二つ並べて見る。切った方と、残した方」

「うん。決まったら見せて。私がいた所、どんなふうに見えてたか知りたい」

「千夏がいた所?」

「ここ。いま、袋持ってた所」

 彼女は自分の靴の先で、石畳を小さく示した。

 写真の中に千夏はいなかった。それでも、僕が両手で撮れた時、彼女は隣にいた。

「見せるよ。勝手に、今日の皆の写真と一緒には送らないから」

「そこは、送ってもいいって先に言っとく。皆に私の靴だと思われたら、訂正するけど」

「僕の靴、そんなに嫌?」

「嫌じゃない。私の足、今日より大きくなる」

 二人で画面から目を上げた時、同じ風が頬へ当たった。


 三時八分、僕は端末の時計を見た。

 海の時間は、まだ残っている。駅へ戻る道も、怜さんの紙の店も、このあとだった。

 千夏は袋を受け取ろうとして、僕の手元で止まる。

「今度は、どこ見たい?」

「もう少し、ここ。千夏は?」

「あっちの端から、さっきの段を見たい。形、横から分かんなかった」

「じゃあ、袋は僕が持つ。皆の所へ戻る時、呼んで」

「分かった。先に戻っても、置いてかないでよ」

「戻る時も、言うよ」

 千夏は、よし、と頷いた。

 彼女が先へ歩く。

 僕は、気を遣わなくなったわけではなかった。千夏も、きっと何度も先に手を出す。僕も、その手へ、何も言わず物を渡しそうになると思う。

 それでも、今日は、一度、袋を持ち直せた。

 僕が撮りたいと言い、彼女が持つと答えた分だけ、両手が空いた。

 画面の中に、折れた線と、光がある。

 あとで千夏へ見せる時、僕は、ここがよかったと言える。袋を持っていてくれた人にも、僕が何を見たかったか、ちゃんと話せると思った。

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