写真の外で、笑った人
【前回までの人物】
・湊:写真展も見たいと伝え、皆と外出の予定を作り直した大学生。
・千夏:湊の幼なじみ。写真展の建物も見たいと希望した。
・ひより・怜・澪:湊と私的な失恋同盟を作った仲間。海や紙の店、パンを楽しみにしている。澪は練習後に合流する予定。
待っている人の写真を、僕は待たずに見ようとしていた。
海辺の展示室へ着いたのは、一時二十七分だった。古い倉庫の煉瓦に、新しい硝子戸が嵌まっている。潮の匂いはするのに、海はまだ角の向こうで見えなかった。
告白から十日目の午後。
前日は講義と店の手伝いで終わり、五人の予定は、端末の中だけにあった。その紙が、今日は僕のポケットへ入っている。
「早い」
柱の向こうから、千夏が来た。
髪を耳へ寄せ、肩の鞄を掛け直す。模型の入った箱はない。それでも彼女の目は、僕より先に、壁の継ぎ目へ行った。
「千夏も、早いよ」
「入口、分かりにくいかと思って。反対側にも戸があるんだよね」
「僕は、こっちに来た」
「うん。今日は、こっち」
彼女は言い、僕の持っている案内を覗いた。
そこで、僕の指の下へ視線が止まる。
「もう、出る時刻を見てる?」
僕は紙を少し下げた。
「中で待つ場所があるか、聞こうと思って」
「ああ。澪さんの」
「うん。あと、僕が、落ち着かないだけかもしれない」
言うと、千夏は、そっか、と返した。
何が不安かを、先に全部当てようとはしなかった。
ひよりさんと怜さんは、一時半の少し前に並んで来た。
ひよりさんは薄い上着の袖を伸ばし、怜さんは駅からの道を振り返る。
「紙のお店、今日は四時半まで開いてるって。駅からの道も、今、入口だけ見てきた」
怜さんは言って、鞄から小さなカードを出した。
「ただ、海から戻った時に寄れるかは、その時の足と時間で。私だけ走る会にはしない」
「僕も、走って追う会にはしたくないです」
笑って返すと、ひよりさんが僕の靴を見る。
「歩く準備は、できてそうですね」
「はい。皆さんの分まで、先に疲れないようにします」
「それ、自分の分も忘れないでください」
明るい返事の後、彼女は硝子戸の中へ目を向けた。
白い壁に、写真の端が見えていた。
受付で澪さんとの合流について尋ねると、前掛けではなく灰色の腕章をつけた係の人が、入って右の空いた壁を示した。
会場の仕事をする人の、落ち着いた丁寧な声だった。
「案内板の前は立ち止まる方がいらっしゃるので、こちらの柱の横なら。通路へ広がらずにお待ちいただければ大丈夫です」
「ありがとうございます。遅れて来る人へ、場所を送ってもよいですか」
「はい。会場では通知音を消していただいて、お話の時はこちらへお戻りください」
僕は礼を言い、入る前に澪さんへ連絡した。
右の柱。案内板の正面ではない。着いたら、ここへ。
指で書くだけでは不安になり、入口から見た柱も一枚、撮影してよい範囲を聞いてから送った。展示作品は写さなかった。
澪さんから、練習が終わって片づけ中です、と返事が来た。
僕は、急がないで、と打ちかけて、消す。
最後の入場が二時なのは、彼女も知っている。急がなくてよいと僕が決めるのも、慌ててほしいと頼むのも違った。
『場所、確認できました。先に中を見ています。来られる時刻が変わったら教えてください』
そう送ってから、僕は端末の音を切った。
会場の床は、足音を小さく返した。
港で働く人の写真は、思っていたより大きかった。船の脇へ立つ人。荷車の縁へ腰を掛けた人。こちらを見ていない人の顔が、紙の上に残っている。
僕が案内で見た一枚は、奥の壁にあった。
誰かを待っているように見える人が、船とは違う方へ顔を向けている。
千夏が、隣で少し首を傾けた。
「この人、待ってるのかな。休んでるだけかと思った」
「僕は、誰が来るのか気にしてるように見えた」
「手、開いてるよ。待ってる時って、もっと、何か持たない?」
「千夏は、そうかも」
言ってから、僕は少し笑った。
彼女は、待ち合わせで端末を触るより、模型の端を直したり、案内の線を引いたりしていることが多い。
千夏も、口の端を上げた。
「湊は、手を空けて、待ってる顔してるもんね」
「僕に似てるから、そう見えたのかな」
「似てないよ。帽子が似合いすぎる」
僕は写真の帽子を見た。
言い合いをしながらも、二人の声は自然に小さくなっていた。知らない人の顔を、自分たちの都合で喋らせたくはなかった。
作品の脇の短い説明には、名前と場所と撮影した年がある。
誰を待っていたかは、書かれていなかった。
書かれていない所があると分かって、僕は、むしろ長く見ていられた。
ひよりさんは、少し離れた写真の前にいた。
誰かが笑い、画面の端で、別の誰かが顔を手で隠している。
僕が隣へ立っても、彼女はすぐに笑って説明しなかった。
「こっち、気になりますか」
静かに尋ねると、彼女は頷いた。
「隠れてる人、撮られるのが嫌だったのかなって」
「笑う前だっただけ、かもしれませんね」
「そうかもしれません。私、笑ってない時に撮られると、怒ってる?って訊かれることがあって」
ひよりさんは、口元へ持ち上げかけた手を下ろした。
「怒ってないんですけど。その説明をしてから、笑うのも、少し変で」
僕は、今日の写真をもう一度見た。
笑っている人だけが、楽しい午後にいたとは限らない。
「今日は、写真を撮る時、先に訊きます」
「はい。でも、全員が笑うまで待って、ってことでもないです」
彼女はそこで、少しだけ笑った。
「私の顔だけ、毎回確認会になったら、それも恥ずかしいので」
「分かりました。会は開きません」
そう答えると、彼女の肩が小さく揺れた。
笑わせられた、と数えたくなる癖を、僕は手の中へ置いたままにした。
写真の外で黙っていた時間も、同じようにそこにあった。
一時四十七分、端末が一度震えた。
澪さんが柱の横に立っていた。譜面の入った鞄を右肩へ掛け、息は少し上がっているが、走って入ってきた様子ではなかった。
僕が戻ると、彼女は入口の方へ一度目を向けた。
「写真、分かりやすかったです。ありがとうございます」
「練習、最後まで弾けましたか」
「はい。片づけも、終わってから来ました」
そこで、彼女の声が少し弾んだ。
「昨日より、繋がった所があって。まだ、弾けましたって、全部には言えませんけど」
「その話、あとで聞きたいです」
「はい。いまは、写真を見たいです」
率直な返事に、僕は笑った。
待っていた人が着いたから、すぐ全員の感想会を始めなくてもよかった。
澪さんは、最初の壁から見ると言った。
僕は、奥へ戻る、と伝える。
同じ展示へ来ても、同じ順で並んで歩く必要はなかった。
怜さんは、係留索だけが大きく写った写真の前で、腕を組んでいた。
「これ、何処が主役なんだろうって考えてたら、時間経っちゃった」
僕が来ると、彼女は写真の端を指さず、顎を少し向けた。
「人の写真を見に来たつもりだったから、ロープだけ、って思っちゃったのよね」
「向こうに、手が少し写ってます」
「本当だ。私、下の影ばっかり見てた」
彼女は身を寄せ、すぐに笑った。
「教える顔して見てたら、恥ずかしかった」
「僕も、帽子の人は待ってるんだって、先に決めてました」
「決めてから見ると、そっちだけ目に入るね」
二人で、もう一度、少し離れて見た。
縄を引く力は写っていても、引いている人の顔はない。その人がいない写真ではなかった。
怜さんが、静かに息を吐く。
「絵葉書を見たくなる。さっき見なかった端まで、持って帰ってから見られるから」
「この展示のは、売っているんでしょうか」
「まだ見てない。出る時に、覗こう」
彼女の知らないことを聞けるのも、一緒に来た意味だった。
二時二十分の少し前、僕は時計を見た。
見たい一枚の前へ、もう一度戻る。
最初と同じ顔なのに、待っているかどうかを、急いで決めなくなっていた。
千夏が入口の方で、僕を探しかけて止まった。目が合うと、壁の外を親指で示し、そのまま待ってくれる。
僕は最後まで見てから、彼女の方へ歩いた。
「まだ、見たかった?」
「ううん。いまは、外へ行きたい」
「よし。私、壁」
「十五分ですね」
後ろから澪さんの声がし、五人がそこで揃った。
怜さんは展示の小さな案内紙を一枚買っていた。自分の財布で買った物を鞄へ入れ、パンは次、と笑う。
僕は何も買わなかった。写真が頭に残っているうちに、海の光も見たかった。
外壁へ回ると、千夏の歩く速さが変わった。
古い柱と新しい梁の継ぎ目を見るために止まり、真下からでは見えないと、一歩戻る。
「この金物、昔からあるみたいに見せてるんじゃなくて、新しいって分かる形にしてる」
「古い方へ合わせないの?」
僕が訊くと、彼女は首を振った。
「合わせる所もある。でも、全部同じ顔にすると、どこを直したのか分かりにくくなるから。……たぶん、ここの設計は、そう考えたんじゃないかな」
言い切らずに、もう一度、繋いだ場所を見る。
ひよりさんが、彼女と同じ方へ顔を上げた。
「直した跡が残るの、私は、嫌いじゃないです」
「うん。私も。でも、雨漏りしたままで、味があるからいい、は嫌」
千夏の返事に、澪さんが笑った。
「楽器も、音が出ないまま、古くて素敵だけだと困ります」
「ね。使う人がいるんだもん」
話す速度の上がった千夏を、僕は少し離れて見た。
十五分待つ約束を、退屈を我慢する時間だと思っていなかった。
彼女が好きな物の前に立つ顔を、僕は今日、初めてこの角度から見ていた。
パン屋へ着いた時、二つ繋がった丸いパンは、まだ棚にあった。
澪さんが、すぐに手を伸ばさず、札を読む。甘い生地か、塩味か。中身に何が入っているか。
千夏が、前に食べた方を指そうとして、途中で止めた。
「澪さんは、どっち食べたい?」
「今日は、こっちです。甘くない方。皆さんは?」
「私は、甘いのを一つ」
ひよりさんが答える。
怜さんは、小さい物を別に選んだ。
僕も、自分が食べたいパンを一つ取った。五人だから全部を一個へ揃えなくても、分けたい人が分ければよかった。
共用する二つ繋がりのパンは、希望した四人で店の会計時に割り、各自の分は別に払った。澪さんの選んだ物を、僕が当然のように奢る話にはしなかった。
千夏が紙袋を受け取る。
「私が持つやつ、これね。途中で壁を見たくなったら、湊」
「はいはい」
「二回返事しない」
昔からの言い合いに、澪さんが肩を揺らした。
店を出ると、温かいパンの匂いが、潮の方へ細く伸びた。
海へ曲がる前に、僕は端末を取り出した。
「写真、一枚、撮ってもいいですか。パンを持ってる今の」
ひよりさんは、少し考えてから、いいですよ、と言った。
怜さんが、僕の空いた所を見る。
「湊くんも、入る?」
「僕は、撮る方で」
言ってから、会場の写真の端の手を思い出した。
写っていなくても、その場にいた。けれど、今日は、僕も入っている一枚が欲しかった。
「……やっぱり、入ります。ここへ置いて、時間を合わせてもいいですか」
通りを塞がない低い縁へ端末を置き、落ちない向きか確かめる。五人が集まる幅を、一度画面で見た。
戻る時に急いだせいで、僕だけ少し肩が上がった。
「湊、息」
千夏の短い声へ、僕は息を吐く。
笑顔を揃える号令は、誰も掛けなかった。
澪さんはパンを見ていて、怜さんは少し横を向き、ひよりさんの口元には、笑う直前みたいな小さな隙間があった。
撮れた画面を、五人で覗いた。
「私、袋しか持ってない顔」
千夏が言う。
「ちゃんと、柱も見てた顔だよ」
僕が返すと、彼女は、どんな顔、と笑った。
撮り直してほしい人がいないことを聞いてから、僕は写真を五人へ送った。
失恋同盟の記録、とは書かなかった。
千夏もいる、今日一緒に出かけた五人の写真だった。
海は、曲がった先で急に広がった。
ひよりさんが、言葉を止める。
僕は、面白いことを言いかけて、そのまま景色へ顔を向けた。
予定表には、三十分と書いてある。
でも、その三十分を全部、喋って埋める約束ではなかった。
パンの紙袋が風で鳴り、澪さんが両手を使う前に、千夏が持つ位置を少し変える。怜さんは、座ってよい所があるか、道の先へ目をやった。
僕は五人の歩幅の中へ、自分の足を置いた。
写真の外にも、まだ、残して帰りたい午後があった。




