第二十五話「帰還の道」
第二十五話「帰還の道」
帝国から王国へ戻る道は、行きよりも長く感じられた。
来るときは急いでいた。次へ、さらに次へと急かされるように動いていたから、距離は意識の外にあった。
だが今は違う。
急ぐ理由が消えたことで、足取りそのものが重くなる。むしろ歩くたびに、戦いの疲労が遅れて追いついてくるようだった。
三日目の朝、ライラが静かに言った。
「顔色がよくありません」
「そうですか」
「昨日より悪化しています。一度休みましょう」
セラも肩をすくめた。
「急いで帰る必要はないだろ。エリア嬢にもバルドにも連絡は入れてある。待ってくれている」
「ですが……」
「“ですが”は禁止だ」
セラの言葉はいつも雑だが、妙に正しい。
「倒れる前に止まれ。それが生きて帰るやつの判断だ」
反論しようとして、喉が詰まった。
体のほうが先に限界を認めていた。
その日のうちに、近くの街で宿を取った。
部屋に入ると、ベッドに倒れ込むように横になった。
眠れるか不安だったのに、意識はすぐ途切れた。
――気づけば、夕方だった。
窓から橙色の光が差し込んでいる。
椅子にはライラが座っていた。古い書物を読んでいる。ページは細かく、長い時間をかけて読む類のものだ。
「起きましたか」
「ずっとここに?」
「はい」
「なぜですか」
「鼻血が出ていましたので」
「……そうでしたか」
「二度ほど。拭いておきました」
「ありがとうございます」
ライラは本を閉じた。
「神の魔力の影響は予想以上です。完全に回復するには数週間は必要でしょう」
「動けないわけではないですよね」
「動けます。ただし、限界を越えれば、今度は血では済みません」
「わかりました。気をつけます」
「“気をつける”では不十分です」
ライラは淡々と続ける。
「毎朝、魔力の流れを確認します。異常があれば止めます」
「了解しました」
「約束です」
「はい」
その言葉には、妙な重みがあった。
夕食はセラが宿の厨房を借りて作っていた。
最初は渋っていた宿の主人も、食材持ち込みと後片付けを条件に折れたらしい。
皿の上には、鶏肉と根菜の煮込みが並んでいた。
「帝国の食材は香辛料が強いな」とセラが言う。「少し調整した」
「美味しいです」
「だろ」
ライラが少し驚いたように皿を見る。
「同じ材料でも、ここまで変わるのですね」
「料理も魔法みたいなもんだ。基本が分かれば応用できる」
「それは少し違います」
「またそれか」
「違う部分のほうが多いです」
「細かいな」
「正確であるべきです」
セラは肩をすくめた。
「お前といると気が楽だ。適当さを気にしなくていい」
「それは褒めていますか?」
「褒めてる」
「では受け取ります」
その夜は静かだった。
会話は少ないのに、不思議と居心地がよかった。
翌日、国境を越えて王国へ戻った。
整然とした帝国の街道とは違い、王国の景色は少し雑多で、人の生活の匂いが濃い。
「懐かしいですか」とライラが聞く。
「まだ三ヶ月なので」
「何が一番変わりましたか」
少し考える。
「一人じゃなくなったことです」
「それだけですか」
「それが一番大きいです」
ライラは小さく頷いた。
「急がなくていいですね」
「はい」
「千年の経験から言います」
「説得力がありますね」
「あります」
セラが横から口を挟んだ。
「俺は待つのは苦手だ」
「知っています」とライラ。
「即答するな」
「観察です」
王都の外れに着いた頃、バルドからの手紙が届いていた。
短い文面だった。
――生きているならそれでいい。北は守っている。無理はするな。
それだけで十分だった。
返事を書いた。
――生きています。すべて終わりました。戻り次第、報告します。
次にエリアへ。
――帰ります。約束通りです。会ったら話したいことがたくさんあります。
ライラが後ろから見ていた。
「短いですね」
「直接話します」
「そのほうがいいと思います」
夜、小さな広場の噴水のそばに三人で座った。
水音が静かに響いている。
セラが空を見上げる。
「三つの月は、王国のほうが綺麗だな」
「灯りが少ないからです」とライラ。
「見上げるにはそれがいい」
しばらく沈黙が続いた。
やがてセラが言った。
「アレク、一つ聞く」
「なんですか」
「満足してるか」
少し考えた。
「はい」
「全部か?」
「全部じゃないと今はないです」
セラは鼻で笑った。
「嫌なことは?」
「牢の四日間です」
「それだけか」
「追放された日も嫌でした。でも今は意味があります」
「前向きすぎるな」
「過去は変わりませんから」
セラは空を見た。
「俺は、お前に会ったときが一番面白かった」
「理由は?」
「死んでなかったからだ」
「死んでいなかった?」
「目が生きていた。追放された人間の目じゃなかった」
少し間があった。
「だから付いてきた」
「今は?」
「習慣だ」
「習慣?」
「隣にいるのが普通になった」
ライラも静かに言った。
「私も同じです」
「同じ?」
「あなたの隣にいることが、自然になっている」
不思議な言葉だった。
だが、違和感はなかった。
翌日、王都の門が見えた。
三ヶ月前と同じ場所なのに、まるで別の場所に見える。
「帰ってきましたね」とライラ。
「はい」
「どう感じますか」
「帰ってきた、という感じです」
門をくぐる。
人の声、生活の音、すべてが一気に戻ってくる。
三人で歩き出した。
もう、ただの移動ではなかった。
“帰還”だった。
宿に荷物を置いたあと、セラはすぐ食堂へ向かった。
「先に食う」
「元気ですね」
「腹は減る」
「それは変わらないですね」
「世界を救ってもな」
夜、部屋に戻る。
ライラが扉の前で言った。
「明日、エリア殿のところへ?」
「はい。今日は休みます」
「怖いですか」
「怖いというより、整理が必要です」
「準備ですね」
「はい」
ライラは少しだけ微笑んだ。
「眠れなかったら来てください」
「大丈夫です」
「約束です」
扉が閉まる。
部屋に一人。
窓の外には王都の夜。
三つの月。
静かな光。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
すぐに意識が落ちていった。
(第二十六話へ続く――「村へ」)




