【第8話】鉛の風車
テーブルの向こうから、橙色の目がこちらを見ていた。
カブだ。
ヤマサンの肩から下ろされた小さなトカゲが、前脚をテーブルの角へ掛け、じっとしている。琥珀が椅子を引くと、その目もわずかに動いた。
ガジュ丸を膝へ隠すように抱えた。
また跳んでくるかもしれない。
「そない怖がらんでも。こいつ、ちっこいやろ」
ヤマサンは笑ったが、琥珀の顔を見て、カブを自分の方へ寄せた。
その指が背中を撫でる。硬そうな鱗の上を、ごく慣れた手つきで。
琥珀は、自分の指先を見た。
幼い頃、父の書斎にトカゲがいた。ヨロイトカゲという高級なものだった。
檻の中からの視線は、琥珀には、外へ出たがっているように思えた。扉を開け、ゆっくり両手で抱こうとした。しかし、トカゲは身体を捩り、そのヨロイが彼女の指を擦った。
血が滲んだ。
驚いて泣きながら、父に手を見せた。
「悪気があったわけじゃないさ」
父はそう言った。
ひどく穏やかな声だった。しかし、その目は琥珀の指ではなく、檻の中へ戻されたトカゲを見ていた。
あんな顔をするのだと、その時、初めて知った。
勝手に檻を開けたことを叱られたわけでもない。痛かったかと聞かれたわけでもなかった。父が書斎を出ていったあとも、琥珀は手を差し出したまま立っていた。
傷の痛みは、もう思い出せない。
でも、あの眼差しは覚えている。
父がトカゲに向けた慈しみの眼差し。
心臓がしぼんでしまうような寂しさ。
琥珀は膝の上で指を丸めた。
目の前のカブは、何もしていない。けれど、その小さな鱗を見ると、今でも自分が檻の前に取り残された記憶が甦った。
*
放送局には、料理の匂いが満ち始めていた。
奥の小さなキッチンで、円花と一花が並んでいる。椎茸を焼くらしい。円花が火加減について何か言うと、一花が皿を差し出し、短く答えた。
ミナトの帰りを待っているのだ。
琥珀はガジュ丸へ口を寄せた。
『〝目〟って……危険なの? ヤマサン』
カブが機械の声へ顔を向ける。
ヤマサンはカップを置いた。
「ああ、コハちゃん、ずうっとシェルターやったんやな。サイレン、びっくりしたやろ」
琥珀は頷いた。
「〝目〟いうんは、台風の目みたいなもんや。普段はあの暴風で外へ出られへんけど、それが来たら、すかーっと晴れる。そこを狙うて、みんな外へ行くんや」
レギーナと眺めた海を思い出した。
太陽が水の向こうを泳ぎ、瓦礫の街まで美しく見えた、短い時間。
「日本の周りを、おっきな目が行ったり来たりしとるらしいわ。どこへ来るか読むんは、ヨホウシの仕事やな。……外、見たやろ? あれ、絶景や。元はよう歩いとった街やのになあ」
話しながら、ヤマサンの手が大きく弧を描いていた。
琥珀はその動きを追い、それからもう一度、ガジュ丸へ囁いた。
『ミナトは、大丈夫かなあ』
ヤマサンの手が止まった。
「ああ。そっちやな。すまんすまん、ワイばっかり喋っとったな」
頬を掻き、少し声を落とした。
「危なくないとは言われへん。足場はすぐ崩れる、時間が経って目が過ぎたら強風も戻る。せやけどな、あいつは慣れとる。昔、パルクールの大会で優勝したこともあんねやで」
ヤマサンは指を二本、テーブルの上に立てた。走らせるように動かし、カップを登り、皿までの隙間を跳ばせる。
「壁やら手すりやら、ひょいひょい越えていくやつや。今なんか、そこにペンデュラムまであるやろ。ワイが足場を確かめとる間に、あいつ、もう次の建物や」
誇らしげな口ぶりだった。
琥珀は、その指先を見ていた。彼もまた、ミナトが戻ってくるのを、当たり前のように待っている。
奥で、皿の触れ合う音がした。
「それ、焼きすぎじゃない?」
「……まだ、裏返したところ」
円花の声に一花が答える。
琥珀の肩から、少しだけ力が抜けた。
ヤマサンがカップを取り上げた。その袖口に、乾いた土がついている。
ミナトが言っていたことを思い出した。
『〝トカゲの手も借りたい〟って、ヤマサンのこと?』
彼はカブを見て、それから笑った。
「ミナトやな。せやせや。こいつは見とるだけで全然手伝わへんねん」
カブは瞬きもしなかった。
「花畑をこしらえとるんや。咲きかけの花を少しずつ集めて、あっちの丘にな」
ヤマサンは大きな身体を屈ませ、親指で部屋の外を示した。
「ある作戦のためにや。コハちゃんにその手伝いをしてほしいんやけど」
作戦。
琥珀が首を傾けると、ヤマサンは人差し指を唇の前へ立てた。
「ここだけの話やで」
*
「なあ、ミナトくん。作戦があるんだ」
旧・押上駅の出入り口で、ソラが言った。
ミナトは装具の留め具から顔を上げた。目の前で、小さなハンマーがくるりと回り、ソラの掌に収まる。
蛍光色の飛沫模様が散った作業着。三色を編み込んだ太い三つ編みが、重量感を誇示して肩に乗っている。薄暗い駅の隅でも、こいつだけは見失いようがない。
「何だよ」
「女王を、東京タワーごと墜っとすのさ」
ソラは、でたらめな節をつけて歌った。
ミナトが鼻で笑うと、ハンマーの動きが止まった。
「マジだよ」
ソラは笑っていなかった。
しばらく、二人の間を風の音だけが通った。
アークから戻ってくる途中、ミナトは何度も時間を確かめていた。そろそろ目が来る。耐風シャッターの向こうでは、ファンの唸りが少しずつ低くなっていた。
鉛の風車。
かつて地下鉄の換気に使われていたジェットファンは、今では、地表の暴風を受けて電気を生んでいる。
その回転の変化が、目の近づく方角を報せる目印にもなっていた。
ソラが壁際の表示器を覗いた。
各駅から集まる数値が、地図の上で更新されていく。ひとつの駅の回転が落ち、その隣も落ちる。その順を辿り、速度を比べて、ヨホウシたちは晴れ間の動きを読む。
先ほどアークへ届いた声も、ここから送られたものだった。
「……来たな」
ミナトの足元で、風が弱まった。
ソラが表示を確かめ、操作盤に手を掛ける。耐風シャッターがゆっくり開き、白い光が通路へ入り込んできた。
外の唸りが遠のいていく。
ファンの羽根が、ようやく一枚ずつ見える速さになった。
ミナトは縁へ近づき、足元を覗いた。
空が晴れていた。
遥かな水の底を、太陽が進んでいる。
頭上へ目を移すと、荒れた墨田区の街があった。ビルの列を辿った先、そこにあるはずのスカイツリーは、もうない。
嵐と地震にもぎ取られ、基盤の残骸だけが大地から突き出していた。
残ったのは、東京タワーだ。
風の抜ける格子の塔は今も街にぶら下がり、女王の声を東京中へ届けている。
ミナトは、もう一度ソラを見た。
あの塔ごと。
言葉にしようとした時、スピーカーから音楽が流れた。
軽やかな三拍子。
古い遊園地の、回り続ける乗り物に似合いそうな旋律だった。
ソラが顔を上げた。
ミナトも動きを止めた。その音楽のあとに何が来るか、二人とも知っている。
『……罪人のお知らせだ』
女王の声がした。
『また一人、秩序を乱す者がいた。私に銃口を向けた反逆者だ。残念だが、すぐに死刑となった。仲間も数名いるだろうが、時間の問題だ』
晴れた街に、声が通る。
目の前のスピーカーから。遠くの駅の出入り口から。地下で誰かが食事をしている、そのすぐ傍から。
『お前たちは家族だ。安心しなさい、私が守る。さあ、新人類を築き、共に新世界を歩もう』
放送が終わった。
すぐには誰も口を開かなかった。
ミナトの手は、ペンデュラムのグリップに掛かっていた。指を一本ずつ掛け直しても、握りつぶしたい感触は消えなかった。
「勝手に狙撃した、あの馬鹿だろ。まったく」
ソラが呟いた。
ハンマーを収め、銀色のホバーバイクへ跨がる。起動音が静けさを破り、巻き起こった風がミナトの髪を揺らした。
機体は縁を離れ、白い光の中へ滑り出していった。
ミナトは、まだ動かなかった。
女王が安全を保障してくれる。
その中で、お宝探しのハンターごっこ。
自分で口にした言葉だった。
コハクは、すぐには頷かなかった。
ミナトは空を見下ろした。
ここに手足を預けている時だけは、誰に次の一歩を決められることもない。鉤爪を掛ける場所も、飛び移る先も、自分で選ぶ。
その空に、人が棄てられる。
家族を守るという声とともに。
グリップを握る指に、力がこもった。
さっきまで笑っていた少年の顔から、笑みは消えていた。




