【第7話】歌姫
壁の星を見ていた。
角の浮いた、小さな紙の星。そこへ目を留めていれば、振り返らずにいられた。背後で椅子がかすかに鳴り、それきり部屋が静まる。
琥珀はガジュ丸を持ち上げた。緑の光が指の間を照らしている。
息を吸った。
唇を開いたが、最初の音は出なかった。
待ってくれている。
そう思うほど、背中に意識が集まった。早く歌わなければ。せっかく、価値があると言ってくれたのに。
指先に力が入り、丸い機体が掌へ食い込む。
ガジュ丸の駆動音が聞こえた。
小さく、いつもと同じ調子で。
琥珀は目を閉じた。
シェルターで歌っていた時も、この音がしていた。歌詞を忘れると、ガジュ丸が勝手な続きをつけて、違うよ、と何度も笑った。
あの部屋では、上手に歌わなければと思ったことなどなかった。
息を吐く。
さっきよりも、少し長く。
ミナトは、あの歌を聞いてくれた。
自分では思い出せない、彼だけの景色を見たと言っていた。
もう一度、そこへ届けばいい。
細い音が、唇から溶け出した。
『怜悧な伴よ 我が詩の音は
衰微翻し 再び辞さない――』
最初の一節は、吐息に近かった。
けれど次の音を探すうち、握り締めていた指が緩んだ。旋律は覚えている。息を継ぐ場所も、母がいつも少しだけ長く伸ばした音も。
琥珀は、自分の声を聞いていた。
シェルターの壁で途切れていた響きが、今は背後へ流れていく。その先に人がいることを思い出しても、歌はまだ続いていた。
ミナトが、机の脇へ身を引いた。
琥珀の背後を広く空けようとした、その肘が放送用ミキサーのスイッチに触れた。
小さなランプがひとつ灯る。
卓上マイクの拾っていた声が、屋外の回線へ流れ始めたことに、誰も気づかなかった。
*
アークの奥、栽培槽の間を抜けた先に、円形の広場があった。
第一立坑。
かつて地上の水を地下へ導いていた巨大な筒は、今では、闇を湛えた井戸のように頭上へ伸びている。逆さの螺旋階段がその壁を巡り、やがて人工灯の届かない高さで見えなくなっていた。
その底に、土を盛った小さな丘がある。
ひとりの男が屈み込み、苗の根元へ培養土を寄せていた。
指先が、止まった。
柱に取り付けられたスピーカーから、歌が聞こえる。
男は顔を上げた。肩の上で、小さなトカゲも首を傾ける。
いつもの連絡放送ではない。機械の声でも、聞き慣れた二人の声でもなかった。
土のついた手を膝へ置き、男はしばらく耳を澄ませた。
やがて、くしゃくしゃの髪を手の甲で撫でつけると、ゆっくり立ち上がった。
通路でも、人が足を止めていた。
木箱を運んでいた老人が、荷を下ろしたまま動かない。栽培槽へ腕を伸ばしていた人が顔を上げ、近くの人と目を合わせる。
泣いていた幼子が、口を半ば開けたまま、スピーカーを見ていた。
水は流れ続け、人工灯も変わらず葉を照らしていた。
しかし、その下にいる人々だけが、少しの間、今していたことを忘れていた。
*
最後の音が、琥珀の唇を離れた。
ガジュ丸を下ろしても、しばらく振り返れなかった。歌っている間には忘れていた怖さが、静けさとともに戻ってくる。
何か、間違えただろうか。
誰かが息を吸う音がした。
「……歌姫」
小さな声だった。
琥珀は、ゆっくりと振り向いた。
一花が口元に指を当てていた。目の縁が濡れている。隣の円花は、何か言おうとして一度唇を閉じ、それから大きく息を吐いた。
「……びっくりした」
ミナトだけが、すぐに笑った。
「な。最っこーな宝だろ」
琥珀は彼を見た。
あの扉の前と同じ、まっすぐな笑顔だった。
円花が拍手をした。一花もそれに続く。
狭い部屋で鳴る音に、琥珀は肩をすくめた。顔が熱い。どこを見ればいいのか分からず、ガジュ丸へ目を落とすと、羊も得意そうにこちらを見ていた。
届いたのだ。
誰かを思い出して歌うだけだったものが、目の前の人の顔を変えている。
自分がここにいて、歌った。その続きを、この人たちが返してくれている。
――わたしは、いま、生きている。
その言葉が、声になる前に胸の中へ満ちた。
「ミナトやないかい。えっらい久しぶりやなあ!」
入り口から朗らかな声がした。
土のついた作業着に、無精髭の男が立っている。背中には、隠れるように橙色の目をした小さな生き物が乗っていた。
「……相変わらず濃いな、ヤマサン」
「さっきの、聴こえたで。女神のアカペラ。あれ、ほんまもんか?」
琥珀は顔を上げた。
聴こえた?
外にまで?
ミナトが彼女を示しかけた時、円花が卓上のランプに気づいた。
「あ。外、入ってる」
一花が素早く手を伸ばし、スイッチを戻した。
ミナトは自分の肘とミキサーを交互に見て、口を開けた。
「……俺か」
琥珀はガジュ丸を胸元へ引き寄せた。
部屋の三人だけで精一杯だったのに。自分の知らないところで、いったい何人に聞かれてしまったのだろう。
「いやあ、ええもん聴かせてもろた。あんたが歌うてたんか」
ヤマサンが顔を覗き込む。
琥珀は返事の代わりに頭を下げ、ガジュ丸へ口を寄せようとした。
その時、背中の生き物が動いた。
作業着を勢いよく駆け上がり、跳んだ。
小さな爪が、ガジュ丸の表面へ掛かる。
「きゃっ!」
琥珀はとっさに、ガジュ丸ごとそれを放り投げた。
ガジュ丸は慌てて浮こうとしたが間に合わず、入り口の外へ転がった。生き物は途中で身を翻し、床へ降りる。
球体だけが、その先の水田の縁へと突っ込んだ。
「あっ、ガジュ!」
「こらカブ、びっくりさしたらあかんやろ」
ヤマサンがひょいとトカゲのカブを拾い上げる。
琥珀が戸口へ駆け寄ると、泥のついた羊の顔がこちらを向いた。
『セルフ洗浄モード、起動』
格子状のボディが回り始めた。
次の瞬間、泥の飛沫が辺りへ散った。
ミナトが腕で顔を庇い、円花が声を上げる。琥珀は戸口の陰へ逃げ込み、ヤマサンだけが腹を抱えて笑っていた。
「芸達者やなあ!」
回転が止まると、ガジュ丸は何事もなかったように浮かび上がった。
琥珀は受け止めた機体を確かめ、それから小さく囁く。
「……ごめんね」
羊が目を細める。
『執事の扱いが、日に日に雑になってるよ~』
笑い声の中で、琥珀も少しだけ笑った。
しかし、ヤマサンが肩へ戻したトカゲからは、十分に距離を取っていた。
*
通路に、人が集まり始めていた。
「さっきの歌、この部屋からかい?」
木箱を抱えた老人が足を止めた。隣には、幼子を胸に抱いた人がいる。栽培の途中らしく、袖を捲ったままの人もいた。
「若い頃、よくバンドを観に行ってね。そんなこと、久しぶりに思い出したよ」
「わしは何じゃろか、こう、昔の家が浮かんだなあ」
琥珀はガジュ丸を抱いたまま立ち尽くした。
知らない顔ばかりだった。けれど誰も返事を急かさず、自分の中に浮かんだものを話してくれる。
「泣いちゃったわ」
「うちは、この子が泣き止んだよ」
差し出された幼子の手が、空を掴んだ。
琥珀はそっと近づき、人差し指を差し出した。
小さな指が、ぎゅっと巻きついた。
思っていたより強かった。
薄い爪。柔らかな皮膚。握られたところだけが、はっきりと温かい。
この子は、何のために生きているのだろう。
そう考えてから、琥珀は幼子を抱く腕を見た。身体が少し傾くと、その腕が自然に抱き直す。幼子は何も気にせず、琥珀の指を握っている。
仕事ができるわけでも、生きる理由を言えるわけでもない。
それでも、この腕は離さないのだ。
誰かに、生きていてほしいと思われている。
それだけでも、ここにいていいのかもしれない。
琥珀は指を握らせたまま、母の膝を思い出した。
そして、その隣には滅多に座らなかった父のことを。
わたしにも、こうして抱かれていた頃があったのだろうか。
あの人も、わたしに生きていてほしくて、シェルターの扉を閉めたのだろうか。
お父様。
今、どこにいるの。
もういないと知らされたら、わたしは泣けるのだろうか。
答えは浮かばなかった。
握られた指の温もりだけが、そこにあった。
〝ウゥゥゥーーーーーーーーーーッ〟
サイレンが鳴った。
琥珀の肩が跳ねた。幼子が顔をしかめ、抱いている人がすぐに耳を覆う。
通路の非常灯が明滅し、放送局の通信機から、ひび割れた声が飛び込んできた。
『こちらソラ! 一花、いるか! 〝目〟が急旋回して、メトロ北東部へ向かってる。三十分後だ!』
「了解」
一花はもう、ミキサーの前にいた。
円花が隣へ滑り込み、ヘッドマイクを装着する。先ほどまで笑っていた二人の手が、迷いなくスイッチとフェーダーを動かした。
「アークおよび近郊の皆さん、三十分後に〝目〟が接近します。場所は旧・押上駅、錦糸町および浅草方面。ハンターの皆さんは準備を急いでください。繰り返します――」
歌を運んだ同じスピーカーから、円花の声が広がっていく。
ミナトの目が輝いた。
「ヤマサン、ちょっと行ってくる。コハクを頼んだ!」
琥珀は顔を向けた。
彼はすでに走り出していた。
待って。
引き留める言葉も、理由も、すぐには見つからなかった。ガジュ丸へ顔を寄せるより早く、その背中は柱の向こうへ遠ざかっていく。
幼子の手が緩んだ。
琥珀の指が、冷たい空気の中へ戻る。
ミナトは、あの空へ行くのだ。
さっきまで自分の歌を聞いて笑っていた人が、今度は、こちらの声が届かない場所へ。
琥珀は、空いた手を下ろせないまま、彼が消えた柱の向こうを見つめていた。




