【第6話】地下神殿アーク
門が開ききっても、重い響きはしばらく消えなかった。
琥珀はミナトのあとに続き、一歩、中へ入った。靴音が遠くで返ってくる。その遠さに顔を上げ、足を止めた。
柱が並んでいた。
一本ずつが、建物のように太い。床から差す光に照らされ、灰色の幹が頭上の闇へ伸びている。奥にも、そのまた奥にも同じ間隔で柱が立ち、目で辿っていくうちに距離が分からなくなるほどだ。
地下に、こんな広さが。
琥珀はガジュ丸を抱き寄せた。病室も、地下商店街も、ここまでのトンネルも、狭い場所を少しずつ繋いで暮らしている。しかしここには、街ひとつが収まりそうなほど壮大な空洞があった。
足元の明かりが柱の傷を浮かび上がらせている。
また、逆さの光。昨日、目を覚ました部屋と同じ――そう思いかけて、琥珀は迷った。ここは朝も夜もない世界。もう、昨日を昨日と呼べない。あれから何時間が過ぎたのだろう。何度、太陽が通り過ぎたのだろう。
その時、葉の匂いがいっそう濃くなった。
柱の向こうに、緑が見えた。
白い人工灯の下で、葉が幾重にも重なっている。浅い栽培槽が列を作り、その間を細い管が走っていた。水の流れる音がする。屈んだ人の手が、葉の陰へ入っては出てくる。
「ここがアーク。地下神殿って呼ばれてる」
ミナトが振り返った。
「街の食い物は、だいぶここから運んでるんだ。さっき通った新道も、そのために繋いでる」
琥珀はもう一度、緑の列を見た。
商店街で匂った煮込み料理にも、この葉が入っていたのかもしれない。あれは、人の手に摘まれ、箱に詰められ、暗いトンネルを運ばれていた一椀だったのだ。
「やっほー! ミナト、久っしぶり!」
明るい声が柱の間に響いた。
髪をふたつの団子にまとめた少女が、こちらへ手を振っている。その隣には、涼やかな目元の少女が立っていた。
「ねえ、もうほんっと退屈。レタスもほうれん草も飽き飽きよ。何万枚の葉っぱを育てたと思う?」
「円花。……それが私たちの仕事」
「分かってるわよ。葉っぱたちに崇められたいくらいだわ」
円花は手にしていた葉にお辞儀をさせた。
隣の少女がそれを取り、栽培槽の脇へ置く。ミナトは笑いながら琥珀を手招きした。
「こっちが円花。こっちが一花。俺の古い友達」
二人の目が自分へ向き、琥珀は一歩引きかけた。
胸元の球体を持ち上げ、その傍へ口を寄せる。
『はじめまして。コハクです』
ガジュ丸の声が、少し遅れて届いた。
「えっ、その子が代わりに喋るの?」
円花の顔が近づいてきた。指先でつつかれ、ガジュ丸が琥珀の手の上で傾く。
『執事です。お取り扱いは丁重に』
「執事だって。一花、うちにも欲しい!」
「……葉っぱ、育てられる?」
ミナトが吹き出した。
琥珀も思わずガジュ丸を見る。羊は答えを考えるような顔をしてから、さりげなく彼女の肩へ逃げた。
*
案内されたのは、淡い紫色のレンタルルームだった。
入り口には〝放送局〟と書かれている。中へ入ると、壁際の機器に小さなランプが並び、幾本ものケーブルが机の裏へ束ねられていた。
しかし、琥珀の目を引いたのはその向こうの棚だった。
色のついた小瓶やグラスが並んでいる。窓から入る人工灯の光を透かし、棚板の上に赤や青の影を落としていた。瑠璃紺の壁には月と星。切り抜いた縁が少し曲がっているのまで、傍へ寄ると見えた。
「それ、全部円花の趣味」
一花が、琥珀の視線を追って言った。
「……壁紙も、飾りも。部屋を飾るために働く。それが円花」
「そうよ。せっかく生きてるんだから、好きなものを見て暮らしたいじゃない」
円花は棚の瓶をひとつ、光の当たる方へずらした。
青い影が、隣の赤と重なる。
「毎日レタスを見て、帰ってきても灰色の壁だけなんて嫌。自分の目に映る景色くらい、自分で綺麗にしたいわ」
琥珀は壁の星を見上げた。
こんな世界になっても気にせず、自分の好きな物を集める。好きなことをする。そのために葉を育てる人がいる。
生きる理由とは、もっと大きくて、揺るがないものなのだと思っていた。
けれど円花は、気に入った瓶を置き直すだけの顔で、それを話している。
「ねえ、コハクちゃん。これ食べてみて」
テーブルに皿が置かれた。
桃色や黄色の、小さな干菓子が盛られている。
「こないだヤエチカで、ルッコラ三十束と交換したの」
琥珀は促されて椅子に座った。
ひとつ摘まみ、口へ入れる。かすかに歯を当てただけで崩れ、舌の上に甘さが広がった。
思わず、目を閉じた。
「……おいしい?」
一花の声に、何度も頷いた。
円花が満足そうに皿を中央へ押す。ミナトも向かいに腰を下ろし、手を伸ばした。
『ここで、あんなにたくさん育てているのね』
琥珀はガジュ丸を通して言い、窓の向こうを指差した。カーテンの隙間から、栽培槽を照らす白い光が見えている。
「地下水と人工灯。……雨も、太陽もないから」
一花は窓の傍へ寄った。
「食べる葉を育てる。陽のいらないキノコも育てる。……市民のため」
言葉の間に、水の流れる音が聞こえた。
「ここ、葉っぱの匂いがするでしょ。……私、それが好き」
琥珀は頷いた。門の外から流れてきたあの匂いだ。いつの間にか呼吸が深くなっていたことに気付いた。
「でも、水も電気も、いつまでもあると思ってはいられないのよ」
円花が、栽培槽の方を見た。
「灯りが消えたら、その分育たない。水を送る機械が止まったら、こっちまで駄目になる。何万枚も育てたって、一度放っておいたら取り返せないもの」
さっき、飽き飽きだと言っていた声だった。
その同じ人が、どこに何が繋がっているのかを確かめるように、窓の外へ目を配っている。
緑は、勝手にここへ生えてきたのではない。
琥珀は口の中に残った甘さを、ゆっくりと飲み込んだ。
窓のさらに奥、柱の脇に積まれた木箱が見えた。
いくつも重なり、その向こうにも別の列が続いている。栽培槽とは違う大きな区画を、箱の山が占めていた。
『あれは、何が入っているの?』
「備蓄よ。ほとんどが、もともと女王が溜め込んでいたものらしいわ。ここは広いし、空調もあるから、倉庫にも使ってるの」
女王。
琥珀は箱の列から目を離せなくなった。
地下へ人を集め、食料を蓄え、道を造らせる。あの人がいなければ、この皿も、自分が座る椅子も、ここにはなかったのだろうか。
「なあ。それより、今日は椎茸をもらいに来たんだ」
ミナトが言った。
「塩焼き。あれ、最っこーだよな」
「ほんっと好きね。で、何と交換するつもり?」
円花が肘をつき、身を乗り出した。
「あ、そういえば聞いたわよ。この前の〝目〟で、すごいお宝を見つけたんですって?」
ミナトは笑った。
琥珀は自分のバッグへ目を落とした。何か交換できるものは入っていただろうか。財布はあった気がする。けれど、円花は菓子を買ったとは言わなかった。
ルッコラ三十束。
この都市では、札束を見せても誰も振り向かない。すでに貨幣の力はほとんど失われ、かつて富める者が権利まで握りしめていた時代は終わっていた。
〝培った経験談を話した老人がテキーラを受け取る〟
〝降圧剤のヒートを子供の為に駄菓子に替える〟
今は、生きるための食糧や情報、感情や労働、すべてがそのまま〝価値〟として流通していた。
ミナトが椅子を引いた。
琥珀の傍へ来て、屈み込む。
「見つけた宝ってのは、コハクの歌だよ」
琥珀は顔を上げた。
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「頼む。こいつらにも、聴かせてやってくれないか」
円花の目が輝いた。
一花も、窓からこちらへ向き直った。
琥珀はガジュ丸を握り締めた。
歌。
ここで。
この人たちの前で。
さっきまで口に残っていた甘さが遠のく。ミナトに聞かれた時は、ひとりだと思っていた。母の歌を思い出して、ただ、口ずさんでいただけだった。
あれを、お宝だなんて。
首を振ろうとした琥珀の前で、ミナトは笑みを収めた。
「……お前の歌には、価値がある」
声は静かだった。
ふざけているのでも、慰めているのでもない。彼は、扉の向こうで聞いた歌のことを、本当にそう思っているようだった。
琥珀は、膝の上の自分の手を見た。
料理もできない。機械も直せない。ここに並ぶ葉を、どう育てるのかも知らない。
何ができると聞かれたら、答えられないと思っていた。
けれど、歌なら知っている。
母から残されたもの。ガジュ丸しかいない部屋で、何度も繰り返したもの。誰にも聞かれないまま、シェルターの壁に吸われていくはずだったもの。
それを、もう一度聞きたいという人がいる。
ミナトは急かさなかった。
円花も黙って待っている。さっきまであれほどよく動いていた手が、テーブルの縁で止まっていた。
もしかしたら。
わたしも、この世界を構成する欠片なのかもしれない。
琥珀はガジュ丸へ口を寄せた。
『……みんなの顔を見ていると、歌えないかもしれない』
円花が頷いた。
「うん。じゃあ、見なくていいわ」
簡単に、そう言った。
一花も少し椅子を引き、琥珀が向きを変えられるように場所を空けた。
琥珀はゆっくりと壁へ向き直った。
瑠璃紺の紙に、小さな星が貼ってある。角のひとつが少しだけ浮いていた。その星を見つめ、ガジュ丸を両手で持ち上げる。
まだ、声は出るか分からない。
けれど、聞いてほしかった。
羊の顔が消え、緑色のインジケーターが灯った。




