【第5話】黒鉄の門
街の明かりが遠ざかるにつれ、風の匂いが変わった。
煮炊きの匂いも、人の声も、もう届かない。ミナトの背中越しに流れ込んでくるのは、鉄と油、それに水を含んだ土のような匂いだった。
琥珀は借りたジャケットの襟に顎を埋め、頭上を見た。
線路が光っている。
古いトンネルで見たものとは違った。錆に覆われていない銀色のレールが、ヘッドライトを細く反射して、暗がりの先へ伸びていた。
壁の一部も、そこだけ新しい。
まだ、造っているのだ。
この世界になってから。
水溜まりを踏むたびに、タイヤの音が湿った響きに変わる。琥珀はミナトの服を握り直した。その肩の向こう、光の届く端に、人の形が浮かんだ。
近い。
息を呑むのと、ミナトの背中が強張るのは同時だった。
「離すな、コハク!」
ブレーキが悲鳴を上げた。
身体が前へ押し出され、琥珀はミナトの背に額をぶつけた。車体が傾く。引きずられるような振動のあと、タイヤが水を跳ね上げて止まった。
エンジンの低い音だけが残る。
琥珀は、そっと顔を上げた。
男がひとり、壁際に立っていた。片手に工具を握り、作業着の裾から泥水を滴らせている。
「悪かった。おっさん、大丈夫か?」
「……ああ、命だけはな」
男は濡れた服をつまみ、ミナトに見せた。
ミナトがもう一度謝ると、短く鼻を鳴らし、傍らの梯子へ足を掛ける。
梯子の下には、緑の浮いた水溜まりがある。古い井戸の底を覗き込んだ時のような匂いが、停車した途端に濃くなった。
男は頭上のレールへ工具を当てた。
乾いた音が、トンネルを短く往復する。
「なあ。それ、新しく張ってるんだよな?」
ミナトも見上げていた。
「何で、わざわざ上に線路を?」
「さあな。女王様に訊いてくれや」
工具は止まらなかった。
「俺たちゃ言われたとおりに造って、その日の飯にありつくだけさ。お前らモグラだって似たようなもんだろ。あの方が仕事をくれっから、生きてられんだ」
腕を伸ばすたび、男の作業着が背中に張りついた。肩甲骨の形が、薄い布を押し上げている。
琥珀は、膝の上に置いた自分の手を見た。
仕事をして、その日の食事をもらう。
さっきミナトが話していた暮らしが、急に、目の前の男の身体に重なった。
「……そっか。邪魔したな」
バイクがゆっくり動き出す。
琥珀は振り返り、男に頭を下げた。見ていたかどうかは分からない。工具の音は同じ間隔で鳴り続け、やがてエンジンの響きに紛れた。
そこから先の道も、湿っていた。
照明のまばらな通路を進み、途中でバイクを降りる。後から付け足された鉄の階段を数段上がると、コンクリートの狭い通路に靴音が変わった。
ミナトのあとを追いながら、琥珀は壁の苔を避けて肩をすぼめた。
曲がり角を抜けたところで、行く手が黒く塞がった。
門だった。
顔を上げても、すぐには上端が見えない。分厚い鉄の表面には乾いた泥が層になってこびりつき、縁を支える部材も、人の腕ほどの太さがあった。
人を迎える扉というより、途方もない何かを押し留めるための蓋に見えた。
「着いたぞ」
ミナトは慣れた様子で立ち止まった。
この門の先には、かつて首都を水害から守るために築かれた、首都圏外郭放水路の巨大な地下空間がある。
琥珀はただ、その黒い面を見上げていた。こうして傍に立つと、自分の存在まで小さくなった気がした。
「ほら、お前のまんまるいの。充電できてるぜ」
差し出された球体に、琥珀は真顔をとり戻した。
まんまる。
懐かしい呼び方だった。
本当は〝ガジェット〟という名前だったのに、幼い頃の琥珀はうまく呼べず、しばらく、そう呼んでいた。
両手を伸ばすより先に、声が出た。
「ガジュ!」
羊の顔が灯った。
次の瞬間、耳を刺す電子音が門の前に響き渡った。
『敵! 敵! コハク、逃げろ! こいつだよ、キミを攫ったの!』
ミナトの手の中で、ガジュ丸が暴れ始めた。
小さな機体をどうにか押さえながら、ミナトはなぜか目を輝かせている。
「うわ、喋った。ガジュっていうのか。……これ、欲しいな」
琥珀はすぐに取り上げた。
胸に抱き、ミナトへ向かって、声を出さずに〝だめ〟と口を動かし、頬を膨らませた。
『コハク、油断しちゃだめだよ! ボクが確認した不審人物と一致してる!』
「違うの、ガジュ。助けてもらったんだよ」
丸い機体を覗き込むと、羊の目がこちらを向いた。
その顔を見た途端、喉の奥に溜まっていた言葉が次々に出てきた。
「よかった……。充電するところがなくて、起こせなかったの。もしこのまま動かなくなったら、わたし、どうしようって。それでミナトに見せたら、バイクでできるって言ってくれて――」
「お前、めちゃくちゃ喋れるんじゃねぇか」
はっとして、顔を上げた。
ミナトが目を丸くしていた。
伝えたい言葉の続きは、そこにある。
けれど、彼へ向けようとした途端、声が止まった。
琥珀は視線をガジュ丸に戻した。小声で話しかけると、羊が一度、分かったように頷いた。
『通訳モード、起動』
表示が切り替わる。
球体の表面に、なぜかコンニャクの絵が浮かんだ。
『わたし、ガジュを通してなら喋れるの。子供の頃は、こうやって友達や先生と話していたのよ~』
琥珀に似せた声だった。
ただし、語尾が少し甘ったるい。
そんなふうには言ってない。
琥珀が機体を指でつつくと、ミナトが笑った。
「ははっ、そんな声も出せるのか。すげえな、ガジュ」
羊の顔が戻り、得意げに目を細める。
琥珀はもう一度、その傍へ口を寄せた。今度は、ふざけないでね、と最初に添えて。
『ミナト。ありがとう』
短い言葉が、二人の間に届いた。
『……やっと言えた。わたしたち、あのシェルターから出られなくなっていたの』
ミナトは笑うのをやめ、軽く頷いた。
「ああ。開けたのは女王だけどな。俺ひとりじゃ、どうにもならなかった」
琥珀はガジュ丸を抱え直した。
あの扉を開けたのは、この少年ではなく、レギーナだったのだ。
「でも、最初にお前を見つけたのは俺なんだぜ」
そこは譲れないというように、ミナトが胸を張る。
「俺は地中を走るモグラで、地上へ出るハンターでもあるからな」
あの空の下を、この人も渡っていくのだ。
琥珀は彼の腕へ目を落とした。レギーナと同じように装具を使い、次の足場へ身を投げる姿を想像する。
それだけで、足の裏が冷たくなった。
けれど、ミナトは楽しそうだった。
トンネルを走っていた時も、ガジュ丸が騒いだ時も。今はもう手に入らないものを数えてばかりいる自分とは、見ているものが違う気がした。
聞いてみたかったことを、ガジュ丸へ囁く。
『ミナトは、何のために生きているの?』
ミナトが瞬きをした。
「……いきなり、でっかい話だな」
琥珀は少し俯いた。
聞いてはいけなかっただろうか。
けれど、彼は考えるように門を見上げ、それから口を開いた。
「台風の日にさ、学校が休みになると、ちょっと嬉しかったりしただろ」
琥珀は顔を上げた。
「大きな地震が来るって噂が流れた時も、俺、毎日そわそわしてたんだ。今日かもしれない、明日かもしれないって。いつもと違うことが起きるのが、たまらなく好きだった」
ミナトは自分の掌を見た。
「今じゃ、空に海がある。街は逆さまで、誰も入ってないビルがいくらでもある。その中に、何が残ってるか分からない」
顔を上げると、また笑っていた。
「怖いけどさ。見に行きたいんだよ。こんな世界になっても、まだ知らないものがあるんだぜ」
琥珀は、その言葉を聞いていた。
もう、何もかも失われたのだと思っていた街に、彼は探したいものを見つけている。
「……それと」
ミナトの声が止まった。
視線が、琥珀から外れる。
続く言葉を待っていると、彼の口元から笑みが消えた。ほんの一瞬だったが、手紙の末尾で目を止めた時と、同じ顔に見えた。
「それと……女王が安全を保障してくれる。俺たちは、その中でお宝探しのハンターごっこだ」
肩をすくめる。
「最高だろ?」
さっきと同じように、明るい声だった。
けれど琥珀は、すぐには頷けなかった。
なぜ、今、ごっこと言ったのだろう。
あんなに楽しそうに、見に行きたいと話していたのに。
ミナトはもう、こちらを見ていなかった。
琥珀はガジュ丸へ口を寄せかけた。その時、足元から低い振動が伝わってきた。
鉄の擦れる音がする。
黒い門が、ゆっくりと下がり始めた。
上端に生まれた細い隙間から光が漏れ、湿った空気が頬に触れる。ここまでまとわりついていた油の匂いに、違う匂いが混じった。
青い葉を、指で揉んだような。
ガジュ丸の顔が、開き始めた門へ向く。
ミナトも、その先を見つめている。
琥珀は彼の横顔を見ていた。
さっき飲み込んだ言葉は、何だったのだろう。
聞けないまま、重い門の音を、二人で聞いていた。




