【第4話】メトロジェイル
開けた扉の隙間から冷気が忍び込み、通り道を作ろうと模索する。
琥珀が肩をすくめると、ミナトも鼻を啜った。何か言いかけて、彼女がまだノブを握っていることに気づき、少し脇へ退く。
その向こうには、琥珀の知らない暮らしが続いていた。
外へ出てみたかったが、その前にひとつだけ伝えておきたかった。
琥珀は扉の内側に目を留めた。うっすらと結露した表面に、さっき触れた指の跡が残っている。
琥珀はふと思い付いたように人差し指を伸ばし、そこへ文字を書いた。
コハク。
「コハクか! よろしくな!」
ミナトは身を屈め、隣に大きく〝ミナト〟と書いた。
「俺の名前は、ミ・ナ・ト」
一文字ずつ指差し、自分の胸を叩く。
さっき聞いたよ、と思ったが、念を押す顔があまりに真剣なので、琥珀は小さく笑って頷いた。
二人分の名前を扉に残し、外へ出た。
通路は思っていたよりも広かった。
古い店の看板が連なり、その間を人が行き来している。誰かが荷を運び、店先に屈んだ人が何かを繕っていた。部屋の中で聞いていた呼び声が、目の前の人の口から聞こえる。
その景色のあちこちに、丸い角をした小さな建物があった。
淡い緑、くすんだ青。店の中にも、通路の端にも、空いた場所へ押し込むように並んでいる。大きなマシュマロを、いくつも寄せ集めたようだった。
振り返ると、出てきたばかりの部屋も、そのひとつだった。
「レンタルルームだよ。壁、横に筋があったろ。樹脂を重ねて、丸ごとプリントするんだ」
琥珀は扉の脇に指を滑らせた。
細かな段差が、爪に触れる。さっきまで、模様だと思っていたものだ。
「木材も、それで家を建てられる人も足りないからさ。今じゃ、こういうのばっかりだ」
ミナトの声を聞きながら見上げると、頭上に自動販売機があった。
かつて床だった場所に固定されたまま、上下逆さまになっている。前面はこじ開けられ、空になった内部が覗いていた。
その傍には、見覚えのあるコンビニの看板。
足元近くには、逆さの文字を並べた行き先表示。
どれも知っているものだった。
知っているからこそ、目が追いつかない。古い街の天地をそのままに、人々は新しい床へ部屋を置き、品物を並べ直して暮らしていた。
琥珀は手首の時計を見た。
短針は九を指している。朝なのか、夜なのか。針はシェルターにいた頃と同じように進んでいるのに、その数字から外の明るさを思い浮かべることが、もうできない。
一日は、一時間足らず。
レギーナの言葉を思い出しながら時計を下ろした時、温かい匂いが鼻先をかすめた。
煮込み料理の匂いだった。
近くの部屋で扉が開き、湯気をまとった椀が運び出されてくる。琥珀は思わず目で追った。シチューだろうか。何が入っているのかまでは見えない。けれど、鍋で何かを煮て、それを器によそうというだけのことが、ひどく懐かしかった。
料理長のエスカルゴの香草焼きが好きだった。
小さな銀の皿。母の隣に座った夕食の席。熱いから気をつけて、と言われても待ちきれずに口へ運んだこと。
最後の頃は、缶詰を選ぶ余地さえなかった。
その前には、同じ味に飽きて、目を閉じて引き当てたものを食べていたのに。
お腹が空いた。
琥珀はミナトの袖に手を伸ばしかけ、ためらった。
何か食べたい。どこへ行けばいいの。あの料理は、何と引き換えにもらえるの。
聞きたいことが、また増えていく。
バッグを開け、ガジュ丸を取り出した。
ミナトに背面を向け、残量の表示を指差す。
「ああ、バッテリー切れか。俺のバイクでチャージできるよ」
あまりに簡単に言われたので、琥珀は顔を上げた。
ミナトはすでに通路の端へ歩き始めている。慌ててあとを追うと、黒い大きなバイクが停めてあった。
長く突き出たフロントフォーク。幅のあるタンクから、低いシートへ絞られていく車体。古びた街の中で一点、その黒豹はしなやかな艶を帯びていた。
「ちょっと貸して」
そう言われ、琥珀はガジュ丸を両手で差し出した。
ミナトが接続口を確かめ、車体から伸ばしたケーブルを繋ぐ。小さな表示が切り替わったのを見て、ようやく息がつけた。
また、声が聞ける。
ミナトは機体を走行中に動かない場所へ収めると、琥珀を振り返った。
「ほら、後ろ」
足を掛けようとしたところで、ひょいと抱え上げられた。
気づけばリアシートに座っている。琥珀はミナトを見上げ、少し頬を膨らませた。自分で乗れたかもしれないのに。
彼はその顔に気づかず、革のジャケットを脱いだ。
肩に掛けられると、まだ残っていた体温が、冷えた首元を包んだ。
「寒いだろ。それ、着とけよ」
琥珀は文句の代わりに、襟をそっと引き寄せた。
ふと、部屋の扉が開いたままだと気づく。
扉を指差し、鍵を回すように手首を捻ってみせた。ミナトはその仕草を見て、すぐに頷いた。
「鍵? いらないよ。ここじゃ、盗む奴なんてまずいない」
そう言って、通路の向こうへ顎を向ける。
「あれがいるから」
人の流れが、静かに割れた。
赤い鎧を着た兵士たちが歩いてくる。荷を運んでいた男が壁へ寄り、店先の人が膝の上へ道具を置いた。
大きな声が出たわけでもない。それなのに、兵士たちの行く先だけが、先に空いていた。
「あの腕章、描かれているのは赤地に白丸の紋。劫火を纏いし純白って意味らしい」
ミナトの声が、少し低くなった。
「劫火の騎士。女王直属の部隊だ。盗みも、嘘も、裏切りも。ここじゃ全部、罪になる」
琥珀は鎧の奥を見ようとした。
白い息も漏らさない鉄仮面。自分を見ているのかどうかも、分からない。
「罪人は、空に棄てられる」
靴のすぐ先にあった青が、瞼の裏へ戻ってきた。
縁にしがみついた時の、指の痛みまで。
「――だから、鍵なんていらないんだ」
琥珀はもう一度、開いたままの扉を見た。
あの部屋には鍵が要らない。けれど、自分もずっと、顔の見えない誰かに見られているのだろうか。
バッグから手紙を取り出した。
地下は安心して暮らせる。そう書かれた紙を、ミナトへ差し出す。
彼の目が、末尾の名前で止まった。
さっきまで浮かんでいた笑みが消える。その一瞬を、琥珀は見逃さなかった。
「レギーナ。この人が女王だよ」
ミナトは紙を返した。
「ここ、メトロジェイルを支配してる」
あの人が。
琥珀は手紙と兵士たちを交互に見た。
私が守る、と言った声。反逆者は抹殺しろ、と命じた声。どちらにも、あの赤い鎧が従っている。
メトロジェイル。
東京中に張り巡らされた地下鉄を繋ぎ、人々は暴風の届かない場所に街を築いた。そこを治めるのは、一人の女王。
人々が皮肉を込めて呼ぶ名には、地下都市を表す〝メトロ〟と、監獄を表す〝ジェイル〟が重ねられていた。
騎士たちが通り過ぎると、止まっていた荷が動き始めた。
店先から、また道具の音がする。
「さて。まずは仕事だな」
ミナトが明るく言った。
顔を戻すと、もう先ほどの表情だった。
「ここには、いろんな仕事がある。駅の出入り口で発電を担うヨホウシ。植物や地下水を管理して、食料を確保するヤオヤ。機械を直したり、住める場所を広げたりするシュウリヤ」
指を折りながら挙げていく。
「あとは地上へ出て、使える物を探してくるハンター。……さっきのシチューだって、誰かが材料を育てて、誰かが運んできたんだろ」
見ていたことに気づかれていた。
琥珀は少し俯いたが、ミナトは気にする様子もなく、通路の先へ目を向けている。
仕事。
自分も、何かをするのだろうか。
料理ができるわけではない。機械ならガジュ丸に頼ってきたし、植物に水をやったことも、庭師の隣で数えるほどしかなかった。
誰かがしてくれていたことばかりだ。
琥珀は膝の上で手を重ねた。
何ができると聞かれたら、どう答えればいいのだろう。
「俺の仲間に、トカゲの手でも借りたいって奴がいてさ。そいつに会いに行こう」
トカゲ?
聞き慣れない言い回しに顔を上げた時には、ミナトはもうバイクに跨がっていた。
セルが鳴る。続いて、低い振動がシートから身体へ伝わってきた。
「掴まってろよ」
琥珀はそっと、彼の服の背を握った。
「ここらは地下鉄のトンネルで繋がってるんだ。うねった鉄の洞窟を走って、物や人を運ぶ。俺たち、モグラの仕事さ」
ミナトは振り返り、笑った。
「慣れりゃ、ウォータースライダーみたいなもんだよ」
車体が動き出した。
琥珀は慌てて、掴んでいた服を握り直す。店先の明かりが横へ流れ、開けたままの部屋の扉も、人々の間へ見えなくなった。
旧・御茶ノ水駅から、北へ。
商店街を抜けると、天井を這う線路が現れた。
何本もの枕木が、頭上を後ろへ流れていく。目で追っていると上下の感覚が怪しくなり、琥珀はミナトの背中へ視線を戻した。
トンネルの脇を、灯りの消えた信号機が通り過ぎる。
もう、ここで電車を待つ人はいない。
けれど、その下をバイクが走り、誰かが誰かへ、必要なものを運んでいる。
――生き残ったのは、生きる理由を持った者だけだ。
レギーナの言葉が、エンジンの響きの中で甦った。
植物を育てる人。機械を直す人。空へ出ていく人。この世界には、それぞれに役割がある。
ただ流されて、惰性で生きてきたわたしにも、何かあるのだろうか。
手の中の布が、風にはためいた。
ミナトは迷う様子もなく、暗いトンネルへバイクを走らせている。あんな空を知っていて、女王のことを知っていて、それでも、さっきは楽しそうに笑っていた。
琥珀は、その背中を見つめた。
ミナト。
あなたは、何のために生きているの?
声にならない問いを抱えたまま、琥珀は彼の服を、もう少し強く握った。




