【第3話】少年
今度の明かりは、頭の上にあった。
円筒形の小さな照明。その細い隙間から漏れた光が、壁に縞を描いている。琥珀はしばらくそれを見つめ、身体の下にある硬いクッションの感触を確かめた。
あの病室ではない。
起き上がると背中が痛んだ。ドレスの裾を膝へ引き寄せ、室内を見回す。四畳半ほどの、窓のない部屋。壁には細かな横筋が幾重にも重なり、鼻の奥に、嗅ぎ慣れない樹脂の臭いが残った。
自分であの病室を出たはずだった。それなのにまた、知らない場所に連れてこられている。拒否も抵抗も出来ないままに。
空へ踏み出した白い靴と、足元で跳ねた火花ばかりが、目を閉じるたびに浮かんだ。
――私が守る。
――皆殺しだ。
同じ人の声だった。
琥珀は両腕を抱いた。あの腕に支えられていなければ、自分は今、ここにいない。それは分かっている。けれど、もう一度あの人に呼ばれたら、近づいていいのだろうか。
「……寒いわ」
口に出すと、声は狭い部屋ですぐに消えた。
絨毯も、壁の絵もない。クッションの傍にティーテーブルがあるわけでもなく、温かいものを頼もうと顔を向ける先もなかった。
換気口が低く唸っている。
その音に混じって、何かを叩く音が聞こえた。一定の間隔で、二度、三度。そのあとに、くぐもった人の声が続く。
琥珀は顔を上げた。
人がいる。
すぐ、壁の向こうに。
シェルターにいた頃、聞こえてくる音といえば、空調とガジュ丸の駆動音ぐらいだった。身構えながらも、琥珀は耳を澄ませた。声は言い争っている様子ではない。何かを呼びかけ、別の誰かが答えている。
壁に取り付けられた小さなテーブルに、一枚の紙が置かれていた。
琥珀は立ち上がり、手に取った。
『お前が目覚めたその場所は、地上と違って安全な場所だ。
さっきは怖い思いをさせてしまったが、地下は安心して暮らせる。世話役が来るまで待て。
――レギーナ』
世話役。
その言葉に、懐かしい顔が浮かんだ。
髪を梳いてくれたユメ。服を選ぶと、隣で一緒に鏡を覗き込んだカナ。庭へ出るたび、土のついた手を止めてくれたフージィ。
朝になれば誰かが起こしに来て、食卓には温かい皿が並んでいた。そういう暮らしだった。いつまでも続くと思うほど、当たり前のことだった。
千人もいない。
レギーナは、そう言っていた。
あの人たちは、どこにいるのだろう。
今も誰かの髪を梳いたり、庭の手入れをしたりしているのだろうか。
紙の端が曲がった。
知らず知らず、強く握っていた。琥珀は指で皺を伸ばし、折り畳んでバッグへしまった。
その底には、ガジュ丸がいた。
「ガジュ……」
取り出した機体に顔は灯っていない。背面の小さな表示に、残量の数字が出ていた。
五パーセント。
呼びかけようとした口を閉じ、壁際を探した。テーブルの下、クッションの裏。どこにも、使えそうな充電口は見当たらなかった。
今、起こしてしまったら。
この先、本当に困った時に、返事が聞けなくなるかもしれない。
琥珀は丸い機体を撫でた。指先がいつもの位置にある継ぎ目を辿る。少し迷ってからバッグへ戻し、扉の前に腰を下ろした。
背を預けると、薄い板の向こうの物音が、わずかな振動になって伝わってくる。
これだけ近くに人がいるのに、誰を呼べばいいのか分からない。
膝を抱え、目を閉じた。
浮かんできたのは、ステンドグラスに差す光だった。母の指が弦を押さえ、ギターの胴に触れた腕が、ゆっくりと動く。
あの歌の続きは、どうだっただろう。
琥珀は唇を動かした。
小さな息に音が乗る。一節を辿ると、次の旋律は探さなくても出てきた。肩から少しずつ力が抜け、抱えていた膝が緩んだ。
扉の向こうへ届いているとは、思わなかった。
*
ミナトは、ノックしかけた手を止めた。
旧・御茶ノ水駅へ繋がる地下商店街。いつもなら足早に通り過ぎる狭い一角で、聞いたことのない歌がしている。
声は、レギーナに訪ねるよう言いつけられた部屋から漏れていた。
『偲び濡るる頬
希望の光 芽吹かせし――』
ミナトは上げていた手を下ろした。
セーラー襟の肩を扉の脇に寄せ、耳を澄ます。
細い声だった。
駅の補修工事の音に紛れれば、それきり聞こえなくなりそうなのに、一度気づくと、そこから耳を離せなかった。
懐かしい。
知らない歌なのに、そう思った。
目を閉じると、草の匂いがする気がした。前を歩く兄の背中が見える。ミナトが立ち止まると、兄も少し先で足を止め、振り返った。
まだ、空が上にあった頃だ。
何でも真似をした。一緒にいるのが当たり前で、つまらないことで口を利かなくなった日さえあった。
そういえば、一度だけ、兄を殴ったことがある。
あれは、何でだったっけ。
握った拳の感触は覚えていた。怒っていたはずなのに、思い出の中の兄は、困ったような顔でこちらを見ている。
ミナトはゆっくりと息を吐いた。
いつの間にか腰を下ろし、扉に背を預けていた。
そのすぐ向こうで、琥珀も同じ板に背中をつけていた。互いの姿を知らないまま、歌の終わりまで、二人はそうして座っていた。
最後の音が細くほどけた。
少し遅れて、商店街の物音が耳に戻った。金属を叩く音。遠くで誰かを呼ぶ声。換気口を抜ける風も、ずっと同じように鳴っていたらしい。
ミナトは立ち上がり、今度こそ扉を叩いた。
*
背中に響いた音に、琥珀は息を止めた。
誰か、来た。
バッグを引き寄せて立ち上がり、しばらく扉を見つめた。レギーナの手紙を思い出す。世話役が来るまで待て、と書いてあった。
この人が、そうなのだろうか。
ノブを回し、そっと隙間を開ける。
立っていたのは、少年だった。
セーラー襟の服に、中性的な顔立ち。琥珀の姿を見つけるなり、ぱっと笑った。
「最っこーだな!」
琥珀は扉を閉めた。
心臓が跳ねていた。
何が。誰が。今のは、自分に言ったのだろうか。
「あっ、ごめん! 怪しい者じゃないんだ。いや、それも怪しいか……」
向こうで声が途切れた。
次の言葉を探しているらしい。その間にも、聞かれていたのだという考えが、じわじわと琥珀の頬を熱くした。
どこから。
まさか、最初から。
琥珀はもう一度、ほんの少し扉を開けた。
少年は今度は一歩離れたところに立ち、彼女の顔が見えると、照れたように笑った。
「ごめん、驚かせたな。俺はミナト」
その名前には、聞き覚えがあった。
レギーナが、世話を任せていたと言っていた相手だ。
「数時間前、お前をシェルターから運んだんだ。勝手に入って悪かったけど……あのままじゃ、まずかっただろ」
琥珀は少年を見上げた。
「E21の医務室に寝かせたんだけど。覚えてないよな?」
小さく頷く。
銃を持った男が来た、とガジュ丸は言っていた。目の前の少年と、その言葉がうまく重ならなかった。
この人が、あの扉を開けた。
食料の尽きた部屋から、自分を運び出した。
お礼を言いたかった。
けれど、唇を開くと喉が詰まり、息だけが漏れた。少年の顔を見ていられなくなり、琥珀は視線を落とす。
「さっきの歌、お前だよな」
返事の代わりに、もう一度頷いた。
「知らない歌だったけどさ。なんかこう……懐かしくて」
少年は、少しだけ遠くを見る目をした。
「昔のこと、思い出した」
琥珀は顔を上げた。
母の歌を、知らない誰かが聞いていた。その人の中にも、思い出す景色があった。
何を見たのだろう。
聞きたい言葉が浮かぶ。それでも、声にはならなかった。琥珀は喉元へ拳を当て、もどかしさを堪えて首を振った。
「……喋れないのか?」
頷くまで、少し時間がかかった。
次にどんな顔をされるのか、知っている気がした。
「そうか……え、喋れないのに歌えるのか。ははっ、面白ぇ!」
琥珀の指が止まった。
ミナトは感心したように目を丸くしていた。彼女の表情を見て、慌てて言い足す。
「あ、変だって意味じゃなくて。歌、すげえよかったから」
うまく説明できないらしく、片手で髪を掻いていた。
「……最初にそれを言えばよかったな」
琥珀の口元が、わずかに緩んだ。
そうだと思う。
いきなり扉の前で、あんな大きな声を出すから。
伝えることはできなかったが、ミナトは彼女の顔を見て、ほっとしたように笑った。
その笑顔につられて、琥珀も少しだけ笑った。
喉は、まだ動かなかった。
けれど琥珀は、ノブを握っていた手から力を抜いた。
扉は、開いたままだった。




