【第2話】終末の廃墟美
落ちている。
琥珀は白い軍服に顔を押しつけた。胃が浮き、靴の中で足の指が縮こまる。すがりついた腕だけでは足りなくて、指先が布を掻いた。
その身体が、不意に横へ攫われた。
張りつめたワイヤーが唸る。落下の勢いが大きな弧に変わり、二人はビルの下を振り抜けた。割れた窓の列が視界の端を流れ、琥珀の髪が頬を叩く。
レギーナが腕を振った。
次の鉄骨に鉤爪が噛みつき、巻き取りの音が風を追い越す。身体が持ち上がったかと思うと、また空へ投げ出される。
落ちる。引かれる。そして、また落ちる。
琥珀には一度ごとに世界が終わるように思えたが、彼女を抱く腕は揺るがなかった。
「力を抜け。落としはしない」
そんなことを言われても、指は解けなかった。
息をするたびに吸い込む、冷えた布の匂い。そのすぐ向こうで、レギーナは少しも乱れない呼吸をしている。
彼女の腕の装具は、〝ペンデュラム〟と呼ばれていた。
鉄骨に鉤爪を掛け、ワイヤーに身を預ける。この世界のハンターたちは、振り子の軌道を繋ぎながら、足場のない街を渡っていく。
かつて人が見上げた摩天楼の、その下を。
やがて、赤い鉄骨が目前に迫った。
東京タワーだ。根元の太い骨組みを潜ると、街の景色が格子の向こうへ細かく切り分けられた。
レギーナはワイヤーを送り出し、塔の内側を降り始めた。琥珀はようやく顔を離し、すぐ傍を通る鉄骨を見つめる。
赤い塗装が剥がれ、その下に錆が膨らんでいる。継ぎ目には白く霜がつき、ボルトの並ぶ縁から、細いつららが伸びていた。
「ずっと、あのシェルターに居たのか?」
琥珀は顔を上げた。
答えなければ。助けてもらったお礼も、まだ言えていない。
けれど、口を開いても息しか出なかった。
レギーナの目がこちらへ向く。返事を待たれていると分かるほど、喉の奥が狭くなる。何年もガジュ丸とだけ話していたから、忘れかけていた。
自分は、人の前では話せないのだ。
――お前は喋らずに、やることをやれ。
頭の奥で父の声がした。
顔を上げるたびに、机の向こうからこちらを見ていた目。答えを間違えないよう、叱られないようにと言葉を選んでいるうちに、何も言えなくなっていた。
学校でも、同じだった。
答えの分かる問題を当てられても、唇は動かなかった。遊ぼうと誘ってくれた子が、返事を待ちくたびれて別の子のところへ走っていく。その背中に、頷くだけでもよかったのにと、何度も思った。
「そうですね、〝場面緘黙〟といったところでしょうか。特定の状況でだけ声が出せなくなる、心の病気です」
場面緘黙。
部屋に来た医師が告げた名前を、琥珀ははっきりと覚えている。
声を失ったわけではなかった。ガジュ丸となら話せるし、笑うこともできる。けれど、それを知る人には、どうして自分には話さないのかと問われた。
その理由を説明するための声も、出なかった。
琥珀は胸元のバッグに手を触れた。
ガジュ丸を起こせば、代わりに話してくれる。そう思って留め具を探った時、レギーナが小さく呟いた。
「澄んだ瞳だ。汚れがない。嘘を知らない瞳だ……似ている」
指が止まる。
レギーナは琥珀を見ていた。けれど、その眼差しは、目の前にいる自分よりも遠いものへ向けられているようだった。
「……いいさ。無理に答えなくても」
琥珀はバッグから手を離した。
胸の奥に溜めていた息が、少しずつ抜けていく。誰に似ているのかは分からなかった。ただ、答えなくても抱く腕を緩めないことが、今はありがたかった。
塔の中腹で、展望デッキが行く手を塞いだ。
レギーナはその下面に靴をつけ、凍った箇所を避けて縁へと歩いた。腰を下ろし、琥珀を腕に支えたまま、外へ目を向ける。
視界を遮っていた鉄骨がフレームアウトしていく。
眼下に、光る海があった。
琥珀は息を止めた。
さっきは空としか見えなかった青の底を、細かな輝きが走っている。波だ。遠すぎて一つひとつは見えないのに、光の揺らぎだけが、見渡す限りの広がりを伝えてくる。
海が、空にある。
その水の向こうを、太陽が泳いでいた。
白くほどけた輪郭が、波に歪められながら移っていく。光の縁には赤や緑が滲み、無数の色の欠片が、蒼い水面に散らばっていた。
巨大なステンドグラス。
夢の中で伸ばした手を思い出した。
けれど、ここには母の歌も、膝に頬を寄せられる温もりもない。頬を刺す冷気があり、指に食い込むバッグの持ち手がある。
琥珀は目を閉じた。そして、そっと開く。それでも、光は消えていなかった。
「海水も空へ落ちたんだ。今は水の膜になって、地球を包んでいる」
レギーナの声が、傍らから聞こえた。
「私は時々ここに来る」
しばらく、二人とも黙っていた。
塔の奥で、金属の軋む音がした。
「誰かに見せたかったのかもな」
琥珀が顔を向けるより早く、レギーナは彼女を抱え上げ、自分の肩に乗せた。慌てて頭にしがみつく琥珀の脚を支え、縁の柵へ脚を掛ける。
そのまま、身体を外へ倒した。
「きゃっ……!」
視界が回る。
髪が逆立つように流れ、レギーナの手が琥珀の身体を確かに押さえた。
気がつくと、街が足元にあった。
ビルが立っている。
道路が走り、東京タワーは街の中から空へ伸びている。
琥珀は目を見開いた。今、自分たちは頭を下にして吊り下がっている。そのはずなのに、目に映る景色だけが、ようやく記憶と同じ向きになっていた。
「こうすると、以前と変わらない東京に見える」
レギーナは、静かに言った。
「……でも、もう使い物にならない」
窓のないビル。途切れた道路。誰も渡れない歩道橋。
見慣れた向きに戻ったことで、かえって、失われたものがよく見えた。
「地球の自転が速まり、今では一日は一時間足らずだ。光が差すのは、三十分ほどしかない」
遠くの窓が橙色に光った。
ついさっきまで白かった街の輪郭。もう夕暮れの帳が降り始め、東京は廃墟を黄昏れの化粧に隠し始めた。
「普段は嵐が地表を覆っている。外へ出られるのは、〝目〟が来た短い間だけだ。たった五年で、この有様さ」
目。
病室で聞いた放送が、初めて意味を持った。
通路を吹き抜けていた風も、白い息が顔の上に留まった静けさも、この短い晴れ間へと繋がっていた。
「最初は、地下鉄のあちこちに十万人ほどが寄り集まっていた。それが今では、千人もいない」
琥珀は息を詰めた。
千人。
この街には、あんなにたくさんの人がいたのに。
「罪人は空へ棄てられた。愛する者を失い、自分から身を投げた者もいる」
琥珀を支える手に、力がこもった。
「生き残ったのは、生きる理由を持った者だけだ」
その言葉に、返すものがなかった。
空の棚と、缶詰の蓋を思い出す。最後に着る服を選んだ自分は、何を理由に、ここへ残されたのだろう。
レギーナは身体を起こし、デッキへ戻った。琥珀を肩から下ろすと、冷たい面へ直接触れさせないよう、いったん膝に抱きとめた。
「人は、独りで生きていけると思うか?」
琥珀は彼女を見上げた。
「重力が反転したこの世界では、どんな最新型のシェルターにも限りがある。食料が尽きれば、それまでだ」
重力が、反転した。
もう、聞き違えようがなかった。
足元の空にも、頭上の街にも名前がついた。しかし、分かったからといって、足を踏み出せる場所が増えるわけではなかった。
「互いを信じ、支え合う。その絆こそが、何よりも強固なシェルターとなる。そう思わないか」
自分を閉じ込めていた分厚い扉を思った。
父は戻らなかった。安全だと言われた箱の中で、琥珀は誰にも知られずに死ぬところだった。
今は、名前を知ったばかりの人の腕に支えられている。
「今日からお前も家族だ。私が守る」
家族。
その響きが胸に触れた途端、琥珀は唇を噛んだ。何かを言おうとすれば、言葉より先に、別のものが零れそうだった。
「……生きろ。一緒に、新世界を歩もう」
レギーナは琥珀をそっと立たせた。
離れていく腕を、もう少しだけ掴んでいたかった。
カァァァン……ッ!
突然、音と共にその足元で火花が跳ねた。
甲高い金属音。
何が起きたのか分かる前に、琥珀の身体は引き倒されていた。レギーナが覆いかぶさり、白い袖の向こうで、遠くのビルに薄い煙が散った。
「南西のビルだ! 反逆者は抹殺しろ!」
すぐ耳元で、怒声が弾けた。
「そろそろ〝目〟が終わるぞ、急げ!」
琥珀は息を吸った。
吸ったはずなのに、足りなかった。もう一度吸おうとして胸がつかえ、指先が冷たくなっていく。
――お前は喋らずに、やることをやれ。
父の声が重なった。
白い袖を掴んでいた手を離そうとしても、指が言うことをきかなかった。
レギーナが、低く舌打ちをした。
「……まだ生き残りがいたとはな。皆殺しだ」
ついさっき、家族だと言った人の声だった。
身体が再び抱き上げられる。
その腕にしがみつくほか、琥珀には何もできなかった。街の輪郭が白く滲み、ワイヤーの音も、近づいてくる風の唸りも、遠くなっていった。
*
『なぜ撃った!? 少女を巻き込めば、俺たちも女王と変わらない!』
通信機の向こうで、荒い息がした。
『分かってる。でも……ずっと、ずっと待ったんだ。こんなチャンス、もう二度と……』
返事を待たず、吹き込んだ風が言葉を攫った。
割れた窓枠が鳴り始める。ビルの外壁を、白い飛沫が駆け上がった。さっきまで光を返していた海も、赤い塔も、灰色の渦の向こうへ消えていく。
〝目〟が終わる。
暴風が再び吹き荒れた。
瞼を閉じるように、終末の廃墟美はそのひとときの楽園を終わらせた。




