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メトロジェイルの歌姫  作者: 羽月楓


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【第1話】ペンデュラム・シティ

 ガジュ丸の灯りが、足元を滑るように進んでいく。


 その淡いLEDライトに導かれ、琥珀は薄闇の廊下を慎重に進んでいた。踏むたびに、床のアルミニウムパネルがぺこりと撓む。浮いた継ぎ目にヒールを取られそうになるたび、壁に手を添えた。

 

 不意に、不自然な窪みに足を取られた。劣化した硝子がミシミシと割れる感触が、分厚いヒール越しに伝わってくる。

 電球か、蛍光灯の残骸だろうか。あの部屋だけではない。ここにも、床に明かりがある。


 ゴォォと通路の奥で風が唸った。黒いドレスの裾が脚にまとわりつき、冷気が頬を打つ。身を縮めてやり過ごしても、風の音は壁の向こうで膨らみ続けた。外は嵐なのだろうか。何年も閉じこもっていたシェルターには、届かなかった音だった。

 

『コハク、上を見て』

 

 ガジュ丸が高度をあげる。頭上の暗がりに、黄色い線が浮かんだ。規則正しく並んだ突起。その帯が天井に沿って、通路の先まで続いている。

 

『点字ブロックだよ。やっぱり、ここもあべこべだ!』

 

 琥珀は立ち止まった。どうして、と口を開きかけた時、風の切れ間に別の音が聞こえた。

 

 足音。


 自分たちのものではない。

 

「……ガジュ、静かに」

 

 声をひそめ、通路の先を窺った。暗くて何も見えない。けれど、こちらへ来ている。

 

『ここ、地下鉄連絡通路だよ! もしかして、ゲームの中に入っちゃったのかも! ループするかもしれないから、よく見といてよコハク! ほら、出口って看板が逆さま――』


「静かに。スリープ」

 

 琥珀はガジュ丸を両手で包んだ。『スリープモード……』羊の顔が消える。その機体をバッグへ押し込み、胸に抱えた途端、あたりの闇が濃くなった。

 

 銃を持った男。

 ガジュ丸の言葉が頭を離れない。

 

 琥珀は足音のする方を見つめたまま、一歩ずつ後ずさった。脇へ折れる通路がある。そこへ身を隠せれば、やり過ごせるかもしれない。

 

 踵が、硬いものに当たった。

 足元で緑色の光が揺れる。四角い枠の中に、走る人の形。非常口の案内パネル――。

 

 踏み直そうとした足の下に、床がなかった。

 身体が傾く。

 壁へ伸ばした指が空を掻き、背中から斜面に叩きつけられた。息が詰まる間もなく、身体は滑り始めていた。

 

 止まらない。

 靴を突っ張っても、踵が鉄板を擦るばかりだった。片手でバッグを抱え込み、もう片方の手で何かを掴もうとする。指先を継ぎ目が弾いた。

 

 短い悲鳴が、硬い壁に跳ね返った。

 背中に衝撃が走り、ようやく身体が止まった。琥珀は仰向けのまま口を開けた。吸おうとしても息が入らず、喉から掠れた音だけが漏れる。何度かえずいたあと、ようやく冷たい空気が肺に流れ込んだ。

 

 痛い。

 背中も、手も。

 

 バッグを抱いた腕を緩め、指を一本ずつ動かした。動く。それを確かめてから、ゆっくりと息を吐く。 白くなった吐息が、顔の上に留まった。


 風が、止んでいた。

 

 さっきまで通路を満たしていた唸りも、いつの間にか消えている。その静けさの中で、横合いから差す光が、琥珀の目を射た。

 

 眩しい。

 電球の黄色とは違う、白い光だった。

 

 外だ。

 

 その言葉が浮かぶだけで、胸の奥が緩んだ。何年も、扉の向こうにあるとしか思えなかった場所。そこへ、やっと出られたのかもしれない。

 

 光を避けて顔を背けると、黒ずんだタイルの壁が見えた。表面の剥がれた掲示板。その先には、見覚えのある銀色の段が並んでいる。エスカレーターだった。天井に、貼りついているようだ。

 

 琥珀は眉を寄せた。

 段の隣から黒い帯が垂れ、途中でちぎれているのは、きっと手すりだ。その向こうには階段もある。誰も足を載せられない向きで、一段ずつ、腹を見せていた。

 

 掲示板の文字も、出口の表示も逆さまだ。

 身体を起こせば、まともに見えるのだろうか。転んだせいで、自分がおかしな向きになっているだけなのかもしれない。

 

 琥珀は肘をつき、背中の痛みに耐えながら上半身を起こした。

 

 靴の先に、空があった。

 

 青い。


 どこまでも、青い。

 

 地面を探した。道路でも、階段でも、何でもよかった。次に足を置ける場所を探して、視線だけが下へ滑っていく。


 何もない。

 

 爪先のほんの数センチ先で足場が途切れ、その下には、ただ空が広がっていた。その奇観は、彼女の記憶にある世界の輪郭ではない。まるで――

  

 地球の反対側に飛び出してしまった感覚だった。

  

「あっ……」

 

 喉が鳴った。

 琥珀は両手を身体の脇に突き、指を足場の継ぎ目へ押し込んだ。後ろへ下がりたいのに、腰が動かない。


 少しでも重心を変えれば、そのまま心臓を落としてしまいそうだった。

 

 足の下に、空。


 耳の奥で心臓が鳴っている。

 顔を上げる。

 その動きだけで、腹の底が浮くような眩暈がした。

 

 赤い塔が見えた。

 東京タワー。


 何度も見たことがある。見間違えるはずがない。その赤い鉄骨が、遠くの街から下へ伸び、尖った先端を空へ向けていた。

 吊り下がっている。

 

 琥珀の視線は、塔の根元へと引き寄せられた。そこに道路があった。道路の脇にビルがあり、ビルの窓には光が差している。いつもなら頭上に見えるはずの街並みが、大地ごと頭上にあった。

 

 崩れかけたビルが、巨大な氷柱のように突き出している。ねじれた高速道路が街の底を縫い、片側の外れた歩道橋が奈落へぶら下がっていた。建物を這う蔦の先も、同じ青へと垂れている。

 

 見上げると、大地。  見下ろせば、空。

  

 琥珀は自分の手元を見た。爪の先には粉を吹いた塗装がついている。今、座っているここは、地下鉄の出入り口の――屋根の裏側だ。

 

 あの部屋の照明も。通路の点字ブロックも。

 何かが頭の中で繋がりかけ、琥珀は必死にそれを押し戻した。そんなはずがない。そんなことになっていたら、もう、どこにも帰れない。

 

 すぐ後ろで、靴音がした。

 

 琥珀の肩が跳ねる。振り返ると、白い軍服の女性が立っていた。銀糸のような髪に、朝焼けが淡く煌めいている。女性は琥珀の顔を見て、それから、足場に食い込ませた指へと視線を落とした。

 

「ここは危険だ。せっかく助けたのに、もう死にたいのか?」

 

 責めるほどの強さはなかった。道を間違えた子供に言い聞かせるような、静かな声だった。

 

 助けた?  この人が?

 

「わっ……」

 

 わたしは、と言おうとした。ここはどこなのか。何が起きたのか。聞きたいことはいくらでもあるのに、喉が固まり、続く音が出てこない。

 さっきまでガジュ丸とは話せていた。けれど、人の目が自分を見ている。それだけで舌が動かなくなる感覚を、琥珀は知っていた。

 

 女性は返事を待つように、しばらく琥珀を見つめていた。その眼差しの奥には、どこか深い悲しみがあった。

 

「ミナトに世話を任せていたんだが。……まあいい」

 

 彼女は琥珀の傍に屈み、足場の縁から身を乗り出した。銀色の髪が頬を離れ、わずかな風になびく。

 

「まだ時間はあるようだ」

 

 何の時間か、とは聞けなかった。

 

「私はレギーナだ。悪いようにはしない。来なさい」

 

 背中と膝の裏に腕が入った。指を離すのが怖くて、琥珀は一瞬、足場にしがみついた。しかし、その身体は驚くほど容易く抱き上げられていた。

 支えがなくなる。琥珀は咄嗟に白い軍服を掴んだ。

 

 レギーナは片腕で琥珀を抱え直し、もう片方の腕を街へ向けた。そこに取り付けられた金属の装具が、光を返す。

 

 鋭い音とともに、鉤爪が飛んだ。細いワイヤーを引いて空を横切り、遠くのビルの鉄骨に噛みつく。遅れて、硬い音が返ってきた。

 巻き取りの音がする。弛んでいた線が張りつめると、レギーナは確かめるように二度、強く引いた。

 

 琥珀は、その線の行き先を見た。足元を見た。彼女が何をするつもりなのか、分かってしまった。

 

 いや。  待って。

 

 声にならないまま首を振る琥珀を、レギーナは胸元へ引き寄せた。

 

「私を信じなさい」

 

 最後の一歩に、ためらいはなかった。

 レギーナは琥珀を抱いたまま、空へと墜ちていった。



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