【プロローグ】逆さの光
白い光が差している。
指の隙間を零れる光は、まるで小さな天使の梯子のようだ。
伸ばした手の先には、煌めくステンドグラスがある。色とりどりの光を肩に受け、お母様がガットギターを弾いている。弦を爪弾く指。歌うたびにわずかに傾く横顔。膝に頬を寄せれば、
あの優しい匂いがするはずだった。
でも、いつもあと少しのところで。
それは眩しくて、美しくて、ひび割れていて。
脆くて、痛くて、もう届かない。
また、同じ夢を見ている。夢だと分かっているのに、わたしは同じところへ手を伸ばし、同じ歌が途切れるのを待っている。目が覚めたところで、待っているのは昨日と変わらない一日だ。だから、この流れに逆らおうとも思わない。
わたしはただ、惰性で生きている。
*
天井の色が違う。
琥珀は瞬きをした。視線の先に広がるのは、灰色のコンクリート。見慣れた淡いピンク色の天井ではない。息を吸うと、錆びた金属の臭いが鼻の奥に残り、乾いた喉がひりついた。
顔を横に向ける。
ベッドの向こう、部屋の床から照明器具が生えていた。
四つの電球をつけた、古いシーリングファン。羽根の一枚が途中で折れている。残った羽根も動かず、黄ばんだ光だけが壁を下から照らしていた。
……まだ、夢の中なのだろうか。
琥珀は毛布の下で指を動かした。ざらつく布の感触がある。肘をついて起き上がろうとすると、腕の内側が引きつれた。透明な管が、テープで肌に留められている。点滴だった。
病院? どうして。
昨日のことを思い出そうとした。卵型の睡眠装置。ランニングマシーン。棚に積まれた高級缶詰。何年も繰り返してきた朝なら、いくらでも浮かぶ。けれど、ここへ繋がる記憶だけが見つからなかった。
部屋に人影はない。耳を澄ませても、誰かが近づいてくる気配はなかった。毛布を握る指に力がこもる。母が亡くなってから、父の帰りを待つ夜には、いつも――。
「……ガジュ?」
声は思ったよりも掠れていた。返事がない。琥珀は顔を上げ、今度ははっきりと呼んだ。
「ガジュ、どこ?」
『……省電力モード、解除』
枕の陰で、小さな駆動音がした。丸い機体がふわりと浮かび上がる。回転するLEDに、気怠そうな羊の顔が灯った。
『コハクっ、おはよー! もう起きないかと思ったよ。それならそれで、ボクは執事としてキミのご遺体を――』
「ガジュ!」
両手で捕まえると、羽音がくぐもった。ひんやりした球体。その奥で震えている、いつもの機械の感触。
「よかった……。わたし、独りっきりかと思った」
『お嬢様。飛行の妨げになります』
「ガジュ。少しだけ、いいでしょ」
三歳の誕生日に父から贈られて以来、ガジュ丸はずっと琥珀の傍にいた。母がいなくなっても、父が家に帰らなくなっても。この声だけは、呼べば返事をしてくれた。
琥珀はようやく手を緩めた。
「わたしたち、シェルターから出られたのね」
『そうみたい。でもコハク、ここ、変だよ』
ガジュ丸がくるりと向きを変える。
『天井と床が、あべこべ』
つられて見上げた。頭上には何もない、平らな面が広がっている。そこにあるはずの照明は、足元で光っていた。
壁際には錆びたラックが置かれ、薬品らしい瓶が並んでいる。高いところを走る剥き出しの水道管からはホースが下がり、その先に蛇口がついていた。下には、小さな洗面台と鏡が取り付けられている。どちらも周りの壁とは不釣り合いに新しかった。
唯一の扉は、妙に高い。下端と床のあいだが空いていて、出るにはそこを跨がなければならない。ノブも、少し背伸びをしないと届きそうになかった。
「ガジュ。ここへ来るところ、見てた?」
『それは、コハクも眠る丑三つ時……』
ガジュ丸は床の明かりへ漂っていった。羊の顔を下から照らし、声をひそめる。
『銃を持った男が、シェルターのドアをこじ開けてきたんだ』
琥珀の指が、毛布を掴み直した。
『ボクはすぐにキミのバッグへ隠れたよ。すごく怖かったからね』
「……執事なのに?」
『キミの大切な執事に何かあったら大変だからね。そして、たぶんここ――』
羊の口元が、にいっと広がる。球体が、琥珀の鼻先へ滑り寄った。
『敵の捕虜収容所だよお!』
サイレンが鳴った。
琥珀は息を呑み、反射的にベッドから身を引いた。腕に鋭い痛みが走る。引き抜けた点滴の管が揺れ、肘の内側に血が滲んだ。
『〝メ〟の接近! 北千住方面より南下中! 大手町には十分後、到達予定! ハンターは急げ! 繰り返す――』
鉄の扉の隙間で、赤い光が明滅している。何人もの足音が近づいてきた。
琥珀はベッドの陰にしゃがみ込み、腕を押さえた。ガジュ丸も光を落とし、肩の横へ降りてくる。
足音が重なる。扉が開くのを恐れて、琥珀は口をきつく結んだ。
しかし、それらは部屋の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
やがてサイレンも止んだ。静かになった部屋には、通気口を抜ける低い風の音だけが残っている。
足音は戻ってこない。
「……行った?」
ガジュ丸も扉を向いたまま、浮かんでいた。
腕を押さえていた手を、そっと離した。血はもう止まりかけていた。膝の上へ落とした指先が、滑らかな布に触れる。
黒いドレス。
床の光を受け、サテンが鈍く艶めいていた。胸元と肩口に咲く薔薇のレース。首には、琥珀石のチョーカー。こんなところに着てくる服ではない。
これを着た日のことは、覚えている。
最後の食料がなくなった日だ。
第三次世界大戦が始まった頃、父は「ここが世界一安全な場所だ」と言って、琥珀とガジュ丸を核シェルターに入れた。それきり、戻らなかった。
地震のあとに通信が途絶えた。父からの連絡も、外のニュースも届かなくなり、やがて食料の棚には空き缶ばかりが増えていった。最後の一缶を開けた日のことは、覚えている。
ここで終わるのなら、せめて好きな服を着ていたかった。レースを整え、鏡に向かってチョーカーを留めた。空腹で指が震えて、留め金がなかなか掛からなかった。
死に装束のつもりだった。
その服の裾をいま、血のついた手で汚さないように避けている。
「……ねえ、ガジュ」
声にすると、少しだけ息がしやすくなった。
「さっき、〝メ〟が来るって言ってたよね。何のこと?」
『検索してみるよ! 検索モード――現在オフライン』
明るい返事の後には、何も続かなかった。いつものことだ。シェルターの通信が地震で途絶えてから、ガジュ丸は何年も同じ返事をしていた。
琥珀は扉を見つめた。北千住。大手町。知っている地名なのに、そこで何が起きているのか、まるで分からない。
銃を持った男。あべこべの部屋。みんなが駆け出していく。〝メ〟というのは兵器の名前だろうか。
父が閉めた扉の向こうで、世界はどこまで変わってしまったのだろう。
ベッドの傍には、見覚えのあるバッグと靴が揃えてあった。琥珀は靴に足を入れ、バッグを拾い上げた。膝が頼りなく震えたが、立っていることはできた。
「……ここ、出られるかな」
ガジュ丸を伴って、扉へ近づく。しばらく耳を澄ませた。足音は戻ってこない。背伸びをしてレバー式のノブを握り、下へ押し下げた。動かない。
もう一度、体重を掛ける。金属がかすかに鳴っただけだった。
「鍵……」
『コハク、チビ』
「あなたに言われたくないわよ」
ガジュ丸の目が、横に細長く延びた。
「執事なら、もう少し執事らしい言葉遣いでしょ」
『メェ〜〜』
ひどく本物らしい鳴き声だった。こんな時に、と思ったのに、小さな笑いが漏れた。ガジュ丸は得意げにもう一度鳴き、琥珀は呆れて息をついた。
握り締めていたノブから、力が抜ける。その拍子に、レバーがわずかに上へ動いた。
「あ……」
琥珀は手元を見た。そっと持ち上げる。
かちゃり。
あまりにも簡単に、扉は開いた。
隙間から冷たい風が入り、足元のドレスを揺らす。琥珀は扉を押し広げ、高い敷居の向こうを覗いた。先ほど人々が駆けていった通路が、闇に沈んでいる。
ガジュ丸の灯りが、そのほんの数歩先を照らした。
誰かに会えるかもしれない。
銃を持った男がいるかもしれない。
琥珀は一度だけ、背後を振り返った。誰かが寝かせてくれたベッド。床から生えた明かり。待っていれば、誰かが戻ってくるかもしれない。いつまで?……父のことも、そう思っていた。
「ガジュ。離れないでね」
『ボクはコハクの執事だよ』
今度はふざけた声ではなかった。
淡い灯りが、一歩先へ進む。琥珀はバッグを抱え直し、知らない廊下へ踏み出した。
光の届かない先から、風が吹いていた。
あるYahoo!ニュースを見て思い付き、この小説を書きました。地球の自転が速まってきたのは実際の話。2025年7月10日には観測史上最短を記録したというもの。
『ただ自転が速まっただけ』そこから連鎖して起こった世界の変化、そして自転加速の壮大で凄まじい理由まで用意しました。
私の妄想にお付き合いください。




