【第9話】博士の研究
鉤爪が、ビルの梁を捉えた。
ミナトは縁を蹴った。身体が空へ落ち、張りつめたワイヤーに引かれて大きく弧を描く。すぐ頭上を、割れた窓の列が通り過ぎていった。
左腕を、次の足場へ向ける。
金属音。巻き取り。右の鉤爪を外す頃には、身体はもう次の弧へ移っていた。
風が頬を切る。
ミナトの口元に、笑みが戻った。
その時、左の鉤爪を固定していた窓枠が裂けた。
ミナトは慌てず身体を捻り、崩れる枠の下を抜ける。すぐに、右腕から撃ち出した線が、剥き出しの梁を捉えた。
全身が引かれる。
靴底で壁を蹴り、落下の向きを変えた。
「危なっかしいなあ、ミナトくん」
すぐ傍を銀色の機体が並走する。
ホバーバイクの上で、ソラが笑っていた。
「だったら乗せてくれよ」
塔を失った街の探索が始まる。
ミナトは鼻で笑い、次の鉤爪を放った。
「スカイツリーの地下街に、まだ見てない区画がある。ミナトくん、ちゃんとついてきなよ!」
ソラが後部座席を片手で撫でる。
「あとね、この席はシェリーさんと乗るためにあるんだ。男は絶対乗せねえよ!」
*
「シエリな、今、方南町でレールの補強工事しとるらしいわ。六十時間後には、こっちへ来られる言うとったわ」
ヤマサンの前には、ガジュ丸の部品が並んでいた。
放送局のテーブル。菓子皿を端へ寄せた場所に、工具と小さなネジ、それに外されたカバーが置かれている。
琥珀は椅子を寄せ、手元を見つめていた。
さっきから、ガジュ丸の声に雑音が混じる。
泥が入ったのかもしれない。そう言ってヤマサンが腕を捲った時は、少し安心したのだが。
「……これ、どこのや」
彼は一本のネジを摘まみ、組み上がった球体と見比べた。
琥珀の目も、ネジとガジュ丸の間を往復した。
「いや、大丈夫や。かまへんかまへん。……とりあえず、起こしてみよか」
ヤマサンが触れると、回転するLEDに羊の顔が灯った。
琥珀は身を乗り出す。
「ガジュ、分かる?」
『コハク、……ガガ……おはよう』
まだ、雑音が入る。
けれど返事はあった。琥珀はそっと機体を受け取り、胸に抱いた。
「シエリはAIロボット技術研におった人やからな。言っとるさかい、あいつ来てからちゃんと見てもらお」
ヤマサンは余ったネジを、小さな皿へ移した。
「酒場ではな、シェリーいうて呼ばれとる。歌もえっらいうまいねん。せや、気ぃ合うんちゃうか」
琥珀はガジュ丸を撫でながら、その名前を覚えた。
シエリ。ガジュ丸を直せる人。
「今みんなが使うてるペンデュラムも、試作品第一号はあいつが作ったんやで。ワイのマグロリールを改造してな」
琥珀は顔を上げた。
ガジュ丸へ小さく囁く。
『マグロリール?』
ヤマサンの顔が明るくなり、待っていましたと息を吸い込んだ。
「ワイ、昔は一本釣りの漁船に乗っとったんや。でっかいクロマグロを相手にな、人の腕とリールだけで引っ張り合うねん。船は揺れる、糸は鳴る、腕はもうぱんぱんや」
両腕で、見えない竿を引いた。
テーブルのカップが揺れ、琥珀は片手で押さえた。
「せやけど、上がってきた魚を見たら全部吹っ飛ぶ。海の下に、こんなもんがおったんか、いうくらい大きいんがなあ」
琥珀は、レギーナの腕に取り付けられていた装具を思い出した。
身体を支えて唸っていたワイヤー。あれは元々、海から魚を引き上げるためのものだったのだ。
「ミナト兄弟も、よう船に乗ってきよったわ。二人とも、度胸あったで。引っ張られて足元ふらついとんのに、竿だけは絶対離さへんねん」
兄弟。
琥珀はヤマサンを見た。ミナトに兄弟がいることは、まだ知らなかった。
「東京湾沖を、よう一緒に駆け回ったもんや」
ヤマサンの腕が、ゆっくりと下りた。
「あの日まではな」
――最初は、風で橋が揺れているだけだと思っていた。
東京湾アクアライン。
ヤマサンは車のハンドルを握り直した。車体が右へ流れ、戻そうとすると、今度は路面そのものが傾いた。
夕焼けの中、欄干が長く波打っている。
前方では車が斜めに止まり、どこまでもテールランプが並んでいた。
海が、おかしい。
窓の向こうへ目を向けた。
水が引いていく。波が退くという速さではない。湾の水が、どこかへ吸い込まれるように、まとめて動いていた。
黒い海底が現れた。
泥に沈んだもの、岩に貼りついたもの。光に触れたこともなさそうな海の底が、夕陽の下へ広がっていく。取り残された船が係船柱に吊られ、まだ動いている魚が泥の上で跳ねた。
大津波が来る。
そう思った。
海で生きてきた身体が、考えるより先に逃げろと告げていた――。
「高いとこへ行かなあかん、思うてな。引き返したんや」
ヤマサンは紅茶をひと口飲んだ。
さっきまで大きく動いていた手が、カップの取っ手に留まっている。
「トンネルに入ったところで、ひっくり返った」
琥珀は、カップから彼の顔へ視線を移した。
「車が?」
ガジュ丸へ向けた声は、息に近かった。
羊が問いを繰り返す。
「車も。ワイも。……世界ごとな」
キッチンから、油の弾ける音がした。
琥珀は瞬きをした。目の前にはテーブルがあり、温かいカップがある。その向こうで、世界が裏返った瞬間を見た人が話している。
「待っとった津波は、来えへんかった。海はな、引いたきり、戻ってこんかったんや」
琥珀はガジュ丸を抱え直した。
『どうして……ガガ……そんなことが起こっちゃったの?』
*
「あの日、どうしてあんなことが起こったのか。その原因は、十数年前まで遡る」
ソラの声が、埃の積もった店内に響いた。
古い時計店だった。
地下街の奥に残されたその店は、割れたショーケースまで逆さまになっている。ミナトは足元の硝子を避け、壁に取り付けられた大きな振り子時計を見上げた。
文字盤はもちろん逆さまだ。
振り子は片側へ倒れ、ビクリビクリと、まるで脈を打っているようだ。
「僕がまだ、博士の研究所にいた頃の話さ」
ソラは小型プロジェクターを取り出した。
壁の空いたところへ光が当たり、丸い地球と、その中を貫く一本の軸が浮かぶ。
「女王も言ってるだろ。自転が速くなったから、重力が反転したって」
「一日が一時間になった、ってやつな」
「そう。でも、最初からそんな速さだったわけじゃない」
投影された球体が回り始めた。
「最初の変化に気付いたのは、2011年の東日本大震災。あの時は、地球の自転がたった0.0000018秒だけ速くなった。人間には感じとれない程度だったけど、僕たち研究者は、この些細な現象こそ見逃してはいけないものだと気付いていた」
ソラは、球体の内側を指でなぞった。
「地震のたびに地球内部の質量分布は変わった。氷や海水の移動も、自転に影響する。だけど、その後に観測された加速は、既知の現象だけでは説明できなかった」
ミナトは腕を組んだ。
「回りすぎると人間が浮き上がるのか?」
地球の表面から、外側へ短い矢印が伸びた。
「回転する地球の上では、外へ向かう遠心力が働く。それでも、前の世界じゃ、地面へ引く重力の方がずっと強かった」
ソラがもう一本、内側へ長い矢印を引いた。
「回転が速くなるほど、外向きの力は強くなる。しかも、速さが二倍なら、その効果は四倍だ」
ミナトは自分の腕を見た。
「ペンデュラムで速く振られるほど、身体が引っ張られるのと同じか」
「そう考えると分かりやすい」
ソラがなぞると、球体の回転が速まった。
短かった矢印が伸び、内側へ向く矢印に長さが近づいていく。
ソラは、壁へ短い式を映した。
rω² > g
「左が、自転による外向きの加速度。右が重力加速度。この大小が成り立つと、地面へ押しつけられていたものは、そこに留まれなくなる」
ミナトは式を見てから、球体へ視線を戻した。
「どのくらい回れば、そうなる?」
「地球の半径は6,371km。自転周期は正確には二十三時間五十六分四秒だ。計算すると、赤道上では1秒間に465m移動する速さで地球は回っていたことになる」
波打つようなエフェクトで、スクリーンに数列が流れ始めた。ソラは少し早口で説明を進めた。
「重力加速度は9.8m/s²。これに対して、赤道での遠心加速度はわずか0.034m/s²。つまり、以前の地球では人は地面にしっかりと縫いとめられていたということだ」
「そのバランスが崩れてしまった……」
「そうさ。自転が加速して遠心力が重力を超える瞬間――rω²>gという条件が成り立つのは、地球の角速度ωがおよそ0.00124ラジアン毎秒のとき、それを自転周期に換算すると……」
ソラが一拍置き、数式を指で払う。
「一日の長さが、5,067秒――およそ一時間二十四分より短くなったとき、赤道付近では遠心力が重力を上回り始める」
一時間二十四分。
ミナトは、今の一日と比べた。
「もう、とっくに越えてるじゃねえか」
「そうだね」
ソラはスクリーンの地球を横にフリックし、さらに回転を速めた。
「ただ、この式だけで、今の世界全部を説明できるわけじゃない。赤道と東京じゃ条件が違うし、地球の形や重力まで変われば、計算も変わる」
電源オフの電子音とともに、投影されていた光がプロジェクターに吸い込まれた。
「博士は重力反転以前から、その先までモデルを作っていた。もしこのまま自転が加速し、地球の均衡が崩れ、地表から物が離れ始めるとすれば。それがどこから起きて、どう広がるか」
ミナトは、頭上の振り子時計を見た。
木の枠は壁に残っている。しかし、その中で時を刻んでいたものは、もう正しい位置へ戻れない。
「……世界がひっくり返るって、前から分かってたのか」
「起こり得ると考えていた」
ソラはミナトの目をじっと見つめた。
「誰も見たことのない世界を、博士は真剣に数式に落としていた」
二人の間を舞う埃がキラキラと光っていた。
ミナトはもう一度、あの簡潔な式を思い出した。
左が、右を上回る。
たったそれだけの記号の向こうに、引いていった海と、戻らない人々がいた。




