【第6話】地下神殿アーク
その塵芥門は、何を想っているのだろう。
重厚な金属の軋む音が止まった時、世界ごと静寂に落ちたような気がした。
ミナトと琥珀は、音もなくその中へと足を踏み入れる。
途端、目の前に広がったのは、地底に穿たれた壮大な空洞だった。幾本もの巨大な柱が整然と立ち並び、その威容はまるで沈黙のパルテノン。
さらに、地中に埋め込まれた照明のせいでライトアップされている様にも見える。
また、逆さの光。昨日の点滴の部屋と同じ。
そう思った時、琥珀は〝昨日〟という言葉をそう呼んでいいのかさえ迷った。ここは時間を忘れた世界、昨日も明日も意味を持たない言葉だった。
壁を見ると、味気ない打放しコンクリート。冷たさを視覚にまで染み込ませてくる。
しかし辺りには、その冷たさにそぐわない馥郁たる薫りが漂っていた。一帯は鉄と湿気の混ざる冷え冷えとした地下。どこか一角にでも、草いきれのような自然があるのだろうか。
ここは〝地下神殿アーク〟と呼ばれる区画。主に食糧生産を担う、メトロジェイルの心臓部だ。
東京とは少し離れているが、地下鉄から延びる直通の新道が整備されつつあった。
運び屋たちはその新道を使い、ここで生産された食糧を市場へと運ぶことが日々の営みになっていた。
「やっほー! ミナト、久っしぶり!」
沈黙を破ったのは髪をふたつ団子にまとめ上げた陽気な少女、円花だった。そしてその隣に立つ、涼やかな目元の一花。
二人はミナトの旧い友人だ。
「ねえーミナト、もうほんっと退屈なの。レタスもほうれん草も、もう飽き飽き。何万枚の葉っぱを育ててきたと思う?」
「円花、
……それが私たちの仕事」
二人は顔を見合わせ小さく溜め息をついた。
長年の相棒のような手慣れたやりとりだ。
二人の視線が琥珀に向く。
琥珀は一歩引き、おずおずと頭を下げた。そして持ち上げた球体にモゾモゾと告げる。
『はじめまして。コハクです』
どこか真っ直ぐで、透き通った機械音声が少し遅れて発せられる。言葉を代弁してくれる執事、ガジュ丸のお出ましだ。
円花が目を輝かせ、その球体を指でつつく。一同の笑い声が湿気た空間に弾けた。
和やかな雰囲気が辺りを包み、次第に琥珀の口元も綻んでいった。
やがて円花と一花に案内され、琥珀たちは少し大きめのレンタルルームへと招かれる。淡い紫色だ。
入り口には〝放送局〟と刻まれている。
中に入ると、カーテンの隙間から洩れる人工灯が陽だまりを作り、地下とは思わせないような開放感を演出していた。
また、棚には彩色された小瓶やグラスが彩りよく並べられ、その背に虹色の影を落としている。
琥珀が興味深そうに眺めていると、一花が顔を覗き込み、落ち着いた口調で話し始めた。
「このデコレーション、
……全部円花の趣味」
一花は凛とした眼差しのまま、琥珀を優しく包むような口調で続けた。
「瑠璃紺の壁紙に月や星の装飾、
……全部手作り。
自分の部屋を飾るために働く。
……それが円花」
「そうよー、呼吸してるだけならレタスやほうれん草と一緒だわっ。生きるってことは、自分の目に映る景色を、自分のために美しく彩ることなの!」
琥珀の胸に、ひと雫の言葉が波紋を広げた。やはりこの人たちも当たり前のように〝生きる意味〟を持っている。
それを持つものだけが生き永らえるのか、生きているうちにそれを見いだせるのか。
琥珀が人差し指を口元に当てていると、そんな思案顔を見兼ねて今度は円花が顔を覗き込んだ。
「ねえコハクちゃん、これ食べてみて! こないだヤエチカでルッコラ30束と交換したの!」
着色料にまみれた干菓子がテーブルの中央に運ばれた。すると次々と席が埋まり、やがて全員がテーブルに集まったところで、その場を仕切るように一花がゆったりと語り始めた。
「新人のコハクさん、
……ここは初めて?
ここの区画は〝アーク〟。
雨もない。太陽もない」
琥珀が首を傾げていると、その考えを汲んだかのように彼女は栽培エリアの一角を指差した。
「あれを見て、
……地下水と人工灯。
限られた工夫で草花を育ててる。
出来た植物が食糧、
花は贈り物。
……森の薫り。
それはフィトンチッド。
リラックス効果。
ここにいる人達はみんな穏やか。
……優しい。
だから私、ここが好き」
独特な言い回しだが、詩のようで心に沁みる口調だ。そこに、先程とは打って変わって真面目な口調になった円花の声が割り込んできた。
「でも、地下水はいつまでもあるわけじゃない。電力もそう、有限。たぶん、たったひとつ小さな歯車が欠けただけで全体のバランスが崩れていくんだわ」
然り気無い会話の中に、またも容赦ない現実を忍ばせている。
希望の中に絶望があるのか、絶望の中に希望があるのか。
二つのインクは滲み、鬩ぎ合っている。お互いを呑み込むまで消えることはない。
『あれは、何?』
琥珀は窓の外に見える、木箱の山を指差した。
それは小さな山と呼べるほどの大量の箱だった。
「あれは、備蓄よ。ほとんどが、もともと女王が天災を見越して溜め込んでいたものよ。ここは広いし空調もいいから倉庫みたいに使われているの」
円花が答えていると、今度はミナトが割り込む。
「なぁそれより、今日は椎茸をもらいに来たんだ。椎茸の塩焼き! 最っこーだよな!」
「好っきよねー、椎茸。何と交換するつもり? あ! そう言えば、こないだの〝目〟で、ミナトがすごいお宝を手に入れたって聞いたわ!」
この都市では、札束を見せても誰も振り向かない。すでに貨幣の力はほとんど失われ、かつて富める者が権利まで握りしめていた時代は終わっていた。
〝培った経験談を話した老人がテキーラを受け取る〟
〝降圧剤のヒートを子供の為に駄菓子に替える〟
今はただ、生きるための食糧や情報、感情や労働、すべてがそのまま〝価値〟として流通していた。
「宝は、これさ」
ミナトは琥珀の前にしゃがみ込み、静かに目を合わせた。
「頼む。あいつらに、おまえの歌を聴かせてやってくれないか」
琥珀が吃驚したまま動けずにいると、ミナトは一つ呼吸を置き、もう一度だけ彼女の目を見つめなおす。
「……おまえの歌には、価値がある」
その予期せぬ矢は、琥珀の胸の奥に深く沈み込むように刺さった。
〝価値がある〟
それは彼女にとって、これまで一度も与えられたことのない響きだった。
物心ついた頃から、父の命に従うだけの人形のような日々。身の回りの全てが使用人たちの手で整えられ、言われたことだけをこなしていれば、何も考える必要がなかった。
そして13歳。世界が静かに崩れはじめ、核シェルターに押し込められた。
孤独と退屈の無為無聊な部屋で、人工音声のAIロボットとの会話だけが、唯一の〝人間関係〟。
愛された記憶もなく、必要とされたこともないまま、ただ時間に削られていく生命だった。
そこに、〝価値〟という言葉が差し込まれた。
(もしかしたら、わたしもこの世界を構成する欠片なのかも知れない)
知らぬ間に宿っていた小さな種がいつも彼女の心の奥にあった。
いつまでも向き合うことが出来なかったそれが、いま芽吹こうとしている。
琥珀はゆっくりと壁の方を向いた。
誰の視線も感じない方向へ。
――その先へ。
彼女の両手の上で、ガジュ丸が静かに光を点した。




