【第4話】メトロジェイル
冷えきった朝の空気が、扉の隙間に通り道を作ろうと模索する。二人は思わず身を縮こまらせた。
結露した内扉に指の跡が残っているのを見つけ、琥珀はふと思い付いたように〝コハク〟と指で書いてみせた。
「コハクか! よろしくな!」
そう言ってミナトは、隣に〝ミナト〟と書く。「俺の、名前は、ミ・ナ・ト」と、まるで外国人に説明するようなオーバーな表情と仕草に、「さっき聞いたよ」と言わんばかりの含み笑いをして琥珀は見つめ返した。
琥珀はルームの扉を押し開け、一歩、外へと足を踏み出す。
レトロな看板が並ぶ、幅の広い通路。
そこは、かつての地下鉄ホームから繋がる〝逆さの地下商店街〟のようだ。
さらに目に飛び込んできたのは、淡い緑や青の丸みを帯びた立方体の建造物たち。
まるで巨大なマシュマロが並んでいるようだ。
店の内外を問わず、隙間という隙間に押し込まれるように設置されているそれらは、木材の高騰と技術者の枯渇を背景に生まれた、現代主流の建築法〝3Dプリント製レンタルルーム〟だった。
見上げれば、天井に貼り付くように上に壊れた自販機がある。鍵はこじ開けられ、内部は空っぽだ。
逆さのコンビニ。逆さ文字の行き先掲示板。
どれもこれも見覚えのあるもののはずが、天地が反転しただけで、まるで別世界の遺物のように見える。
ここは、〝逆さの世界〟。
琥珀はその事実を、改めて痛感した。
手首を返し時計に視線を落とす。短針は9を指している。
だが、この清々しくもあり、どんよりとも見える風景が、果たして朝の9時なのか夜の9時なのか……もはや分からない。
ここは陽の射さない地下、ましてや一日が一時間になっているともいう。
この滅茶苦茶な世界では、時計はもう意味を為さなくなってしまっていた。
琥珀は小さな溜め息をついた。ふと、近くのレンタルルームから漂ってくる匂いに気付く。この湯気の立つような匂いだけで、すでに胸の奥がくすぐったい。
温かいシチューだろうか……思わず喉が鳴る。
外の世界はあれほど奇怪に反転しているのに、どうやって食糧や材料を手に入れているのだろう。枯渇していないのだろうか。
そんな疑問の中、彼女はシェルターでの自分の暮らしを重ねて見ていた。
食事と言えば、料理と呼べるものはなく備蓄された缶詰ばかり。高級な品でも数日で飽きてしまい、ついには目を瞑り引いて当たったものをしぶしぶ食べていた。
子供の頃に食べた料理長が作ってくれたエスカルゴの香草焼き、もう一度味わいたい。
小さな銀の皿を前に、母と肩を並べて笑った夕餉がふいに蘇った。
お腹が空いた。何か食べるものは無いだろうか。
室内には食糧らしきものは無かった。やはり、この少年を頼るしかないのだろうか。
そのためには、あの通訳が必要だ。
琥珀は片手で扉を押さえながらガジュ丸を取り出し、彼にバッテリー残量を指差して見せた。
「ああ、バッテリー切れだね。それなら、俺のバイクでチャージできるよ」
彼の後ろには、真っ黒に塗装されたアメリカンバイクが停められていた。
長く突き出たフロントフォーク。そして筋肉のように張り出したタンクからは、しなやかな括れがタイトな後部へと流れている。
その逆三角形のボディは堂々と鎮座し、黒豹のような強靭さを醸し出していた。
琥珀は自分よりも頭二つ背の高い少年に、ひょいと持ち上げられリアシートに乗せられる。それでも身長差は埋まらず、彼女は少し頬を膨らませた。
ミナトはそんな小さな仕草に気付くこともなく、こごえる琥珀にそっと自分の革ジャケットを掛ける。
まだ残る体温が、ひどく温かい。
その時、琥珀はルームの扉を開けっ放しにしていたことに気付く。
〝鍵は無いの?〟と手首を回してミナトに問いかけると、彼は人々が集まる方角を指差して説明を始めた。
「ここじゃ、鍵なんて必要ないんだ。近頃は全く犯罪がなくなったよ。あれを見て――」
琥珀が視線を回すと、駅のホームには、赤い鎧に身を包んだ兵士たちが巡回していた。
気霜すら撒かず、飄々と歩く女王直属の部隊「劫火の騎士」。腕章には赤地に白丸の紋。それは「劫火を纏いし純白」を意味しているという。
ここは、〝罪〟という概念が厳しく裁かれる場所だった。嘘も、裏切りも、すべてが罪として断罪される。そして、罪人は〝空に棄てられる〟。
「――だから、鍵なんていらないんだ」
つまりわたし達は、ずっと監視されている。
〝監視〟〝罪人〟
まるで牢獄のようだ。
琥珀は、〝安全な場所、安心して暮らせる〟と書いたレギーナの手紙を思い出した。それをミナトに差し出すと、彼の顔に一瞬険しい影が走る。
「レギーナ。彼女がここ〝メトロジェイル〟を支配している女王だよ」
あの人が、女王?
琥珀は目を見開いた。
まだ記憶に残る、声を荒立てたレギーナの姿。やはりあの気迫は〝女王〟と呼ばれる所以だったのか。
メトロジェイル――それは人々が皮肉を込めて呼ぶ名だった。
東京中に張り巡らされた地下鉄網を繋ぎ合わせ、暴風が吹き荒れる地上とは隔絶した巨大な地下都市であり、そして一人の独裁者〝女王〟によって統治された監獄都市でもある。
ミナトは視線を戻し、表情を緩めた。
「さぁ! ここでの新しい生活が始まる。まずは〝仕事〟だな。この世界には特異な職業が存在するんだ。
例えば、駅の出入り口で発電を担う〝ヨホウシ(予報士)〟
植物や地下水を管理して食糧を確保する〝ヤオヤ(八百屋)〟
機械の修理や土地の開拓を請け負う〝シュウリヤ(修理屋)〟
そして物資を求めて地上へ赴く〝ハンター〟
それぞれが、この終末世界を生き延びるための役割を持っているんだ」
ミナトの口から出た〝仕事〟や〝役割〟といった言葉が、琥珀の胸に小さな波紋を残す。
自分に何かできるのだろうか。
それは不安と共に、お嬢様として守られるだけの世界で育った彼女にとって、これまで聞き慣れなかった新鮮な響きでもあった。
誰かに必要とされること、自分の手で役割を持つこと。そんな生き方を自分は出来るのだろうか。
ミナトがバイクに跨がる。琥珀は戸惑いながらも、そっと彼の服の背を掴んだ。バイクのセル音、続いて地を這うような重低音が辺りを震わす。
ミナトはエンジン音に負けないように声を張った。
「ここらは反転した地下鉄のトンネルで繋がってるんだ! ウォータースライダーみないなうねる鉄の洞窟は、俺たち〝モグラ(運び屋)〟にとっちゃ遊び場みたいなもんさ!」
スロットルが回され、痺れを切らした黒豹が颯爽と走り出した。
「俺の仲間に、トカゲの手でも借りたいって奴がいてさ。そいつに会いに行こう!」
旧・御茶ノ水駅から北へ向かう。
線路が天井を這っている。琥珀はそれを見上げる度に平衡感覚が揺さぶられ、目を逸らした。
沈黙したままの信号機が通りすぎる。もう何年も自分の役目を果たせず立っているのだろうか。
目の奥に残った残像に、彼女は無意識に自分自身を重ねていた。
――――ただ流されて、惰性で生きていた日々。きっと世界中のほとんどの人が、わたしと同じように惰性で生きていたんだと思う。でも世界は変わってしまった。「生き残った千人は、生き残る理由を持った者だけ」。
今もなお生き残っているのは、おそらく〝目的を持つ者〟だけだ。惰性で生きてきたわたしに、今さら生きる理由など持てるのだろうか。
わたしは、生きている?
わたしは、何の理由があって今を生きているの?
琥珀はそっと目を上げた。
ミナト、あなたの生きる理由は何?




